私の生まれは岩手県の雫石町、一才で東京に出てきましたからほとんど東京人です。しかし、母の実家のある雫石には毎年帰省するたびに、向かいの農鍛冶のお店と、隣の蹄鉄鍛冶のお店を興味津々で覗いていたことを思い出します。熊公の小さい頃、昭和30年代は、まだ鍛冶屋さんが鎚を振るっていたのです。「三つ子の魂百まで」というのでしょうか、かなり以前から鍛冶屋の仕事に興味があり、一度やってみたいものと思っていました。
蹄鉄鍛冶の馬の蹄に焼けた蹄鉄を合わせるときのあの匂い・・・・、熊公の学生時代まで店を開いていた農鍛冶のオヤジさんに、「鉈を造ってもらえるのかな?」と、話したら、「鋼が入ってこないんだ、鋼持ってきたら造ってやるよ!!」と、ぶっきらぼうでありながら、時代に押し流されていく悲哀のこもった言葉・・・・。なんだか懐かしく、一つの文化が消えていく悲しさを感じながら思い出します。
蹄鉄鍛冶は競馬の馬達がまだ必要としていますから良いのかな?
農鍛冶は、農家の作業器具の製作、修理に欠かせなかったもののはずです。現代の機械化、大量生産、大量消費の時代に、技を残すことは無いのでしょうかね・・・・。ナイフ・包丁といった物は、有名な作者の方々が文化を引き継ぐのかもしれませんが・・・。
1999年、銀座の書店にふらりと入って、パッ!!と、『鍛冶屋』という文字が目に飛び込んできました。横山 祐弘という方のお話を鹿熊 勤という方が編集された『鍛冶屋の教え』という本でした。この本を手に取ってみてみると、鍛冶作業の「いろは」が書かれてありました。早速購入して、夢中になって読みました。そして、以前からの鍛冶屋願望に火がついてしまいました。
2000年9月、とりあえず知り合いの工場から鋼と軟鉄をいただき、普通の七輪とボロになったドライヤーを送風機として使い、軟鉄に鋼をくっつける「鍛接」の作業に挑戦してみる事にしました。とにかく別々の鋼と地金が一体になって本当にくっつく事を確認したい一心でした。
熊公の住む東京板橋は住宅が密集しています。此処で鍛冶作業したら騒音問題になってしまいます。幸い、登山やスキーを教えてくださった伯父が福島県の須賀川にいて、このお家のお庭は広いし、「いつでも使いなさい。」というありがたい言葉に、自分の工房は須賀川と決めました。工房といっても、フライシートを張るだけの、全くのアウトドアー 移動鍛冶屋です。
2000年9月28日、記念すべき、鍛冶作業第1日目です。まずは鉄が溶ける温度まで出しうるかという挑戦。見事に鉄が熔けました。その時はものすごい感動を覚えました。七輪と炭、そしてドライヤーの送風機で1500度程の温度を出せたわけですから・・・・・。丁度ゲンコツを作った時の手のような形になりました。これは大切な記念品として保存してあります。3000年昔のエジプトやヒッタイトの人たちも、きっと鉄を熔かしたときには心揺さぶられるものがあっただろうな・・・・。と、勝手に想像しています。
初めて熔かした鉄 熔けてゲンコツのようになった軟鉄(ゲンコツ鉄)記念品です
次に鍛接です。普通の七輪は深さはあっても、広がりがありませんから、送風口(羽口)に近いところと、上の方では温度にムラが出ますから、鍛接するのにちょうど良い温度を出せるのは僅か5cm位でした。上下ひっくり返して鍛接しても10cm位のものしか作れませんでした。普通の七輪を火床にするのは無理であることを知りました。
最初の火床 一番最初の作品 反りをとる最中に折れました。
それでも、鋼と地金が一体になる様子を目の当たりにしました。しかし、鍛接温度を見極めることも、鍛接の仕方、要領も知らないで行った作業ですから、鍛接不良個所いっぱいの仕上がりで、しかも反りをとるときにポキリと折れてしまいました。だけど大満足な作業でした。次にはこうしたらどうか、これを準備すると良いのでは・・・・と、次から次へと鍛冶作業の事が浮かぶ毎日が始まりました。ほとんど病気・・・、家人からは呆れられています。
翌年(2001年)6月に珪藻土岩刳り抜きの四角い七輪を購入して2回目の作業。8月、9月にも作業を重ねて行くことで、本当に少しずつですが鍛冶作業が見えてきました。これで、鍛冶作業が自分にとって大きな趣味、生き甲斐にふくれあがってきました。鍛冶屋さんになれるものならなりたい!! 物を作り出すことは本当に楽しいです。鋼と地金の2本の鉄の棒が火床の炎と、金床と鎚の間で一体になり、一つの形をなしていく様子は何度やっても飽きないです。それに、鋼の見せる生き物のような変化、鉄の神秘の世界に引き込まれてしまいます。
自分は鍛冶の文化を引き継げるほどの者ではありませんが、自己満足でも良いですから、鍛冶の世界を楽しみ、出来れば日本中の人にそのことを知ってもらえたらと思うようになりました。試行錯誤を続けての鍛冶作業、これをネットに載せることできっと仲間が出来るのでは・・・・。これがホームページ開設の大きな理由です。
須賀川までは車で3時間、往復の高速料金+燃料代は15000円、そうそう簡単に作業は出来ませんが、休暇を活用して鍛冶作業を続けています。そして、次の作業の日取りを決めると、仕事がどんどんとはかどります。ワクワクするものを持つことは元気・活力を得ることになるのですね!!
現在はこのホームページを通して鍛冶作業仲間が増えて心強いです。特に東京にお住まいの幸光さんには、本当にお世話になっています。何とお礼を言ったらいいか・・・。
熊公は、呆れながらも鍛冶作業に行かせてくれる家族、受け入れてくれる伯父、そして、鍛冶作業の仲間からの貴重なアドバイスによって鍛冶作業が続けられています。皆さんに支えられて作業が出来ていることを感謝します。本当に有り難うございます!!
このページは「熊公の独り言 T」の『鍛冶屋願望』の焼き直し、鍛冶作業記録の巻頭言とさせていただくものです。これを書いている2004年、鍛冶作業を始めて5年目を迎えます。昨年夏に鍛冶屋さんに直接指導していただく機会もあり、秋からの作業は今までと違い、一つの規範をもって作業するようになりましたが、まだまだ試行錯誤の世界です。体力が続く限り、鍛冶作業を続けていこうと思っているこの頃です。
次ページからは熊公の試行錯誤の鍛冶作業の記録です。どうぞ見てやってください。よろしくお願いいたします。
(2004.03.20.)
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