U部隊は征く

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2023/08/06 17:59

 

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U部隊は征く

これは父の戦友会の記念文集の題です。昭和471031日発行。1972年ですからもう半世紀前の約

370ページの非売品です。表紙には赤紙、即ち臨時招集令状がはさんであります。私の父が受け取った

時どうしても拒絶できなかったと言っていたものです。他の多くの人についても同じだった事でしょう。

この本には父達の部隊の召集から復員まで約三年間の行程が分かり易い絵や写真で示されています。

全編は

隊の編成

マレー編

ビルマ編

随筆

より成っています。本の大半は会員からの随筆ですが私は隊の編成からビルマ編まで読んだ所です。

 

これに合わせて

長尾唯一著 玉砕 日本文化社

を読んでいます。これは悪名高いインパール作戦において「死守」を命ぜられたビルマ北部の拉孟、及

び謄越両基地の守備隊の全滅を扱ったものです。同じく死守を命ぜられたミートキーナの守備隊は現地

指揮官の水上少将が独断で撤退を命じたので玉砕は免れたものの約4千名の内生還者は7百名そこそこ

でした。

 

これらの書を読んで色々分かりました。

皇軍はシナ事変と矮小化した日中戦争で完全に行き詰まり(南京虐殺に端的に現れた)、苦し紛れに米英蘭

仏に対して太平洋に戦線を拡大した。宣戦布告の前に帝国海軍は米軍のハワイ真珠湾基地に奇襲攻撃を

かけ「大戦果」を挙げた。真珠湾奇襲の戦果は泥沼のような日中戦争の行き詰まりに淀んでいた国内の

重苦しい空気を一挙に吹き飛ばした。しかし日本全国で行われた提灯行列に狂乱した人々のどれだけが

その意味を理解していたであろうか。

 

同じくアジアにおいて大英帝国の海軍力の要のプリンス・オブ・ウェイルズとレパルスの両戦艦が皇軍

の飛行機隊の攻撃で沈没させられ英軍と英国政府は虚脱状態に陥った。

 

マレー半島に上陸した日本軍は南へ快進撃を続けシンガポールを攻略して短期間に英軍を無条件降伏さ

せた。これは35千人の日本軍が135千人の英軍を降伏させるという快挙であった。しかも装備は

日本軍は貧弱、英軍は遥かに勝れていた。

 

父達のU部隊の任務は輸送であったが、シンガポールでおいてそれまで使っていた老巧化した自動車は

全部捨てて、新たに英軍から鹵獲した最新鋭の自動車で輸送力を増強一新した。

 

マレー作戦の総司令官山下奉文は「全軍に告ぐ」布告の中で「勝って兜の緒を締めよ。」と説き軍規の厳

守を命じたため、勝ちおごる兵隊の無法行為も殆ど無く、住民は直ぐに戻って経済活動が再開した。

 

父達の部隊の中ではシンガポールの陥落で戦争は終わるという噂が飛び交い、大きな期待を抱かせたが

それも空しく、部隊はビルマへの転戦を命じられ列車でマレー半島を北上してタイ国を経由してラング

ーンに集結した。

 

ビルマ作戦の目的は中国の重慶に根拠地を置いた蒋介石軍に対する英領インドからの英米軍の物資援助

を遮断する事であった。ビルマにおいては日本軍は得意の進撃作戦でその大半を占領していたが、戦略

的には完全に劣勢だった。何故なら制空権は完全に敵に握られていたからである。敵機からの攻撃を避

けて昼間はジャングルに隠れ、夜行動するようでは土台最初から無理がある。第二次世界大戦の鍵を握

る兵器が飛行機である事は帝国海軍の真珠湾奇襲で証明されたたが、その教訓はビルマでは全く生かさ

れなかった。否、活かしようがなかったのである。大日本帝国にそんな産業力は無かったから。結局日

中戦争と同じような泥沼に陥った皇軍の打開作戦は前記太平洋への戦線拡大と同様なものであった。即

ちインパール作戦である。

 

インパール作戦は補給の困難から現地日本軍司令部の中でも反対論が多かったが、それを押し切ったの

が牟田口廉也中将であった。彼は上記マレー作戦でシンガポール陥落を実現した部隊の司令官であった。

日中戦争の切っ掛けとなった盧溝橋事件においては現地軍の連隊長であったと言う。マレー線での快挙

が余程成功体験になったのか「急進撃」の信奉者であった。

 

負け戦からの起死回生を狙うインパール作戦において兵隊は12日間の携行食糧を支給された。マレー作

戦と同じく「急進撃」によりインパールを落とせば幾らでも食糧はあるという事だろう。ところが現実

にはその前に急峻なアラカン山脈を越えて行かなくてはならない。道なき道の補給手段は水牛。今から

思えば誠に浅はかだが、盧溝橋事件の当事者である当将軍は「俺が始めた戦争は俺が終わらせる」と豪

語し反対を押し切って強引に作戦を強行した。

 

インパール作戦の最前線で戦った兵士達の記録は全く涙と怒り無しには読めません。「死守」命令を守っ

て「玉砕」という名の全滅に終わった前述の拉孟、及び謄越両基地に父達のU部隊は何回も夜間輸送を

行ったした事が記録されています。

 

インパール作戦の失敗の為に日本軍は総崩れになり、父達はタイ国を目指して山の中を何日も彷徨いま

した。落ちている靴を拾って中の骨を捨てて平気ではいたとか、父が蛇を捉えて竹に刺し夜現地民が逃

げた民家の中で囲炉裏にあぶっていたら戦友がやって来て皆で大喜びで食べたとか言っていました。

 

広島原爆記念日

本日8/6は広島に世界初の原子爆弾が炸裂してその悪魔的な破壊力を示してから78回目の記念日です。

TVで記念式典を見ました。核兵器は運搬手段が無力化されれば全く無用の長物となります。日露戦争

時には大砲、機関銃、戦艦が戦争の切り札でしたが、第二次世界大戦時には飛行機でした。今は無人機、

AI,宇宙技術です。人が宇宙旅行に頻繁に出かけようという今日核ミサイルが時代遅れなのは明らかでは

ないでしょうか。

 

平和を守るには戦争を知らなくてはなりません。特に子供や一般人などの非力な被害者の事を。第二次

世界大戦を直接知る人々はもう大半は鬼籍に入られました。戦争の体験者の証言や戦争の記録を正しく

保存し、研究する事が必要不可欠ではないでしょうか。

 

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+ 市吉

+ 二十一世紀を楽しく生きよう会

+ HP ;   http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/

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