差出人:   Osamu Ichiyoshi <osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp>

送信日時:             2020926日土曜日 13:41

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件名:      十勝・日高旅行報告

 

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提案し研究する会です。研究しながら理想の二十一世紀世界を実現しましょう。

 

四連休を利用して帯広を中心に十勝地方を回り、帰りは南下して襟裳岬を訪ね、日高地方の南岸道路を

走って苫小牧から道央高速路に戻って札幌に帰りました。主な印象は次の通りです。

 

十勝平原は広大な畑作地帯

広大な平原、真っ直ぐな道、境界林で区切られた広い畑や牧場、機械式農業、十勝は米国やカナダの農

村に似た印象です。広大な地域ですが川が少なくどこも畑作です。先に旅した旭川と札幌間の空知、上

川地方は石狩川の水を利用した水田が多かったのと大きく異なる印象です。

 

北海道の開拓

はどこも大変な苦労がありました。原始林の伐採と鍬入れ、雪に閉ざされた厳寒の長い冬、春にはブヨ

の大群に、夏にはバッタの大群に悩まされ、生き残るだけでも大変でした。北海道の道路や鉄道などの

社会基盤の建設あるいは炭鉱等の鉱山開発には囚人や土工(タコ)等の強制労働が長年強行された事も忘

れるわけにはいきません。また土地や官営事業の民間への払い下げも極めて不公平なものであり、農業

も結局は大地主と小作人という明治特有の社会構造になってしまいました。

 

帯広市の百年記念館

で十勝地方の開拓史について学ぶ事が多々ありました。最初は開拓使による屯田兵など官主導の開拓が

行われましたが、開拓の大本は民間による開拓であり、東北や北越、四国などから新天地を求める人々

が入植しました。注目すべきは事前調査と事業計画に基づく開拓団を結成して各地に入植した事例です。

 

晩成社

静岡県の豪農であった依田勉三とその友人の渡辺勝、鈴木銃太郎を中心に1882(明治15)に結成された会

社です。翌明治155月に一月の長旅の末に今の帯広市のある地域に入植しました。しかし野火やバッ

タの大群、旱魃、冷害など開拓は困難を極めました。更に事業方針を巡る意見の違いも出て来て後に鈴

木、渡辺は晩成社を離れてそれぞれ現在の芽室町、音更町地方の開拓に転じました。それでも晩成社は

半世紀にわたり事業を進め50年の満期を以て解散しましたが、帯広地域の開拓に大きな足跡を残しまし

た。

 

興復社

二宮尊徳の報徳思想を実践する目的で1887(明治10)に福島県中村(相馬市)で発足しました。明治23年、

尊徳の孫の二宮尊親が社長となり、北海道開拓事業を企画し、明治30年に牛首別原野(豊頃町)に入植し

ました。こちらは順調に入植者が増加し、明治41年までにほぼ計画通り850haを開墾しました。注目

すべきはこの事業の目的が小作人を土地を持つ自作農に育てる事であった事です。

 

積善社

1830(天保元年)生まれの医師であった関寛(ひろし)72歳の時に札幌農学校を卒業した四男の又一と

共に陸別の斗満原野の開拓に取り組みました。上記興復社を見学して自作農育成を目的として興したの

が積善社です。関寛は1912(大正元)に陸別に没しましたが死後、4,000haを越える農場の殆どが小作人

に解放されました。

 

私は有島武朗が羊蹄山の麓にある広大な農場を小作人に解放したのをロシアの文豪L.トルストイの影響

を受けた特殊な例と思っていましたが同様の思想を持ち、且つ自ら開拓事業を行い、それを実践した人々

が他にもいた事を知り意を強くしました。

 

神田日勝

1937年、東京に生まれました。東京大空襲で財産を失った一家は十勝の鹿追町に入植しました。彼等

が現地に着いた翌日に終戦となりました。その地の開拓の困難は大きく、兄は東京に戻り苦学して東京

芸大に入りましたが、日勝は決意を以て農業を続ける傍ら兄に習って絵を描き始めました。1970年に32

歳の若さで病死しました。

 

農業をやりつつ絵を描く生き方に私は共感を覚えました。更に印象的だったのは空襲で財産を失った神

田家が北海道に渡ったのは国の政策でもあった事です。残念なのは国の配慮が戦争の最もか弱い被害者

である戦争孤児に到らなかった事です。夜には上野駅を埋めた「浮浪児」の群れが政治屋や役人の目に

入らなかった筈はありません。著者の金田茉莉さんから頂いた「かくされてきた戦争孤児」(講談社)を私

はなかなか読めません。孤児の身になると絶望を感じます。私達の三歳になる孫達と比べてたまらない

気持になります。

NHK大河ドラマ「なつぞら」の予告で「北海道の牧場に引き取られた戦災孤児のなつ」というのを聞い

て嘘っぽいと思い、ドラマを見る事もありませんでした。そういう事例も或いは有ったのかも知れませ

んが、国として戦争孤児救済を構想する役人も政治屋もいなかった事に私は日本国の欠陥と課題を感じ

ています。

 

襟裳岬

に立ち海を見ればここが日高山脈の海に落ちる端点である事がよく分かります。海中をなおも数km

山脈が続いているそうです。ここは強風の名所で風力発電があちこちに見られます。襟裳岬は以前NHK

Project Xで紹介された通り、地域の樹を切り尽くして砂漠化が進み、森真一の唄にあるよう「何も無

い」所になっていました。魚もいなくなり危機感を共有した地域住民が一致団結して緑化事業を始めま

した。撒いた草の種を昆布の切れ端で保護して根付かせ、植えた木を防風柵で保護する等の努力に

よって海岸には見事な防風林が育ちました。注目すべきは森の復活と同時に昆布や魚などの収穫が飛躍

的に増加して来た事です。

 

日高の南岸道路

日高の海岸まで山が迫り、殆ど垂直に海に落ちており所々に漁村がある他はずっと道路が続いているだ

けです。日高は人が居住しているのは縁の部分であり内陸の大半は山々でヒグマを始め原始の自然が残

っているのであろうと思いました。

 

自動車交通システム

の進歩に感心しました。北海道の道は真っ直ぐなので気づけば時速80km程度にはすぐ届いてしまい

ます。GPSと地図情報を結んだNavigationのおかげで全く道に迷う事もありませんでした。4日間で

769kmを苦も無く走破しました。道路に並行して走る鉄道の日高本線は今休止中です。人口密度の低い

広域を遍く覆う交通網として鉄道の時代は終わったという感じがします。

 

自動車のエンジンについて

今回使った車はおそらく一回の給油で軽く1,000km程度は走ると思います。未来のエンジンとして話題

になる電気、水素についてガソリンエンジンに匹敵するものができるか疑問です。水素も電気も大量に

小さな容積に詰めるのは困難です。仮令詰めるにしてもそのためにenergyを使っていまいます。全体的

EPR (Energy Profit Ratio)からみれば電気や水素がガソリンにとって代わるのは困難だと思いますが、

皆様如何思われますか。

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* 市吉 修   Osamu Ichiyoshi                    

* 二十一世紀を楽しく生きよう会                    

* Human Network for Better 21 Century      

*  http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/

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