義兄の葬式に思う

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昨日義兄の葬式がありました。

場所は保土ヶ谷の安楽寺です。ここは真言宗のお寺で開山は室町末期天文四年(1535)、弘弁上人によると

あります。お寺は東海道に面した傾斜地にあります。下の国道の交通騒音が奇妙に静寂の感を出してい

ますね。ここの本尊は阿弥陀如来坐像で平安末期の製作だそうです。

 

人の死に接すると色々な思いを抱きます。私達は義兄の死まで17日間病院に見まいに行きました。言葉

ははっきりしないながらもかなり意志疎通ができましたが、最後の頃は呼吸困難になり、酸素を吸って

も血中酸素濃度は90%以下になっていました。酸素吸入をすると脳が酸素は十分あると誤解して呼吸を

さぼる結果血中炭酸ガス濃度が上がり、血液を酸性にする。それは体に悪さをするのですね。最後に見

た呼吸では吸うばかりで殆ど吐く事をせず血中酸素濃度は90%以下、語りかけても応答はありませんで

した。本人は何を思っているのか知る術もありません。その呼吸状況を見て生きている者の深呼吸の効

果を思いました。即ち息を吐ききる事により血中炭酸ガス濃度を下げて血液の酸化を防止する。それは

健康に有益ではないでしょうか。

 

義兄はもはや過去の世界に行ったわけですが、実は我々は厳密には皆過去の世界にいると思います。天

文学では過去の世界しか観測する事ができません。一番近い星でも見えるのは何年も前の姿です。TV

見ている画像もラジオと比べると5,6秒前の過去である事が分かります。それどころか今現在眼前にある

事も目から視神経を通じて脳に信号が脳に伝わり認識するのに時間がかかっています。

 

万物は未来はおろか現在も厳密には認識する事が出来ない。しかし人は過去を記憶し、未来を予測する

事ができる。この意味で人は時間を超越し、故人も未来人も現在していると言えるのではないでしょうか。

 

現在に

過去も未来も 存在す

時の流れに  止む時は無し

 

死は生の 終わりにはあらず

死は生の 始まりにあり

死せざる者は 生まれざるなり

死を悲しみて 生を喜ぶべし

死は生の 前にはあらず

死は生の 後ろにぞある

前に進まば 常しえに生きむ

 

生まれる前は 何処にやある

何処にもあらず 何処にもある

命を受けてぞ 一個体となる

死して後は 何処にか行く

何処にも行かず 何処にも行く

命を返して 無辺に帰るなり 

 

Where was one before birth?

Nowhere but everywhere

At the start of life

One turns to a body

Where goes one after death?

Nowhere but everywhere

One leaves the body and

Returns home for ever

 

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+ 市吉

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