世の中は根本的に変わり得る

 

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2024/08/04 23:18

 

転送歓迎

世界の平和と繁栄のために

意を発し、想いを語りて世に現しませう。

 

本を誤ればすべてを誤る

前回紹介した本 子どもに伝える太平洋戦争史4 (岩崎書店)p307

座間味島、阿嘉国民小学校の児童80人は先生と一緒に夜間切り込み隊に参加し幼い声を振り絞って突撃

し、全滅しました。翌朝砂浜には運動靴が散らばっていました。、、、伊江島では女も切り込み隊に参加し

ました。

 

サイパン島にはバンザイcliffと呼ばれる絶壁が有ります。米軍の「死ぬな」という拡声器の声にも係わ

らず多くの民間人が波音荒い海に飛び込んで自殺した所です。

 

本を誤ればすべてを誤る。皇国史観に縛られ「国体の護持」にこだわり終戦の時期を逸した大日本帝国

は根本的に間違った帝国でした。皇軍は国民を守るどころか反対に国民に強制して軍隊を守らせたので

す。特に沖縄ては中学生をも鉄血勤皇隊に、女学校生をひめゆり部隊に動員して多くの尊い命を無駄に

殺してしまいました。多くの島民が死亡し中には軍によって自殺に追い込まれた場合も少なくありませ

んでした。

 

軍隊においても究極の愚としか言いようが無い特攻に駆り出されたのは今でいえば高校生から大学下級

生の子供でした。しかも実際は強制なのに形式は志願にして軍人は責任を免れる道をちゃんと用意して

いました。「俺も必ず後から行くから」という上官の言葉を実行したのは総責任者の大西滝次郎中将くら

いのものでしょう。明日から始まる甲子園球場の高校野球を見るといつも私は特攻隊員の事を考えてし

まいます。

 

太平洋戦争が昭和天皇の玉音放送でピタリと止んだのは天皇の権威だけでなく何より日本国民が戦争に、

そして政治宣伝に飽き飽きしていたからでしょう。玉音放送と同時にさっぱりとカイゼルひげを剃り落

とした軍司令官もいました。同時に軍や役所では証拠隠滅のために書類の焼却に狂奔しました。それは

後世に対する深い罪だと私は思います。

 

米軍が日本に進駐して驚いたのは日本人の従順さでした。「生きて虜囚の辱めを受けず」「敵前逃亡は死

刑」教育を叩き込まれた日本人の戦いぶりは米兵には恐怖でしたから。初めて特攻攻撃を受けた時には

精神に変調を来した米兵もいたそうです。

驚いたのは日本人も同様です。「鬼畜米英」と聞かされていたのに進駐軍は人間に他ならず、むしろ陽気

な文化の人達でした。特に子供はすぐに慣れて米人からchewing gumcandyをもらって大喜びでした。

 

日本人は戦争中に英語を禁じられ野球用語もstrikeをよし、ballをわろしと唱えさせられ、歌手のDick

ミネはその芸名で歌うのを禁じられました。本人が三根ひろしでは歌えないと言っていました。

 

その反動で戦後は英語boomが沸き起こり、コソ泥が警官に捕まった時「Oh, Mistake!」と言って新聞

記事になりました。

 

私が高校で英語を習った先生は戦前は会社員だったが戦後、奥様の郷里に引き上げてこられた方でした。

その先生が言われたのは「太平洋戦争の終戦で世の中が根本的に変わり得る事を経験した。又そのよう

な時に役立つのはその人が身に付けた知識や技能だけである事を知った」と言われていました。

 

私はその先生にたいそうおせわになり、英語が大好きになって大学四年生の時給付型奨学金をもらって

一年間米国、Delaware州立大学に留学しました。そこでも又Host familySheets家の皆様に大層お

せわになりました。Mr.Sheetsは第二次世界大戦では戦闘機のpilotとして太平洋で日本軍と闘った方で

した。沖縄陥落後は連日伊江島から九州方面に出撃されました。特筆すべきは日本の撃墜王菅野大尉を

Sheets大尉が南九州で撃墜した事です。尤もその時菅野大尉の機関砲が故障していた事が分かっている

のでMr.Sheetsは幸運だったと思います。またSheetsさんは原爆のきのこ雲も目撃されたそうです。

また終戦後どこかの島に飛行機で着陸したら現地民との間で忽ち物々交換が始まったそうです。

 

私はMr.Sheetsから一冊の日本人の従軍手帳を預かり日本に持ち帰りました。それをノートに手で書き

写して同時に英訳したものをSheetsさんに送付しました。本物の方は私が1973年に就職で関東地方に

移住した時厚生省援護局に持って行き、持ち主へ返してもらえるよう依頼しました。そして何とそれが

実現しました。持ち主は鈴木さんという元少尉の方でした。私はいちどだけ鈴木さんと電話で話した事

がありますがニューギニアで鈴木さんの部隊は殆ど全滅だったそうです。

 

私は結婚して娘二人ができてからも米国出張のたびにSheets家を訪問しました。1982-84は私が米国勤

務となり家族も一緒にワシントンD.C.郊外に住んだ二年間にも何回か家族でペンシルバニア州の

Sheets家を訪問しました。Sheets夫妻はいつも孫達が来たように歓迎して下さいました。私達が帰国し

てからも米国出張は私には外国に行くという感じはありませんでしたね。毎年12月に入ると直ぐに

Xmas cardsを書き始めないと間に合わなくなる状況が長く続きました。

 

今はXmas cardsもほんの数枚、海外の友人の大半は鬼籍に入ってしまわれました。

 

以上を振り返ると思います。世の中は根本的に変わり得る

 

私は1948年生まれです。それは太平洋戦争の終ったほんの三年後です。戦前なら軍国主義教育、鬼畜米

英宣伝、日本国民はあまりにも海外の事について無知でしたね。

 

私は幸い戦後の平和国家日本で育ち、良い英語の先生の薫陶を受けて言葉の壁は殆ど消失して海外、主

として米国の友人達も沢山でき、長い付き合いが今も続いています。今日ではInternetを通じて瞬時に

大量の情報を交換しています。今毎日私達に感動を与えているパリのオリンピック競技の様に国境を越

えて諸国民が直接交流する事が今後の平和と繁栄の世界を実現して行くための確かな道だと思います。

 

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+ 市吉

+ 二十一世紀を楽しく生きよう会

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