きうす周堤簿と白老ウポポイ訪問記

 

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2022/09/04 23:11

 

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観光バスで縄文遺跡と白老ウポポイそれに仙台藩陣屋後を訪れました。時間的には数千年に渡る歴史で

す。

きうす周堤簿は今は森の中ですが当時は海に近い低湿地帯で魚が豊富で食糧が豊富だったようです。周

堤墓は村の共同墓地です。掘った土を高く積み上げて円形の共同墓地を作っています。酸性土のため骨

は残りませんが副葬品が残っています。各種の石器が多いようです。ここから分かるのは当時の社会は

平等な社会であった事です。このような周堤簿が10か所程発見され、調査が進んでいます。

 

ウポポイは別名民族共生象徴空間でポロト湖という湖のほとりに造られた広大な博物館と公園です。

ポロとは大きいという意味です。三十分程の民族音楽と舞踊も鑑賞しました。音楽も踊りも新鮮でした。

半世紀以上前に小学校で見たものの記憶は希薄ですがなんとなく重なるところもあります。

 

ここではアイヌ語が公用語という事ですが、それを実際に母語としてしゃべる人はいないようです。学

芸員に昔私が小学生の時聞いたアイヌの歌の意味を聞くと

 

ぴりか、ぴりか  (気分が良い)

タンと しり ぴりか (今日 様子 良い) 

いなん くる ぴりか 

ぬんけくすねー

ぬんけくすねー

 

後半の意味ははっきりしませんでした。アイヌ語に詳しい方がおられたら教示下さい。

 

仙台藩陣屋跡は資料館があり館員の方が詳しい解説をして下さり、また外の陣屋跡を案内して頂きまし

た。ここは南下するロシアに対抗するため幕府が東北諸藩に命じて蝦夷地を分割付与して守らせたもの

で仙台藩は遠く択捉まで担当しました。白老がその本陣でした。その面積は33万平方米に及ぶ広大なも

のです。いまは構内に桜、もみじ、栗などが植えられ地域の公園としても親しまれています。

 

この陣屋の建築に於いては原住民のアイヌ人の協力を得て迅速に行われました。ちゃんと給料を支払っ

たという事です。前回紹介した後に北海道稲作の祖となった中山久蔵は仙台藩士の部下としてここに何

回か来ていたのですね。ここは戊辰の役で仙台藩が朝敵とされたために明治維新の前に藩士は撤収して

以後無人の城となったそうです。

 

明治維新の後朝敵とされた仙台藩の人々が有珠や室蘭、登別などに入植したのは白老陣屋の歴史が一つ

の要因だったと思います。私は有珠の亘理藩の人々と原住民の関係は良かったという印象をもっていま

す。この点小笠原さんから聞く日高地方のアイヌ人の様子とは多少違うのではないかと感じますがどう

でしょうか。

 

人間は理想として知性を、実際において偏見を持つ人間である

と私は思います。何週間か前に古物店で昭和32(1957)に出版された北川桃雄著「日本美術物語」を買

いました。ボロボロですがその冒頭に、この日本列島に、、一番古い、、まだ田や畑をつくる事をしらず、、、

魚を釣ったりして貧しいみじめな生活をおくっていました。わたしはここに違和感を覚えました。現在

では縄文時代の人々はむしろ豊かな生活をしていたと考えられています。何より社会的不平等が無く

人々が助け合い、土器の発明により定住が可能になり、交易を通じて生産技術の発達が著しかった黄金

時代だったと私は考えています。中国には昔から人間の黄金期は遥かな過去にあったという思想があり

ましたが全く同感です。人間が惨めになったのは農業の始まり、階級の分裂、身分社会の出現、即ち文

明以降ですね。特に戦争はその典型例です。誰もが嫌がる戦争が何故起きるのか、それは文明によって

社会が抑制の効かない政治権力に統治されるようになったからです。誠に文明以降の人類史は戦争史ですね。

とは言え、それに気づくのもまた文化の進歩によるものでもあります。J.J.ルソーが社会契約論に到った

のは北米原住民の社会から人類史の自然状態を想定しての事でした。私も社会経済政治の問題は原始時

代を基にして考えています。何故なら人はそこから出てそこに帰るのですから。

 

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