差出人: OsI [osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp] 送信日時: 2017年11月26日日曜日 21:52 宛先: 件名: 認知症について一考 転送歓迎 配信無用の方はお手数ですが返信願います。本MLは会員の紹介により加入する会員の自主研究会です。返信 または全員へ返信により意見交換をお願いします。二十一世紀世界研究会とは「人が全国どこでも働き、生涯豊か に生きられる世界」を提案し研究する会です。研究しながら理想の二十一世紀世界を実現しましょう。 認知症 私は両親が死の直前まで頭は確かだったので体験はないのですが認知症は介護する家族の負担も大変で、高齢 化社会ではますます重大な問題になりつつあります。私が認知症に興味があるのはそれが人間の知性について何 か語るものがあるように思えるからです。 何が認知症か 典型的な症状は以下のようなものだと思います。 (1) 記憶力の低下 ついさっきご飯を食べた事を忘れる。ものを置いた場所を忘れる。ある事をしようと移動している途中で何をしようと していたのかを忘れる。人の名が想いだせない。 (2) 一つの観念に凝り固まり他の見方ができない。 個人の認知症でよくあるのは自分の財布が見つからないと「嫁が私の財布を取った」と決め付けるパターンです。 スペイン文学の至宝、ドン・キホーテの主人公は正義感にあふれ、物事の道理もわきまえた人物ですが、中世騎士 物語を真実と信じて疑わない事が普通人と異なるところでした。 人は誰でも多少とも認知症? 以上の症状は私にもよくあります。例えば人や事物の名が思いだせない事は良くあります。認知症と違うのは名は 思いださなくてもその人や事物の内容はしっかり把握している事です。たいていの場合名も思い出しますが、その 時手がかりとなるものがあり、それを吟味すると記憶の構造をかいま見る気がします。昔米国で見た映画のある場面 を思い出す時言葉は日本語になっていた事があります。 社会的認知症? 政治や裁判の討論を聞くと同じ事でも正反対の見方があるものだと感心します。それが問答無用と暴力に訴えると 紛争や戦争になります。現在も世界に数多くの戦争がある事を思うと人間社会は全体として認知症ではないかと疑 いも生じます。戦前、戦中の事を戦後振り返って日本が「集団発狂していたとしか思えない」と書いた司馬遼太郎の 言うとおりです。 今日の夕方NHKで米国、ロシア、中国はロボット兵器を開発していると報じられましたがこれこそ狂気ではないでし ょうか。米国は今でも多数の無人攻撃機を遠隔操作してアジアで戦争しているそうですがそれは戦争ではなくテロ ですね。それを称して「テロとの戦い」とは狂気そのものではないでしょうか。 読書百篇、意自ずから通ず これは朗読の効果を端的に表す格言です。論語の素読、お経の読経など伝統的な学問の方法です。これは特に 外国語の学習に当てはまる気がします。最初はちんぷんかんぷんだったものが何回も読んでいるうちに段々意味 が分かってくる。これは人間のあらゆる技の習得、芸道の修行に通ずる学問の正道だと思います。分かってくる過 程で無数の異なる解釈や疑問が生じますが、それこそ学問というものでしょう。 現在の日本における教育では学校ばかりか塾でも懇切丁寧に教え、正解は一つのみという観念を生徒に植え付け ますがこのように画一的な教育は学問の芽を摘むものだと思います。 私は人口知能にあまり興味が湧かないのですが、それは人口知能と人間の知性とは決定的に異なると考えるから です。人間の知性の特長は「疑問を持つ、目的や方法、手段の正しさを疑う」、まさに「問う」事にあります。これに対 して人口知能の特長は「学ぶ」にあります。機械の記憶容量や計算速度は無限に増強できます。碁や将棋で人工 知能が人間を打ち負かす事は自動車より速く走る人間がいないのと同じく人間の限界ではなく能力を示すものです。 川島隆太先生の手法 数年前にアルツハイマーの老人を回復させている川島先生の講演を聴いた事があります。最も効果的な回復方法 は「朗読」だそうです。また先生には「ラジオは頭を良くする」とかいう題の本もあり、宮崎で両親と暮らしている時読 んで大層参考になりました。 川島先生の話ですが、アルツハイマー病が治った80過ぎの老婦人に病気であった頃の事を聞くと (1) 周りで起きている事はちゃんと分かっていた。 (2) ただ自分から外に発信する事ができなかった。 この事から 知性の本質は対話 だと思います。上のアルツハイマー病の人に欠けていたのは理解能力ではなく対話能力だったと言えるでしょう。 人間の思考とは内なる対話ではないでしょうか。素読の効果は読書を重ねると様々な疑問が湧いて心の中で対話 をする事が即ち思考であり、修業になると思います。 私は今日の日本では学校ばかりでなく塾にまで子共が通わされているのは素読の時間、「問う事の自由」を奪い、金 と時間をかけて子供を学問嫌いにしているのだと感じています。即ち教育の過剰と学問の貧困です。 認知症対策 本人にも家族にも、介護者にも過重な負担と苦しみを強いているのは病をあるべからざるものして捉え、それが 「正常」とされる基準から外れるのを恐れ、嫌うからではないでしょうか。障害はその人の個性でありそれには無限の 多様性がある。異常なものを排除するのは非道であり、人間性を抑圧する事である。無限の多様性がある人間を まとめるものは対話であり、その言葉や行動を理解する道は学問で言えば素読、即ち試行錯誤と実践にある。 こういう見方をすれば認知症対策にも別な道が開けるのではないでしょうか。徘徊者にはGPS機能付き発信機を つけて自由に徘徊させ、そういう障害がある事が分かるようにして世間の人もそれを心得て対応するようにすれば よほど介護も楽になると思います。 人生は最後まで楽しむ 昼間に大いに活動すれば夜間に寝台に縛り付けなくても疲れてよく眠れるのではないでしょうか。運動をする、歌を 歌う、歩く、話す、スポーツをする、読書をする、作業をする、外の世界と交流する、心身に障害があっても残る機能 を最大限に使って生きるを楽しむ、こういう精神で、病院、老人ホーム、ホスピス、在宅老人、そして若い人も生きら れるようにすれば良いのではないでしょうか。 認知症対策とは即ち万人のための対策ですね。 *********************************************** * 市吉 修 Osamu Ichiyoshi * 二十一世紀を楽しく生きよう会 * Human Network for Better 21 Century * http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/ ***********************************************