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送信日時:             2020815日土曜日 14:56

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件名:      終戦記念日に子供の事を思う

 

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孫達に見る子供の言語の発達

孫達はズボンを「はきさせて」と言う事があります。正しくは「はかせて」ですね。何々させるという

意味の助動詞「させる」の使用法がまだよく分かっていないわけです。「来させる」、「見させる」のよう

に動詞の未然形につくのですが未然形の活用が難しいようです。一般の動詞の様に連用形につくと考え

ているのが分かります。大多数の動詞は五段活用なので「させる」を上のように使うのは自然だと思い

ます。意味は十分通じますから。

 

子供は語彙を爆発的に増やすだけでなく文法もしっかり習得しつつある事が上の例から伺えます。

ロシア語の笑い話で子供がパパはおかしいと言い張るものがあります。アで終わるものは一般に女性名詞ですから。

 

未然形が子供に把握し難いのも分かります。なぜなら未然形は未現実のものを表現する用法ですが子供

にとって言葉は何より現実のものを表現するものから学んで行きますので。

 

この点では仏、西語などは現実と非現実、または未現実を厳密に区別します。現実のものは直接話法

、非現実あるいは単なる話者の憶測あるいは否定する事柄を表現する場合には接続法を用います。英語

の仮定法にあたるものですがそれより遥かに複雑です。

 

日本語では直接法と仮定法の区別がやや曖昧だと思います。古語では「無かりせば」とか「何々もが」

と言うように英語の仮定法に等しい用法がありますが現代語では区別があいまいで、ある人の言う事が

事実なのか或いは単にその人の憶測なのかうやむやになりがちです。従って論理的な表現では「仮に何々

だったならば何々だっただろうに」とやや回りくどい表現をする必要があります。

 

終戦記念日に思う

日本の第二次世界大戦を今から思うと実に馬鹿馬鹿しい事が多かったと思います。当時に生きた人達は

日々の生活と目前の仕事に追われて時代の波に流されたのでしょうが、戦後75年が経って今振り返ると

司馬遼太郎の「集団発狂していたとしか思えない」という述懐に同感します。文法的に現実と非現実の

区別があいまいな日本語のせいばかりでもありませんが人間の思考法に混本的な誤ちがあったとしか思

えません。皇軍の作戦は補給の軽視により大半の兵隊を戦死よりも病死、餓死させました。現実と非現

実の混同は所謂神がかり参謀やインパール作戦における牟田口司令官の作戦指導等の随所に見られます。

これらの指導者の多くは戦後も生き残って自己の戦争責任を認めないばかりか軽々と軍国主義から民主

主義に鞍替えして国会議員になった者もいます。

 

マカーサーが日本を去ると待ってましたとばかりに軍人恩給法を復活させて将官クラスには年800万円

(2000)もの軍人恩給を支給してきた日本国は戦争の真の被害者である戦争孤児には何らの支援も行い

ませんでした。政府の見解は「親戚に引き取られた」というものでそれは自民党的家族主義思想に基づ

くものです。あるいは「生活保護として支援する」というものでした。どこにも戦争の真の被害者であ

る戦争孤児を直接支援する考えがありません。

もし戦争孤児を直接支援したならば、引き取った親戚ももう少しは人間的に戦争孤児を育ててくれた事

でしょうが、現実に飢饉の危険があった当時は戦争孤児は親戚に厄介者扱いされ、差別、酷使、虐待さ

れ、逃げ出して浮浪児になり、餓死したものも少なからずいます。戦争孤児の大半が「後期高齢者」に

なってから起こした国に謝罪と補償を求める裁判に対する判決は「国と戦争孤児の間には雇用関係は無

かったので国が保障する義務は無い」というものでした。「子供は天皇の赤子」と宣伝して軍国主義政策

を推し進め、その結果必然的に生じた数十万人の戦争孤児を「親戚」に押し付け、あるいは国交断絶し

ていた中国などに遺棄して知らぬ顔を決め込んだ日本国の恥ずべき歴史を日本国民は忘れてはならない

と思います。

 

お国の戦争で人々は滅びぬ

大空襲の下、火の海の中

親を失いし戦争孤児が

残されし世は正に地獄なりき

か弱き者を見殺しにして

国が救ひしは軍人と役人のみ

世界の民よ手をつながむ

国を越えてぞ平和を築かむ

 

強者の論理を疑うべし

上の思考法の欠陥とは世の中で強者の論理がまかり通る事だと思います。戦前に行われた国策に反対す

る者に対する思想的、物理的、社会的弾圧はすさまじく、国民は国家の政策にものを言えなくなり「集

団発狂していたとしか思えない」国策に引きづられて国内、国外に壊滅的な惨害を生じました。私は高

校生の頃父の本棚にあった戦前の文部省編「国体の本義精解」を読んでその牽強付会、我田引水的論理

に反発を覚えましたが、父にとっては幼時から叩き込まれた思想として捨てきれなかったのかも知れま

せん。

 

戦後国家官僚の有力な部分を成し国会議員も擁する旧軍人は国の強者であり、軍人恩給法を成立施行さ

せ、片や戦争の真の被害者である戦争孤児達はその存在すら無視され、遥かに後になって起こされた裁

判で「国と国民の関係は雇用関係に及ばず」(!) の判決を下した日本国に対して、一国民として私は危

ういものを感じています。その欠陥は例えば今も後を絶たない「児童虐待」等に現れているのではない

でしょうか。

 

民主主義の理論を確立したイギリスの思想家ジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham1748 - 1832)の

最大多数の最大幸福、即ち多数決の原理は当時の国王専制に対しては革命的なものでしたが、我が国で

も民主主義が確立した20世紀後半以降には最早内容不足だと思います。どんな戦争も形の上では多数決

で進められます。そこには強者の論理ばかりが幅を利かせて少数者、弱者はその存在すら無視されます。

 

終戦記念日に改めて形ばかりの民主主義の孕む危険を痛感します。その欠陥を克服する道は強者の論理

を疑い、少数者、弱者、時には声なき者の声に耳を傾ける事が大切ではないでしょうか。それなしには

人間の知性も人間性も無いに等しいと思います。

 

知性とは

異なる位置に身をおきて

万物を究むる心にぞある

人間性とは

他人の立場に身をおきて

我が事の如く思ふ事なり

 

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* 市吉 修   Osamu Ichiyoshi                    

* 二十一世紀を楽しく生きよう会                    

* Human Network for Better 21 Century      

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