差出人:   Osamu Ichiyoshi <osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp>

送信日時:             2020314日土曜日 14:33

宛先:     

件名:      RE: 随想

 

転送歓迎

配信無用の方はお手数ですが返信願います。本MLは会員の紹介により加入する会員の自主研究会です。

返信または全員へ返信により意見交換をお願いします。二十一世紀世界研究会とは「人が全国どこでも

働き、生涯豊かに生きられる世界」を提案し研究する会です。研究しながら理想の二十一世紀世界を実

現しましょう。

 

札幌も多少春めいて来ました。

路上の雪もあらかたどけられ孫達を迎えに行く夕方もまだ明るく、西空に夕焼けを見るなど明らか

に春は近づいているのを感じます。早く暖かくなって新型コロナウィルスの流行が終息するのを期

待しています。

 

孫達の上達の速さに思う言語の構造

有限な数の言葉で無限に多様な事を表現できるのが人間の言葉の特徴です。それを可能にするのは

言葉がより単純な言葉の組み合わせにより構成され、意味と形(名詞、動詞、形容詞など各種の品

)が必要に応じて分岐、結合、派生していく事だと思います。例えば前述の雪が溶ける、雪をど

ける等の元の形は溶く、どくでしょうが類語としてはとかす、どかす、ひいては絶ゆ、たゆとうなども

同根ではないでしょうか。

外国語の学習が困難なのは語を単独で覚えようとしても直ぐに忘れてしまう事です。同義語、反対

語、名詞、動詞、形容詞、副詞形、語源までひとまとめにして覚えれば却って覚えやすいようで

す。その眼で見ると仏、西、伊語は極めて近く、英、独、ひいては露語に到るまで数千年前は同根

の言語だったのだと感じます。

私は同郷の人に会うと鹿児島弁しか出て来ません。共通語と鹿児島語Bilingualであると言っても良い

くらいです。方言は共通語に比べて味のある表現が可能な貴重な文化です。日本の各地に残る方言は

大事にしたいですね。

おそらく人間の言葉の発生において単語の素は単音であったのでしょう。現に中国語は基本単語が

すべて単音ですから。中国語は四声というアクセントによって音素の数を4倍にしていますが

それでも無数の同音異義語が生じます。面白いのは日本語で「きく」という言葉は聞く、効く、訊く

、問くなど多種多様の意味がありますが、中国語でも「聞く」と「問く」はどちらもwenという発音

をアクセントを変えて区別しています。「売」「買」も同様で日本語の音ではどちらもバイになってし

まいます。漢語が日本語に入って無数の同音異義語を生じました。これは時に不便ですが時にダジャレ

にも駆使されます。

有限な言葉で無限な事を表現できる理由は単に人間にとって言葉は対象が決まって初めて意味が決まる

事に由っています。端的な例は子供が生まれて親がつける名前です。人間にとって言葉の意味とは対象

があって初めて決まるものであり、西洋の言語はこれを定冠詞と不定冠詞で区別しています。日本語

では初めて出て来るものは「昔むかしあるところにおじいさんがいました。おじいさんは、、、」という

ように「は」と「が」により使い分けたり、定冠詞に相当する「かの、あの、その、この」等の語を

用いています。

 

情報理論における情報

は私達が通常意味として用いる情報とは全く異なります。即ち情報の意味を問わずただその量が対象と

なる語の発生確率により定義されます。ある語、というより符号xの発生確率がPxだとするとその符号

を受信した事によって得られる情報はlog(1/Px)と定義されます。確率が小さい事を知った時の情報量は

大きく、Px=1即ち既に知っている事を知らされても得られる情報は0です。この定義は情報から意味

を除去して確率過程としての符号の伝達系として通信路を定義する事により、情報を厳密に工学の対象

とする事ができました。この定義に基づき構築された情報理論による符号化、誤り訂正技術によって

今日の情報化社会は成り立っています。

 

確率と生活

情報理論より半世紀も前(20世紀の始め)に確率に基づく理論化革命が基礎物理学で起っていました。

私は大学で初めて量子力学を習った時にその確率的理論に不安を覚えました。何故完全に厳密な因果

律が成り立たないのかと。個々の電子の位置と運動量を同時に測定できる正確度には根本的な限界が

あるというハイゼンベルクの不確定性もよく分かりませんでした。通信工学の私により親しみのある

のは信号の伝送速度と通信路の周波数帯域幅の関係(時間と周波数の不確定性)であり、これは今では

Broad Bandとして誰でも関心のある世の常識になってしまっています。

事物が確率的に縁起する事はよく考えると普遍的であり、厳密に一定の道を辿る事が実は少ないと

いうか厳密には無いと思います。天体の運動すら永久不変ではなく天体の相互関係により不断にゆらい

でいます。数年に一度うるう秒を入れるのが良い例です。

社会経済における需要と供給は正に確率事象の好例です。ある人が買い物に来て何を買うかは客観

的には断定不可能な確率事象ですが社会全体から見ればどれだけ売上があるかで需要の量を正確に測定

可能です。同様の例は道路を走る車や人の通行量、電話通信系の呼量(traffic),インターネットのpacket

traffic、芸能人の人気など人間社会には無数にあります。

個々の人間の人生も本人にとってすら断定的な予測は不可能な確率事象でしょう。しかし人間には内

に心があります。客観的にはそれも確率事象でしょうが少なくとも主観的には自分の心に忠実に生き

たいものです。

 

行く河の

河原の小石の

ごとき我

されど内なる

心は果無し

心の中で

我は思う

己が心に

依りてぞ生きむ。

 

*********************************

* 市吉 修   Osamu Ichiyoshi                    

* 二十一世紀を楽しく生きよう会                    

* Human Network for Better 21 Century      

* http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/

*************************************