差出人: OsI [osamu-ichiyoshi@muf.biglobe.ne.jp]
送信日時: 2017年6月11日日曜日 23:00
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件名: 子共の貧困問題からの前進; 学問立国の提案

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 子共の貧困問題は社会問題の集約
だと思います。その問題の多くが親の離婚に始まると共に離れた親が決められた扶養費を払わないという背信、払い
たくても払えないという失業もしくは低賃金、能力不足問題、祖父母や兄弟姉妹もしくは地域の助けが得られない
共同体喪失等です。従って子供の貧困問題の解決は大きな社会的前進になると思います。

自己主張
私は就職して海外の仕事が多くなった頃会社のガイダンスで海外で交通事故を起こした場合絶対にI am sorry!と
言ってはいけないと聞いて驚いた記憶があります。当時の日本文化では交通事故を起こすと双方が「すみません」
というのが礼儀だったと思いますが外国では「すみません」と言うと自分の非を認めた事になり事後の交渉で不利に
なるとの事でした。
現在では日本でも上の海外文化がすっかり浸透してしまったのではないでしょうか。事故に限らず社会生活において
ひたすら自己主張をせよというのが現在の日本国の風潮だと思います。典型的な例は安倍政権の主張です。日誌、
議事録契約書等の公的文書が「無い」、「破棄した」、「見当たらなかった」などというのが多過ぎます。自分に都合の
悪い事は隠し「ひたすら自己主張せよ」という生き方は直接的には自己の利益になる場合があるかも知れませんが
、結局は自己の不利益に終わる事も多いと思います。その良い例が前述の離婚です。どうしてもうまく行かない結
婚は離婚により解消するのが一つの解決ですがその原因として自己主張文化があるのではないかと思います。
自己主張ばかりする人は自ら視野を狭め、自己の最良の宝をないがしろにしてしまうと思います。それはその人自身
の頭脳です。

政治は本来自己主張
私は前述の如く安倍政権は信頼できないと感じていますが、実は政治とは自己主張そのものです。農業の始まりと
共に生じた国家は強者による弱者の征服により成立したものですから政治とは本来自己主張そのものです。従って
政治屋の言う事には必ずその反対の真実がある事を思う事が大切だと思います。法的な「権利」とはすべて反対か
ら読めば「義務」に他なりません。

社会の基は対話
人間社会には様々な人の対立があるので社会を成り立たせるには対話が重要ではないでしょうか。対話とは反対
意見の尊重でしょう。哲学者ヘーゲルが説いた様に正、反、合の過程により人間社会の進歩が実現するのだと思い
ます。

 子供は社会で育てよう
私は月曜日に近くの市営団地で子供の勉強を見ています。ここは4割が片親世帯だそうですが、このような場所で
子供が地域社会に触れ合うのは良い事だと思います。また火曜日には自転車で半時間かけた国際ラウンジで大学
を目指す外国人の子に数学を教えています。更に木曜日には近くの県営団地でアジア人の子供の勉強を見て
あげます。これらの活動は社会的に不利な立場の子供が自己の才能を開花させて社会に出て行けるようにとささや
かな手伝いです。私はその何倍もの報酬を貰っています。真に子供の育つのを見る事以上の喜びは無いですね。

学問立国
政治は自己主張のぶつかり合いなのでこれに囚われると自分が狭くなってしまいます。昭和天皇のラジオ放送を聴
いて早速カイゼルひげを剃り落した軍司令官もいましたが、導的立場にあった大半の日本人は一夜にして軍国主
義者から民主主義者に変身しました。このような軽薄な行動の本は学問の欠如ではないでしょうか。私は福沢諭吉
に習って学問立国を訴えたいと思います。

 学問と教育は似て非なり
教育が子供の貧困問題を解決するどころか奨学資金の返還で貧困の原因にもなります。さらばとて安倍氏が憲法
に書き込めと主張する教育の完全無償化は財政的に実現不可能なのは明白です。これらの問題の根は教育と
学問の混同にあると考えています。
教育とは現在の学校制度です。前述の私が手伝っている学習活動は教育とは関係ありません。また木曜日の大島
教室には子共だけでなく大人も来てこちらは日本語を習っていますがこれも学校教育とは無関係です。
私は会社を定年退職してもう10年近くなりますが専門の通信工学の研究を続けて毎年学会発表もしていますが
これも学校教育とは関係ありません。今の私の活動は教育ではなく学問です。
明治の学制発布以来国家が支配する教育がそれまでの学問の芽を止めてしまいました。学位とか教員免許による
国家の支配は軍国主義の浸透に絶大な効果を発揮しましたがそれは遂に第二次世界大戦による世界の破滅を来
たしその傷は未だにうずいています。
福沢諭吉が嫌った教育と彼が推奨した学問の違いは何でしょうか。日本の教育とは教え、育てるであり、子供に外
から一律に強制するものです。これに対して学問とは学びて問う、問うて学ぶ、問うを学ぶ事です。違いは自発性の
有無にあります。また学制による教育は硬直的な過程であるので卒業したら終わりです。それに対して学問は生活
の中で自発的に行うものであり人が一生かけて追求するものです。

学問立国の提案
私は学校教育を半世紀前に卒業しましたが今も学問は続けており、一生続けると思います。何故ならそれが楽しい
からです。もう一つの理由はあらゆる問題を研究する事が種々の不安の解消に役立つからです。
学問の原動力は「問う」にあります。学校で授業を受ける時は習った事を覚えるのに精一杯でなかなかものになりま
せん。私は自分の学校での学習はすべて生半可だったと感じていました。ところが世の中に出て働き始めると仕事
の事で「疑問」が噴出し会社の図書室で調べたり学生時代の本を引っ張り出したりして何回も復習しなおしてやっと
分かった事が多々ありました。何より答えは仕事そのものの中にありました。実践に勝る教育は無し。
今もあらゆる「疑問」が沢山あるので私の学問には止め処がありません。

前述の私の社会奉仕は微々たるものですが大島学習教室のように弱い立場にある人の学習支援が広がるとともに
人が「働きながら学べる」学制を確立する事を前述の安倍氏の対案として提案します。現実には放送大学や定時性
高校などの通信制教育の拡充です。単位制の教育体系を拡充して人が働きながら学び必要な資格を取得できる
学制にすれば安倍氏のような耳触りは良いが実現不可能な政治スローガンではなく最小投資で最大効果の得られ
る教育システムが構築可能だと思います。教育ではなく学問立国を提案します。

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* 市吉 修   Osamu Ichiyoshi                    
* 二十一世紀を楽しく生きよう会                    
* Human Network for Better 21 Century      
* http://www5e.biglobe.ne.jp/~kaorin57/
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