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宛先:件名: 認知症の克服と活気ある高齢化社会
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高齢化社会の問題の一つは認知症です。介護心中は大抵認知症関連が多いと感じています。認知症は体が元気であれば、徘徊、暴言、暴力など返って手に負えないですから厄介です。以下は認知症の機構についての私の推測です。 私は毎朝体操をしますが、もし私を遠くから見ている人があるとしたら私が認知症ではないかと疑うのではないかと思います。何故なら同じラジオ体操を繰り返す事が時々ありますので。というのはラジオ体操をしながら何か他の事を考えるとラジオ体操を終えてから途中をすっぽかした気がするので念のためまた繰り返す事がよくあります。 これは学校の授業時間に他の事を考えたりすると授業内容が全く耳に入らない事、皆様もあったかも知れない経験と同じ事です。 どうも人間は同時に二つの事はできないようです。ピアニストは左手と右手を別々に動かして演奏し、フィギアスケートの選手は複雑な技を体全体で演じています。これらは如何に複雑でも実は一つの事をやっているのだと思います。何年も自転車に乗らなかった人が久しぶりに乗ってもちゃんと自転車に乗れるのもその技を体が覚えているからです。これらは手続き的記憶と言われるもので認知症の人でもよく保たれていると思います。 認知症の人が忘れるのは出来事記憶(event memory)です。さっきした食事を忘れてまた催促するなどの症状が典型的ですが、これは時に正常人もやる事です。ある程度の忘却は健康な事だと思います。世の中には忘れられない病気があるそうですが、それはとても苦しいらしいですね。古事記に出て来る人物は固有名詞は一切無く、名は体を表す式の記述的名称ばかりです。古事記の背後には何らかの史実があると思いますがその人達が死ぬと真っ先に忘れられるのは名前なので文字に記録できる時代に到った時には固有の人名は既に忘れ去られていたのでしょう。私は宮崎にいる時、生目古墳に何回か行きましたがこんな山のような古墳を作った人は南九州一円にその名は知れ渡っていたはずですが、今は全く不明です。おそらく古墳時代が過ぎたら直ぐに忘れられたのではないかと思います。 記憶喪失が異常でないとしたら認知症の特長は何でしょうか。それは意識的に何かをする事ができない事ではないでしょうか。前述の私の体操のように意識的にやらない事は記憶に残りません。そのため認知症の始まりが物忘れとして現れるのでしょう。次に一つの事が気になるとその他の事が考えられなくなる事です。その典型的な例は「嫁が私の財布を盗った」式の思い込みですが、これも時に正常人もやりがちな事です。諺にも「疑心暗鬼を生む」とあります。司馬遼太郎が戦前、戦中を振り返って「集団発狂していたとしか思えない」と述懐していましたが帝国主義時代には帝国主義以外の考えが困難だったのですね。特にインテリほどそうでしたが、その大半は戦後手の平を返すように民主主義者に変身しました。こう考えると認知症の人の方が正常人よりよっぽど正常だという気がしないでもありませんね。上の例を検討すると認知症の人の特長は内心に自問自答をしない事だと思います。一つの事を思い込むとそれ以外の事を考え付かないのです。正常人は自分が思い込んでいる事も念のためその正しさを検証する筈です。経験則が学問になるためにはその正しさの証明が必要です。なぜなら「知恵ある人」は自分の思い込みが正しくない事があり得る事を知っているからです。正常人はある事を意識的に行うと共に、それとは異なる事にも意識を向ける、言わば意識の意識、外意識があるのに対して認知症人は内意識しか無いのだと思います。意識の意識とは自分以外の立場に立って考えられる事ですが認知症人は自分を一歩も出られないのだと思います。外意識の現われは内心での自問自答ですが、認知症の人はこの機能が弱っているという気がします。 人間の特長は学問にあると思います。学びて問う、問うて学ぶ、問う事を学ぶ事です。学問は学ぶと問う事のどちらが本質でしょうか。それは問う事だと思います。学ぶ事は機械にもできます。碁や将棋は機械にも覚えさせる事ができて今や人間を打ち負かす所まで来ていますがそれは当然です。規則を表現して人工知能に処理させるのは只のプログラムでそれが人間を負かすのは自動車にかなう人間の走者がいないのと同じです。機械には不可能で人間にしか出来無い事、それは問う事ではないでしょうか。動物も人間に問いかける事はできませんが、訴える事はできます。同じく機械も訴える事はできます。それは各種の警報ですね。ところが問う事は人間だけができる、いわば人間の定義であると言ってもよいでしょう。デカルト式に表現すれば「我は問う、ゆえに我有り」です。 認知症の原因は問うことを忘れている事なのではないでしょうか。もしそうだとすれば外において他人と対話する事、内において自己と対話する事、これらを心がければ認知症を減らし、活気ある高齢化社会を発展させる事ができるのではないかと思います。 学びて問う、問うて学ぶ、学問の本質は何れにやある 学ぶ事は機械にもできる、問う事は人のみができる 我は問う、ゆえに我あり、デカルトは教えり、人の由来を
自己に由りてぞ問いは生ずる、学問の本質は自由にぞある。
人は人との対話によりて
己が外なる世界を知れり
人は自己との対話によりて
己が内なる心を知れり
言葉は単なる符号にあらず
言葉は人間が造りたる世界なり
言葉は人の心を表す、
人は言葉で人間となれり
学問は人と人との対話になる
人は自己との対話で思考す
一人の経験は学問をつうじて
万人の知識となる
思考で深まり対話で広がる
学問は人の自立の基なり
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* 市吉 修 Osamu
Ichiyoshi
* 二十一世紀を楽しく生きよう会
* Human
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