■土方歳三■
武蔵国多摩郡石田村出身。天保六年(1835)五月五日生まれ。
武士に強い憧れを抱いていた彼は、家伝の秘薬『石田散薬』の行商をしながら、剣術の勉強を独学していた。幼馴染の近藤勇が養父の代わりに稽古をつけていた天然理心流の道場にも通っていた。
そして、彼の運命が変わったのが文久二年(1869)十二月に、清河八郎の献策で結成された「浪士組」だった。
土方歳三はこれに近藤や沖田など道場の仲間と共に参加することになる。後に壬生浪士組、新選組で
”鬼の副長”として隊内を厳しく統率する。そして、新選組を幕末最強のを剣客集団に作り上げた。

旧幕府軍と共に敗戦を続けた後、土方歳三は北へ転戦していく。そして、蝦夷共和国にて陸軍奉行並の
役に就いた。そして、明治二年五月十一日、一本木関門付近で銃弾に倒れる。享年三十五歳。盟友、近藤勇と同じ年齢だった。

近藤の死後、彼は鬼の副長と呼ばれた頃とはちがい、若輩にも優しかったという。
宇都宮城の戦いの時に、臆して逃げようとした味方兵士を土方が斬り捨て、軍の士気を奮い立たせた。
後にその兵士を供養させた。
もしかしたら、彼は本当は心の優しい人だったのかも知れない。
■吉村貫一郎■
南部盛岡出身。元陸奥国盛岡藩士。天保十一年(1840)の生まれ。浅田次郎氏作の『壬生義士伝』で有名になった隊士。
土方歳三が江戸で隊士を募集した折に新選組に入隊(慶応元年四月二十七日)したとされている。
諸士取調役兼監察、剣術師範などを歴任。風貌は痩せていたが背が高くしっかりとした体格、左目の下に子どもの頃にできたとされる小さな傷跡がある。心掛けのよいで大人しい人物で、文武両道の才があったとされる。ちなみに流派は北辰一刀流を修めている。

重要な任務を任されており、近藤勇の長州訊問使広島出張にも同行している。
吉村貫一郎のイメージといえば、貧乏の下級武士で、妻子五人もおり養えなくなり脱藩した・・・そして、出稼ぎ目的で新選組に入隊。鳥羽・伏見の戦いで敗走した際に、大坂の南部藩仮屋敷に行き、帰藩を願い出たが、節操なしだとなじられて、部屋を借りて切腹したとされている。
しかし、後に探しても吉村の妻子は見つからなかったという。

淀千両松で「嘉村権太郎 戦死」と書かれている書物がある。この嘉村というのは吉村の変名であるので、彼はこのとき戦死した可能性が高いようです。




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