剱岳北方稜線

日本 剱岳北方稜線 1998/4/25−4/30
同行 岩瀬

【1】

雪でつながる稜線 4月でも暑い 剱岳は懐の深い山で、いまだその頂に至る登山ルートは限られている。その他のルートや夏以外の季節に剱岳を目指すとなると、登山特有の技術を身に付けた上でないと入山さえ許されない。日本でも独特の存在感のある山岳である。

 剱岳からひとすじ、北へと伸びる長大な稜線がある。この稜線に登山道は引かれていない。冬季には日本海側気候の影響をもろに受けるため、絶悪な天候が続くことが多い。しかし春、荒天が過ぎ去り、稜線が雪でつながっている季節だけ、そこを歩いて剱岳へ至ることができるようになる。残雪の季節は、この剱岳北方稜線に最適となる。

 黒部川沿いの温泉地、宇奈月から稜線へと入った。二日間かけ、僧ヶ岳、駒ヶ岳を越える。剱岳へ近付くにつれ、山稜の起伏は激しくなる。
 4日目、「天国への坂道」とも呼ばれる、標高差400mを越える、威圧的に立ち上がる雪壁を、アイゼンの前爪を利かせ、ふくらはぎの疲労に耐えながら登る。登れども登れども空に突き上がる斜面に終わりは見えず。蟻である。二時間以上かけ、毛勝山(2414m)へ登り着いた時には、喉がくっつき、コーラの赤い液体を思い描いた。
「シュワシュワー…シュワー」
「ああ、コーラが飲みたい、コーラ、コーラ……」
 それでもようやく剱岳が近付いてきたように見えた。

 5日目は霧で視界がなく停滞。4日間で北方稜線を歩き切る予定で、我々にはもう日程的余裕がなかった。
「明日もガスで晴れなければブナクラ谷から下山しよう」
 テント内でそう話した。富山の街で風呂、寿司、コーラ…、何でもある街へ正直はやく降りたいと思っていた。空想するのは食い物、飲み物のことばかり。しかしここまで来たのなら剱へ達し、岩瀬さんと二人で頂で握手を交わしたいとも思う。

 翌日はガスが晴れ、北アルプス主稜線から陽光が射した。6日目、午前5時15分、赤谷山直下より剱を目指す。

 停滞による一日の休養で、気力、体力共それまでの4日間ほど悪くない。だがこの年は寡雪で、稜線上は雪が切れている部分が多く、ヤブに悩まされた。元来道のない稜線上は、雪がなければ自然のままの樹林が覆い、そこを進むとなれば、枝草潅木を掻き分けて行くしかない。進度は落ち、絡みつく木枝が気力をも奪ってゆく。ザックは覆いかぶさる枝々に食いつき離れず、笹潅木で足下も良く見えない。手に松ヤニ腕にキズ。いったいこれは山登りなのか。この年の北方稜線はそんなルートだった。それでもあと一日で剱を越えられると思えば、前進の力にもなった。

 雪のない赤ハゲ、白ハゲを越え、懸垂下降を交え大窓のコルへ降りる。

 池ノ平山への登りは急峻である。きつい。暑い。どこが頂上だか分からぬまま池ノ平山を越え、小窓の下りに懸垂下降を繰り返す。掌がロープに擦れて熱い。
 雪上を、最後、小窓のコルへ下る時だった。春雪がアイゼンの下においしそうなダンゴをこしらえ、足を滑らせた。右斜面を滑り落ちた。

 今回のトレッキングに出発したのは、ネパールから帰国して二日目の夜だった。あわただしく準備し、上野発の夜行列車急行のとに乗りこんだ。日中僅か二日の東京滞在は、北方稜線へ向けて気力を充実させるに充分な時間ではなかった。入山口の宇奈月に着いてさえ、山気分が今ひとつ盛り上がらず、漠とした不安が微かにとりまいていた。そんなことが、この滑落という事態につながってしまったのだろうか。

「ああ、どこまで滑っていってしまうのだろう。いつかこういう目に遭う時がくるんじゃないかと思っていたけど……。部屋の遺書を誰かが見てくれますように」
 そんなことを考えながら滑り落ち、数メートル下の露出岩を乗り越え、その下に見えていた残雪との隙間に、「ドスン」とはまって止まった。
 落着きを取り戻そうと少しの間じっとしている。7〜8m落ちたろうか。

「助かった」

 左腕に擦り傷を負った他、幸い痛みもない。雪面に這い上がり、小窓のコルで一服する。滑落の傷は、これまでの稜線上の凄まじいヤブ漕ぎで負った、おびただしい擦り傷に紛れて遜色ない程度であった。

 小窓のコルより雪面を登って行くと、いつか小窓ノ頭をまいてしまっており、小窓ノ王へそのまま向かう。所々雪が切れ、氷結していたり岩場となっていたりで緊張させられる。

 どでかい小窓ノ王南壁を見上げる。いくつか岩登りのルートが引かれているようだが、こんなところ登るなぞ気狂いとしか思えない。基部を懸垂下降するが、ロープ一本分の25mでは全く下まで届かず、そこより下の遥かに切れ落ちた雪壁をクライムダウンする。これがまた怖い。今度こそ滑ったらそれまでだと覚悟しなければならない。

 ようやく三ノ窓へ達し、休む。残るは剱本峰への登りであるが、時すでに15時半。それでも目の前に迫った剱へ、池ノ谷ガリーを登った。雪壁状となっているが、「天国への坂道」を思えば楽である。

 池ノ谷乗越より稜線を剱岳へと歩く。雪稜、雪壁、岩稜と続く。最後の難所、斜度60度もあろうかという雪壁を登り、なだらかな小山を幾つか越えた。山頂への斜面を登る。あと何メートルか。
 朝発って約12時間、一気に北方稜線技術的核心部を突破し、陽も傾いた4月最後の日、剱の頂へ、とうとう立った。
 自らの足下から北方へ稜線が延々と伸び、霞み彼方へと消えている。宇奈月より6日間、この稜線を、この剱目指して歩いてきたのだ。敗退も考えたが、この山頂に立っているのは紛れもない現実だった。


【2】

剱へ迫る 起伏激しい稜線 テント場を求めて剱沢小屋を目指して下った。
 山頂直下は岩場、クサリが続き、それ以上に靴ずれが痛みの限界になろうとしていた。そのため稜線ではなく、足への負担が軽い平蔵谷を一旦下ることにした。シリセードで剱沢へ降り登り返すことになる。それも標高差400m。こいつが最後にして最大の苦であった。

 既に13時間以上の行動に、極度の疲労、気力も消滅しかかっていた。
 荷は重く腰は痛む。一歩が靴の長さ分。
 歩く、登る、日は暮れる。
「いったい着くのだろうか、今日、小屋に」
 前方は絶望的に雪の谷が登っているばかりである。

 岩瀬さんは突然、
「休んでく」
 と言ってその場に倒れ込んでしまった。それを見ても自分は歩き続けた。立ち止まると二度と動けなくなってしまう気がした。

 別行動となり、我々がただならぬ状況に陥っている気もしてきた。

 19時15分、ヘッドランプを点す。

 この頃岩瀬さんは死にかけていた。過呼吸、全身の痺れ、脈搏不整。
「このままひとりで死ぬかもしれない」
 と思ったという。

 一方自分もついに気力は消滅し、雪の上に座り込んでしまった。暗闇に、三日月と星が薄らと空を流れている。喉がくっつくほどの乾き、空腹。
「もうダメだ、ここで泊まりだ、動けない……」
 そう思った。

 岩瀬さんは手探りで足下の汚れた雪を構わず口に入れた。そうして自らの手で意識を元にもどそうとしたのだ。

「ああああ、何とかしなければ。コーラが飲みたい、コーラが飲みたい、コーラが……、ああああ、うううう……」

 最終的気合で、ザックの天蓋に入っていたソーセージと乾燥果実を口に入れ、雪を食らう。
 そして立ち上がった。

「小屋に着くまで歩き続けてやる」
 と思った。コーラのために。

 左側の若干急になった雪面を歩き登った。この一歩一歩がコーラに近付いているのだ。足下のヘッドランプに照らし出される雪面を見て、耐えて歩いた。

 前方に、煌煌と照り輝く剱沢の灯。とうとう見えてきた。

「あそこまでだ、あそこまでだ……」

 泣いた。なぜか泣けた。けれども涙は流れなかった。体中の水分は既に使い果たしてしまったのかもしれなかった。声だけで泣きながら、ひとりで小屋の灯に向かって歩き続けた。
 あと100m……50m……20m……、あと10m……、小屋の入口の、除雪されたコンクリート地面に、重荷とピッケルを放り出し、売店へ入った。

「コ、コーラください、4本」

 この台詞を発する瞬間をどれだけ思い、どれだけ考え、何度頭の中で反芻したことだろう。その時間が長くなるほど、本数は増えていった。

 夜も8時をだいぶ過ぎていた。疲労と興奮は呼吸を鎮めてはくれなかった。

 手にしたコーラを、外で一気に喉へ流し込んだ。口の両側からコーラが溢れ出た。それでも喉にしみる炭酸が心地良くてたまらなかった。
「あ〜あ、あ〜あ」
 空に向かって叫んだ。一気に二本飲んだ。
「うまいよお、うまいよお」
 これほどの疲労も、これほどの気力減退も、これほどうまいコーラも初めてであった。

 しばらく後、死の縁から蘇った岩瀬さんのヘッドランプが近付いてきた。彼も、小屋の前にザックとピッケルを放り出した。

「すいません、我慢できずに飲んじゃいました、二本。三本目で乾杯しましょう」

 三本目もうまかった。吐いても何しても、炭酸が喉に染み入るあの瞬間をずっと味わっていたい気分だった。

 しばらく山から離れていた身には、剱岳北方稜線は予想をはるかに上回る長大なスケールだった。それが終わった。やっと終わった。
「もう何もしたくない」

1998/5記

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