笑われる神
ネパール カトマンドゥ 1997/9
世界有数のツーリストエリアがネパール・カトマンドゥにあるタメルだ。トレッキングのためモンスーン明けを待ち滞在していたある日の午後、南側にある古都の風情ただようダルバール広場へと歩いて行った。すでに幾度目かのネパールであり、見慣れた街、見慣れた通り、馴染み深い雰囲気と匂いに、歩いていても違和感というものがなかった。
「またここにいるんだな……」
久し振りに帰郷した時と同種の愁いさえ感じるようになっていた。
混交文化の色濃く残る建物に囲まれた、石畳のダルバール広場には、相変わらず雑多な人、車、力車、自転車、バイク、そして犬たちが行き来し、佇んでいる。観光スポットでもあるため旅行者も頻繁にやってくる。そんな旅行者への売りこみを目的にうろついているネパール人もいた。そうした彼等と言葉を交わすことは、持て余した時間の良い暇つぶしにもなった。
「日本人?」「ネパールは初めてかい?」から始まり、「トレッキングに行かないか?」「土産ものはいらないか?」、ときには「ハシシ?」などと声をかけてくる。ネパール人の気質か、誰もしつこく付きまとうこともなく、時には商売とは関係の無い話に展開することもあり、それがまた楽しくもあった。
そんなとき、
「日本人の団体がクマリの館に入っていったよ」
と教えてくれた者がいた。クマリはネパールの混交文化特有の生き神様であり、普段はダルバール広場に面して建つクマリの館の内に住み、祭事の他は外に出ることもなく、人に会うこともない。だが不定期に館の中庭の上階から顔を見せる時がある。今ならクマリが顔を出すかもしれないと思い、興味本位で館へ向かった。
こじんまりとした赤茶の煉瓦積みの建物には、方々に細密な彫刻の施された木が装飾されている。古色蒼然たる寺院仏閣の風情も漂うが、今も生きた建物のはずである。ふいに通りかかっても普段は閉ざされている入り口扉は開かれていた。
「入ってもいいのかな?」
近くに門番のように佇んでいた男に英語で訊くと、何も言わずに手まねで「入れ」と促された。それに従って入ると、日中の光射に慣れた目には暗く感じられる回廊状のくぐりがあり、その先は屋根がなく自然光の入る中庭となっていた。
クマリとは、破壊神シヴァの妃ドゥルガー神の処女相である。ドゥルガーは「近付き難き者」という意味を持ち、その相貌は美しく困難から救う神として信仰されている。
ネパールの盆地には11人のクマリが存在するが、カトマンドゥのクマリは国家や王家の運命をも予言すると言われ、別格視されている。中世来の伝説から「王家のクマリ」とも称され、種々の条件や試験をクリアした幼女がクマリとされる。その条件とは、血の汚れなきネワール仏教徒サキャ族出身の少女で、ドゥルガー神にある32の身体的吉兆を持ち、王と占星学上の相性の良いことである。
少数に絞り込まれた候補者の中から、外的特徴に加え内的にも真に神を宿しているかを見極めるため、普通の少女にとっては恐ろしい試練にかけて選出される。まだ感情のコントロールなどできない少女は、鮮血したたる水牛の生首の置かれた小屋で一晩過ごさなければならないのだ。その際、恐怖におののき泣きわめくことのない者がクマリだと考えられている。これはドゥルガー神が水牛の悪魔を退治したという謂われから試されているものと思われる。
クマリになるための鍛錬など及ばぬ年端もいかない幼女が選ばれるため、実権争いの入り込む余地は考えられず、ある種の神性が宿っているとしても頷ける部分はある。
そうして見出された童女は、記憶の曖昧な幼女期より初潮を迎えるまで、人として名を持たず、女神として館に暮らす。つまりクマリは常に少女の顔を持っているということだ。次期クマリにその座を譲った後、人間に戻って名を持ち、普通の生活を送るのだという。
売られている絵葉書や写真集に写るクマリは、どれも能面のように無表情である。それには理由があった。クマリは喜怒哀楽の感情を表すことはなく、側近以外の者とは言葉さえ交わさないという。その振る舞いや微かな表情に神の意志や予言を顕し、人々に力を及ぼしている。
くぐりを抜けた中庭には、外界とは異なった空気が感じられた。先に入っていた日本人の団体の他に外国人観光客も幾人か見られた。クマリは上階から顔を出すようで、皆そこを見上げている。
「クマー!……クマー!」
日本語を操る現地ガイドが上階へ向かって何度か叫ぶ。しばらくすると薄暗い上階に動きがあった。そして突然クマリが顔を見せ、睥睨するようにこちらを見下ろした。
10秒ほどだったろうか。それですぐに引っ込んでしまった。
その生き神の姿に言いようのない衝撃を受けた。いや、その少女の姿に感じたと言えようか。写真などで見知っていた少女クマリより、いくらか成長した顔立ちであったが、その表情にはふてくされたような、むっつりと一瞥をくれただけのような、内面の歪みが見えた。中庭にいた数人は拍手を送ったが、途端に引っ込んでしまったクマリに見物人から、瞬間、笑いが起こった。そこには、
「もう隠れたのか、あれだけか」
という呆れ笑いと、生き神というには人間くさい、少女のような姿に、ややしらけたといった意味合いが込められていた。
だが僕にはどうしても笑えなかった。それどころか涙さえ溢れそうになり、堪えることに必死だった。神に祭り上げられ、多感な少女期を犠牲にして不自由な一時期を送らねばならなくなった一少女としての不遇に同情したのだろうか。あの一瞬、能面の内に見せた歪みの表情が離れ難く脳裡に焼き付いた。課せられた仕事、いや、生き神として運命付けられた少女の義務として、仕方なく立ち上がり顔を見せたようだった。そこに同情としてだけでは片付けられない、深く暗い影を感じ、少女の人間としての不幸を垣間見てしまったような気がした。
ひとりの人間として成人し、普通の暮らしをするようになった元クマリの女性は、退位してから自らの意志で笑えるようになるまで2年、自分の言葉で会話ができるようになるまで5年の歳月が必要だったという。
館を出て思った。
「見るべきじゃなかった……」
なんのための生き神様なのか。クマリとして館に暮らす数年間とは彼女にとってどんな時間なのだろう。
陽光の照る下で人や力車や犬たちの行き交うダルバール広場へ出た。館の中庭とはまるで離れた世界のようだった。しかし、クマリの顔を見てしまったことの衝撃が心から離れることなく残っていた。
「ダイアナがパリで交通事故に遭った」
翌日、ネパール人からそんなことを聞かされた。
「え?英国のプリンセスだった?」
「そう。新聞に載ってた。死んだって」
「死んだ?」
突然のニュースだった。ネパールに飛び交う単なる噂かもしれないとも思った。ホテルに置かれていた日本の新聞を手にした時、それは事実であるらしいことが確認できた。一面トップで大きく報じられていたのだ。ダイアナとその恋人と噂される男性の乗ったベンツが、パパラッチを振りきろうとスピードを上げ、トンネルの壁に衝突したという内容の記事だった。彼女は、メディアの犠牲者として逝ってしまったのだ。クマリと同じように、同情というひと言では片付けられない、人間の黒の部分をも感じさせるニュースだった。メディアに登場するダイアナの写真もまた、どこか陰を落としたような、幸せとは言えぬ歪みの表情を見せていた印象がある。
死ぬ時、彼女はどんな顔をしていたのだろうか。写真のあの表情のまま逝ってしまったのだろうか。元プリンセスとしての不幸と不自由の陰を滲ませたまま、ラストシーンを迎えてしまったようだ。
当時顔を見せたクマリは、昨年、次代にその座を譲った。人間の名を取り戻してからのその少女の写真を見る機会があった。退位してなお、表情には感情を見せていなかった。彼女も自分の気持ちを素直に表現できるようになるまで時間が必要なのだろう。そして、いつか心から笑えた時に本当の人としての人生を歩み始められるのかもしれない。
2003/2記