空飛ぶトルコ石ツアー

中国 チベット 1997/8/21-25

【1】

サキャ4100m 中国チベット自治区の都ラサへ入って二週間が経とうとしていた。ヒマラヤのモンスーンが明ける頃合いを見計らってネパールへ入ろうと考えていたものの、時期的に未だ明けそうもない。それでもラサでの滞在に時間を持て余し、そろそろ腰を上げるべきかと思っていた。

 旅行者の集まるドミトリーの多い宿が中心地周辺に点在しており、各宿のお知らせ板には旅の仲間を募る張り紙が多数貼り出されていた。その多くは折半してランドクルーザーをチャーターし、観光地やネパール国境へ向かおうという即席ツアーのメンバー募集である。そのひとつ、チョモランマBC(ロンブク寺院)などに立ち寄りながらネパール国境へ向かう五日間ツアーをしないかという、日本語の張り紙があった。それを出した日本人に会いに行くことにした。

 話を聞きに行こうと集まったのは六人。ランドクルーザー一台につき四、五人のメンバーが集うと折半も適度で出発することが多い。先方はすでに三人が決まっているようで、それならもう一台別にアレンジできるではないかという話になった。ラサの旅行代理店の事情を知るために話だけは聞きに行き、結局そのうちの二人と、彼等とは別のツアーを組もうということになった。

 別ツアーを組む仲間のひとりマサは、両親がオランダ在住ということもあり欧州を車で巡り、ひとり旅をするようになり、旅に時間を費やすようになった。今回は海から遠く隔たったチベットに来ているが、どちらかというと海派でダイビングを好むという。
「でも自然とか遺跡も好きだ。来年は大学を休学して北米から南米へバイクでしばらく旅したい。遺跡を見て、カリブの海を潜るんだ。将来はダイビングのインストラクターになって、船持ってツアーを組みたい」
 もうひとり、ヒロシは僕がラサ入りした日に日本を出てきたという文学部の学生。
「そんなにずっとラサで何やってたん?なげー」
 ひょうきん者でありながらちょっとだけ博識の面ものぞかせる、ひょろりと背の高い男だ。彼も在学中に休学して長い旅をしたいのだと言った。

「ツアーメンバー募集の張り紙を出そう」
 ひとり分の負担を軽くするには更に二人のメンバーが必要だったが、先ずツアーの内容を決めねばならない。メンバーが集まりやすいよう、魅力的な内容にしたかった。
 ブータン国境近くにプーマ・ユムツォという名の湖がある。標高5000メートルを越える場所にあり、「空飛ぶトルコ石の湖」なる呼称があることが紹介されている。それだけですでに神秘であり、国境上の7000メートル峰を対岸に望む想像のチベット風景を目の当たりにしたいという思いもあり、これをハイライトにチョモランマBCを入れたツアーを組みたかった。その企画をマサとヒロシに話すと、僕は「空飛ぶトルコ石」隊隊長に仕立て上げられてしまった。

「ツアー説明会を開こう」
 ヒロシはそんな提案をした。即席旅行会社を立ち上げたようで、話は熱を帯び更に進み、貼り出した募集広告は次のようなものになった。

「『空飛ぶトルコ石ツアー』
 空飛ぶトルコ石の湖プーマ・ユムツォを見に行こう!
 標高5000メートルを越える場所にある神秘の湖とチョモランマBCへ行き、ボーダー(ネパール国境)へ向かう5日間ツアー
メンバー2名募集
8:30PM 八郎学賓館2F特設カウンターにて説明会を行います」

 日本人向けだけでなく、英語でも募集を打った。

「『Flying Turkey Stone(Turquoise) Tour』
Puma Yumtso Lake & Qomo BC to border by landcruiser
5 days , 2 persons more
 Ask at the counter on 2nd floor in Banakshol Hotel , 8:30pm」
 
 だが正直日本人以外の者が来たら惑うなと思った。
 翌日にはその張り紙に日本語で、
「パーミット(許可証)はちゃんと取れるのですか?」
 と書かれていた。自由旅行に制限のあるチベット自治区において、観光とはいえ国境近くの湖に行くことは可能であるという確証はなかった。事実数件の代理店で、許可証が取れないと無下に断られていた。それでもある一軒だけ何の淀みもなく「大丈夫だ」と答えた代理店があったのだ。逆にそれが怪しいとも思ったが、その代理店の男の自信に満ちた態度を信じてみることにした。

 夜、宿の廊下の片隅にあった机と椅子を拝借して仮設した、「特設カウンター」には予想を遥かに上回る日本人が訪れ、始めに来た女性二名でメンバーは決まってしまった。すぐに募集広告には赤ペンで、
「Sold Out! Thank you」
 と上書きした。それは次の日には何者かによってお知らせ板から剥ぎ取られていた。ライバル旅行社の仕業かもしれない。

 日を改めて件の代理店へ赴くと、プーマ・ユムツォの許可を取得するには数日かかるという話に変わっていた。はやくも雲行きがあやしくなる。プーマ・ユムツォを諦めるなら二日後の出発も可能だが、許可取得に何日もかかるようだとヒロシがネパール出国便に間に合わなくなる可能性が出てきてしまった。一応許可申請だけは頼み、期日中に取得できるかどうかは翌日夕方に答えをもらう約束をした。約束をしたつもりだったのは我々の方だけかもしれないが。
「その時にツアーの日程を決めてしまおう」
 メンバーとそう言い合った。

 加わったうちのひとりは愛称をユキといい、半年ほどのアジアひとり旅だった。
「ダライ・ラマが好きでチベットに来たけど、ラサは漢化が進んでいて少しショック」
 ネパールにも歴訪しており、今回はひと月ほど滞在するようだ。その後インドから東南アジアを巡って帰国するだろうと言う。
 そしてメンバーの五人目はユキとは出国の鑑真号で一緒だったという学生のタカ子。いずれNGOに参加し、それを仕事として途上国の国々に協力していきたいという希望を持っている。今回は途上国を自分の目で見るために旅に出、チベットへやって来た。

 アジアにおける手続き業務の怠慢には常々嫌気がさしているが、夕刻、代理店へ赴いた時に待っていたのは意外にも朗報だった。必要とされる三つの許可証のうち、「空飛ぶトルコ石の湖」プーマ・ユムツォを含む二つはすでに取れており、残るひとつは翌日中にも取れるだろうとのことだった。何日待たされるのかと思っていたが、出発は明後日で希望の場所にも訪れることができるという、願ってもないツアーになりそうだ。代理店の主の男の自信は虚勢ではなかったのかもしれない。
 青空と薄ら上部が雪化粧した山並みに、ポタラ宮の白と紅の壁が映えている。それを見て、ようやくラサを発ち癒しの国ネパールへ向かえる喜びが沸いてきた。

 出発予定の前日、ツアー日程の決定と確認に代理店を訪れた。書き出された予定表に目を通すと、ツアールートにチョモランマBC(ロンブク寺院)が記載されていない。
「BCが入っていないんだけど?」
 そう言うと、代理店の主は答えた。
「プーマ・ユムツォへ行くならBCには行かない、という話だったはずだ」
 そんな話はした覚えがなかった。BCもこのツアーの二大目的のひとつであり、外すことのできない魅力がある。
「BCも加えるならツアー料金も600元増しで、ロンブクでも入域料をひとり140元払うことになる」
 主は言った。罠にはまった気がした。それほど都合良く話のまとまるはずはないのだ。最初に感じた変に自信に満ちた態度への不安は、ここにきて的中した。
「やっぱり、こいつも曲者だったか……」
 それでもチョモランマ北壁を見たいという気持ちが揺らぐことはなかった。しかしマサとヒロシが納得のいかぬ様子で、改めて交渉に入った。
 値引きを得るには時間をかけて交渉するのが良いのか、一時間ほどでようやくツアー料金が500元増しにまで落ちた。更に粘って交渉をしたものの、相手も頑ななまでに折れず。最後まで諦め切れない様子だったヒロシも、結局世界最高峰の北壁の魅力に折れ、ひとり240元増しで元来予定のルートをとることに決着した。


【2】

カムバ・ラ4750mからのヤムドク湖 出発の朝は一点の曇りもなく、ラサへ入って以来最高の天気だった。各ホテルでメンバーをピックアップし、ラサの街を出る。

 ランドクルーザーでのツアーと言っても、車のボディだけがランクルで、中身のエンジンは数十万キロも走った中国製ということもあるらしい。殻だけを交換するヤドカリみたいなものだ。我々の乗る車もボンネットを開け見せてもらったが、エンジンにも「トヨタ」というロゴが入っており、一応本物らしかった。ただメーターが故障していたため走行距離は不明。確実に5日間走って国境に達してくれれば問題はない。そのハンドルを握るのはチベット人ダワ。口髭をはやした40代の職人気質のドライバーで、がっちりとした体格。シーズン中は休みなく方々へ車を運転して回っているようだ。こうしたツアーでもガイドの同行が義務付けられており、我々に付いたのはケツァンという英語を喋るうぶヒゲをはやした若い男だった。
 ドライバーを含めた計七人で一台のランクルに乗ると膝をすぼめてシートに窮屈に体を寄せ合う感じで、これで五日間旅するとなると快適ではなさそうだった。

 ラサを出て大河ヤルツァンポを渡ると舗装が途切れ、カムバ・ラ(峠)への登りとなる。峠には祈祷旗タルチョがはためいているのが見える。色黒のチベット人の佇む峠へ登り着くと視界が開け、雪山と、眼下にヤムドク湖が広がった。湖面の青さはまさにトルコブルーで、ようやく求めていたチベットの自然にめぐり逢え、旅が始まった気がした。これこそイメージしていたチベットの風景だった。

 峠から湖へ一気に下り、湖畔道を走り抜け、小さな町ナンカルツェに着く。ここで昼食を摂る。ここから大目的のひとつ、プーマ・ユムツォへ向かうことになるが、なんとドライバーのダワもガイドのケツァンも行ったことがなく、道を知らないという事実が発覚した。チベット人の彼等にとっても初めての場所なのだ。ガイドとは名ばかりで、案内役というより監視連絡官、つまりリエゾン・オフィサー的役割が強いようだ。
 ナンカルツェからしばらくで主道を逸れ、車の轍を頼りにプーマ・ユムツォ方面へと走る。山、草原、そして遊牧民の世界。轍は小川を突っ切っており、それに従って我々も水流を渡る。小さな集落を幾つか通り抜ける。その度、興味深げに寄ってくる民に、
「プーマ・ユムツォにはどうやって行くのだ」
 と訊きながら進んだ。メンバーの誰もが知らない場所に行くのは探検的だった。NHK取材班にでもなった気分だ。
 この辺りまで来る旅行者は稀なのか、村人や子供たちは皆手を振っている。青空の下、草原の緑と菜の花の黄色、チンコー麦の畑が広がる。テントが点在し、黒くすすけた顔の遊牧民が家畜を放牧している。

 辺りはやがて谷地形となり、轍はその左斜面を登っていった。そのまま奥地まで入るといった雰囲気で、その谷の果てにある峠を越えると何に出会えるのかと期待が膨らむ。
 広大な大地に横たわる丘は、目に映るより険しく、ランクルのギアもローでゆっくりと登って行く。やがてタルチョのかかる峠が近付く。
 峠を越える瞬間というのはいつも胸が高鳴るものだ。その先にいかなるものが待ち受けているのか、どんな風景が開けるのか、想像は頭の中を駆け巡り、濃密な時を過ごしている興奮がある。

 遠く見上げていた山稜の低く窪んだ部分が峠、標高5030メートルのイェ・ラだった。登り坂はようやく尽き、視界を閉ざしていた山稜を越えた瞬間だった。

「おおお!」

 図らずも皆同様の感嘆の声を上げてしまった。

「おおお!」
 ガイドのケツァンまでも同様に感嘆の声を上げた。

 そこには、カムバ・ラを越えた時に見たヤムドク湖を遥かに凌ぐ信じ難いほど美しい風景が広がっていた。

 空飛ぶトルコ石の湖プーマ・ユムツォのどこまでも青く光る水面、対岸に連なる氷河を湛えた高峰とたなびく白雲、頭上一面には宇宙を思わせる濃紺の空。5000メートルを越える標高にある幻の湖といった風情だ。この対面の感動はおそらく一生に一度きりの経験だろう。

「おお、すっげー!」
 ヒロシが言う。

「おお、すげー!」
 マサも言う。

「すごーい!」
 ユキも感激している。

「きれい」
 タカ子も感動している。

「オオ、ビューティフル!」
 ケツァンまでもそう言った。
「え?ケツァン、お前もか」

 湖畔に車を停め皆で外へ出る。誰もがこの風景と対面して清々しい表情をしている。
「長くラサに住んでいるけど、こんな所にこんなにも大きく美しい湖があるとは知らなんだ」
 ガイドのケツァンは言った。
「な、お前も初めてかい。ガイドなのにここの場所も知らないし、さっきから感動して一緒にこのツアーを楽しんでるじゃん。そんならお前も金払え!」
「そうだ、金払え!」
「金払え」
 自分たちで企画したツアーとはいえ安くはない料金を支払っているのだ。皆口々にケツァンに言った。しかしそういう誰もが笑顔だ。

 湖の水で顔を洗い、すくってひと口飲んでみる。有り難い味がする。チベットでは雪山や湖は聖地となり巡礼の対象となっていることが多い。ここにも巡礼者があることだろう。彼等だけではない、我々もここに聖なる匂いを感じとった。
 感激の対面を終え、去り難き思いを抱きつつも峠を下っていった。まだ充分に余韻を残したままナンカルツェの集落に戻った。自分で作る旅なのだ。そこで最高のものを得るべきだ。


【3】

ニンチンカンサ峰とチベタン 二日目は移動の日。発ってすぐに雪峰ニンチンカンサが迫る。7000メートル峰とはいえ、見上げている場所がすでに5000メートルの標高であり、その比高は2000メートルそこそこだ。しかし氷河がすぐ近くまで下りてきており、その傍らを車道が通っているとは、チベットはなんと迫力があるのだろう。青空に真っ白い雪が際立つ。山頂はスカイラインの奥と思われ、望むことはできない。

 ギャンツェ、シガツェと大きな町を通過し、サキャに至る。日も傾いてきた頃、南寺を見学する。ここで初めてケツァンがガイドらしく寺の説明をするが、興味の薄い我々には、
「おお、ケツァンがガイドしてるよ」
 と違うところに興味を示すばかり。
 暗い中、ヘッドライトでの走行で更に先のラツェを目指す。

「ああ、しんど」
 疲れを見せるドライバーのダワは、運転しながら時折日本語をつぶやく。彼は日本の出稼ぎのオッさんと言っても頷くような風貌で、普段口数は多くないがひょうきんな面もあり、実は関西人なのではないかという疑惑も出た。窮屈な車内で座っているだけの我々でも腰が痛み、疲れてくる。
 夜九時半、案外まとまった町ラツェへ入った。

 翌日はもうひとつの大目的である世界最高峰チョモランマを見るためにロンブクへ向かった。国境への道中最も標高の高い峠ラクパ・ラ(5220m)を越える。どこか別の惑星を思わせる荒涼とした大地を行く。まさにチベットの真っただ中にいる。やがて道を左に逸れ、小岩のごろごろした悪路のつづら折を登って行く。峠を越えるが、ヒマラヤ方面は一面雲に覆われ、本来なら見えるはずの峰々は姿を隠していた。
 ヒマラヤ山脈へと向かう奥地にも点々と集落は続いており、畑があり子供たちがいる。広い谷に伸びる悪路を奥へと詰める。右下は氷河の融水と思われる乳白色の川が、早い流れで地を削ってゆく。その右岸を遡るということは、徐々に高度も上がってゆくことを意味する。

 距離は短いながらも悪路に時間をとられ、ロンブク寺院に至ったのは夕刻だった。相変わらずチョモランマは雲に隠れ、北壁を見ることはできない。
「ああ、見えない。残念だな」
「雲、取れないかなあ」
 明朝にはこの場所を離れることになるため、それまでに晴れてくれればよいのだが、僕には「必ず晴れる」という妙な確信があった。

 その夜は関西人ダワと金払えケツァンを交え、地元のチベタンも加わって晩餐となった。おごりのビールの栓が次から次へと抜かれ、ダワはここぞとばかりに小瓶を呷った。ヒロシも勧められるままに飲み、高度の影響もあり酩酊してゆく。外へ出ると、締まった空気に上空無数の星が瞬いていた。

 5000メートルを越える高所のため息苦しい夜を過ごし、未明に起き出す。北壁は山腹がほんのり見えるものの、未だその大半を雲に隠したままだった。しかし日が昇るにしたがい雲が晴れ、予感通りチョモランマは山頂まで姿を現した。
 ランクルで30分ほど谷を奥へ詰め、チョモランマBCへ入る。ロンブク寺院からよりずっと距離が近く、北壁の三角形も大きく見える。
「とうとうやって来たぞ」
 世界最高峰の北面が今目の前にある。
 小高い丘の上にタルチョがたなびき、その下に前年付けの遭難慰霊碑があった。山に賭けた人間の熱き想いがここに眠っているのだ。その他にも世界最高峰の北面を舞台に、幾つもの人間の挑戦があったことを知っている。初登頂を目指して頂上アタックに出たまま消息を絶った英国人の二人。日本隊はこの急角度に薙ぎ落ちた北壁を登攀して山頂に達した。たったひとりで酸素補給器もなしに山頂を往復した登山家もいた。そして、バイクで登ろうとした日本人もいたのだ。世界の想いを背負った探検から、個人の想いを実現する舞台へと、人間の思惑は変化してきたが、チョモランマという峰は変わることなくそこにあり続けている。

 モンスーン期のせいで、北壁はほぼその全面を白く染めていた。
「やっぱり凄いな……」
 過去、人間がこの峰と関わってきた歴史を思い返し、幾つもの人の想いを飲み込んだ山として捉えると、ただ信仰の対象として眺めるだけではない、山とのより親密な対峙ができるような気がした。

 ずっと見ていたかった。ここでも去り難き思いを抱きながらも、旅を先へ進めなければならない。
「今度はネパール側からエヴェレストを見よう」
 そう思うとネパールの楽しみが増した。

 悪路を主道まで戻り、状態の良い道をダワは飛ばす。音割れのするカー・ステレオからは中国歌謡曲のテープが何度も何度も繰り返し流れている。
 ラルン・ラを越えると、道はヒマラヤ山脈へ吸い込まれるように伸びていた。そのまま谷へ落ちるかのように、チベット台地を滑り降りてゆく。荒涼としたたおやかな丘の連なる地形から、谷は深く緑が多くなり、まわりの山々の雰囲気が変わってきた。ヒマラヤ山中へ入ったようだ。ラサで時間を持て余していた頃は、早くネパールへと思っていたが、こうして去るとなると名残惜しくさえある。

 国境まで30キロ、チベット側最後の町ニェラムへ着く。夕食に入った中華食堂では、明らかにぼっていると分かるほど高い請求をされ、金銭感覚のずれが国境に近いことを感じさせた。

「国境までの道で土砂崩れがあったらしい」
 ケツァンが言った。ガイドらしく知らせに来るのはいいが、たまに持ってくる情報がそんなことだとは、やはり六人目のツアーメンバーと言った方が当たっている。道は寸断されたままで、いつ復旧するかは分からないらしい。それも雨季にはよくあることのようで、明日は予定通り国境へ向かってみて状況を探ることになった。

 朝ニェラムを発つ。道は下り一辺倒で、谷はいっそう深く切れ込み断崖となってきた。その急な山肌を削って作られた道からは、遥か下方にやがてガンジスへと流れこむ急流が見える。この道を切り拓いた先人の苦労が偲ばれる。
 十数キロ下ったところで、車やトラックが何台も停車しているところに出くわした。この先が土砂崩れの現場なのだろう。「空飛ぶトルコ石ツアー」もここまでとなる。
 車列の最後尾に停まったランクルを降りると、ポーター志望者が大勢集まってきた。英語、中国語、チベット語、日本語が飛び交う混沌の中、突然にツアー解散の時となった。その記念に、関西人ダワと金払えケツァンを含め、チベットナンバーのランドクルーザーをバックにツアーメンバーの写真を撮った。

 バックパックを背負って歩き出そうとした時、山間に爆音が轟いた。瞬間、地元ポーターたちはまさに蜘蛛の子を散らすように逃げ、車やトラックの下へ潜り込んでしまった。ダイナマイトで土砂崩れの岩を砕いているのだろう。その衝撃で落石があることを恐れているのだろうか。気がつけば立ち残されたのは我々五人だけだった。ケツァンはやっぱり逃げていた。

 土砂崩れの現場は歩いて通過する他は手段がないようで、物資輸送の臨時ポーターたちに混じって歩いた。現場は道路の跡形も無く土砂が200メートルにわたって崩れていた。復旧作業をする人民を横目に、右側の切れ落ちた足場の悪い土砂の上を横断し、国境まで乗合バスで下る。相変わらずの峡谷で、頭上断崖から道に滝が落ちていたり、めずらしくもトンネルがあったりした。
 国境で中国の出国スタンプをもらい、山の斜面に踏まれた急なポーター道を歩いてネパール側へ下る。いつか標高も下がって湿気て暑いほどの気候になっていた。
「カトマンドゥでうまいメシ食おうぜ」
 そう言って癒しの国ネパールの国境をまたいだ。

2003/2記

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