ファラズ・カーン

パキスタン・カラコルム ナンガパルバット・ルパル側トレッキング 1995/8/29−9/9

【1】

チャーターしたジープ カラコルム・ハイウェイを南下し、パキスタン北部山岳地帯の町ギルギットへ入った。この旅のハイライトであるナンガパルバット・ルパル側トレッキングを、ここを拠点にしてするつもりだった。

 ネパール以外での海外トレッキングの経験がなく、一人で勝手に行けるものなのか、ガイドを伴うべきなのか、泊まる場所はどうするのかなど、アレンジの問題はいくらでも挙げられた。ただ「ルパル壁を見たい」という想いだけが先行し、その目的を果たせれば何でもいいとも考えていた。

 ルパル壁を知ったのは、超人とさえ言われた「最強の登山家」ラインホルト・メスナーの著書「ナンガ・パルバート単独行」だった。ナンガで実弟を失い、自らも凍傷で足指を切断。それでも再び、今度は単独でナンガに挑んだ話だった。その中でルパル壁は、高度差4000mを越える世界最大の岩壁と紹介されていた。それはいったいどんな姿なのか、見たかった。

 投宿した宿で働いていた同年代の青年にトレッキングに行くことを話すと、フレンド・ツアーのファラズ・カーンという人を紹介してくれた。
「旅行代理店をやっている男で、トレッキングの相談にも乗ってくれるはずだよ」
 ただ、学生の身分で充分な資金は持ち合わせておらず、ツアー・アレンジを頼むつもりはなかった。情報を得るためだけでも会ってみることにする。

 なぜだか宿に出入りしていたナゾの男がついてきて、一緒に歩いていたら、別の代理店に連れていかれてしまった。この男、ナンガBCには五度訪れているガイドで、メスナーの訪れたルパル側のことも知っており、「本物」らしかった。その代理店で話を聞くと、ナンガ・トレッキングはパックツアーのように決まったやり方があるようで、それを勧められた。しかしパックには自由がないという固定観念に囚われていたし、自分で行きたいという思いは変わることなく、入山口までの足となるジープのみ手配を頼んだ。

 宿泊と食事をどうにかしなければと思いながら一人で通りを歩いていると、髭面で小太りのオッサンが声をかけてきた。ツアー関連を仕事としているようで、どこか行くのかと訊ねてきた。
「明日からトレッキングに行こうと思っている」
 そう言うと、
「それならガイドを雇った方がいい」
 と言って説明をしてくれた。

「一人でトレッキングに出て嫌な思いをして、パキスタンは嫌な国だと思って帰っていくより、ガイドを雇って安全に楽しんでいってもらった方が、我々にも好ましいんだよ」

 言いながら名刺を差し出した。

「Faraz Khan, Friends Tours」

 そこにはあのファラズ・カーンの名があった。何という偶然か。近くの茶屋でじっくり話を訊くことにした。

「ガイドつきの6日間ツアーにしたらこれだけだ」
 と言って名刺の裏に金額を提示した。

「旅の安全と健康のためなら高くはないと思うけどね」
 ひと通りの話をしたあと、彼は話をとりまとめようとした。こちらとしても納得するところもあり、彼に頼んでみようかという気になった。その場で握手を交わし、US$140を払った。ツアー代で余りが出たら、帰って来た時に清算するという約束をする。出発は明日朝。

 その夜、宿の部屋で荷をまとめているところへ、カーンがやって来て、
「食糧だ」
 と言ってダンボール箱いっぱいの食品を置いていった。砂糖や塩、油などそんなに使うはずないというほどどっさりある。これをザックにパッキングしようにも入るはずもなく、米やタマネギ、チョコ、ヌードル、チーズなど、この重さを運べるとも思えない。

「ナンガを見る準備はできているはずだ。この荷もガイドが何とかしてくれるに違いない」
 そう考え、どうすることもできずにダンボールをそのままに寝てしまった。


【2】

ナンガパルバット(8125)とテント(3550) 出発の朝は雨だった。違う代理店で手配したジープとカーンがアレンジしたガイドが宿へ迎えに来た。ザックに入らなかった食糧のダンボールをそのままジープに積み発つと、しばらくで雨は止み、晴れ上がってきた。途中、道路崩壊による迂回などもあり、夕刻5時にようやくタルシンという集落に到着。ここにある簡易宿泊所に泊まり、翌日から歩き始めた。

 着いた日は曇って見えなかったチョンラ氷河と、ナンガの支峰ラキオト・ピーク(7070m)が快晴の空にはっきり望めた。チョンラ氷河とバツィン氷河を横断したところで、ナンガ本峰(8125m)が見えてきた。

 高い。でかい。実に巨大な山だ。

 時折雪崩れの音が聞こえ、それほどまでに山に迫っていると思うと嬉しかった。
 ルパル側のBCとされる辺りにテントを張り、この日はキャンプ。

 翌朝もナンガがくっきり見えた。半日歩いて谷奥のラトボーと呼ばれる開放的な草原に幕営。ナンガの足下になり、かなり首を傾けないと本峰の上まで見ることはできない。傾斜がいかに急かが分かる。

 4日目はテントを置いたまま、メスナーが単独行時ベースキャンプを置いたとされるシャイギーリまで入った。空は雲が出て、逆にそれが何人もの登山者を飲みこんだ山の恐ろしさが現れているようだった。ここからメスナーは孤独な山に向かっていったのだ。いったいどこを登れば頂上に至るのか見当もつかない。

 帰りにポーランドBCでキャンプをしていた、軍関係者と見えるパキスタン隊のテントに招待された。近隣の村人らと比べ身なりも奇麗で、食事をご馳走してくれる。話の内容も国際情勢のことなど、学があるところも見せ、気後れしてしまう。おみやげに魚とリンゴの缶詰とビスケットまで持たせてくれた。

 同行ガイドの兄の家へ寄った折に、せっかく頂いた缶詰をガイドら皆に食われてしまった。このガイドは英語すらほとんど話せず、トレッキング中あまり良い思いはしていなかったため、缶詰を取られたような気がして腹が立った。良いガイドで旅が楽しめたのなら、缶詰をあげてもいいと思えたのかもしれないが。

 翌日にもう一泊ガイドの妹の家でキャンプし、乗合のカーゴジープでギルギットへ戻った。


【3】

テントに訪ねてきた村の子供 清算をしてもらおうと、フレンド・ツアーのファラズ・カーンのところへ出向いた。そこで、先払いしたUS$140では足りず割増の料金を請求されてしまった。食費が想像以上に高く付けられていて、ふっかけられているとしか思えなかった。いくらかの払い戻しがあるはずだと計算してきたのに、「もっと金払え」である。

 なんだか悔しかった。美しい山とルパルの村人たちさえも汚されてしまったような気がした。

 おかしいという自分の感覚のみを信じて、絶対に金は払わないという思いで交渉に挑んだ。

「料金のリストを見せてくれ」
 納得できる説明を求め、そう言うと、
「ここではレシートは使われず、料金は憶えていない」
 と言う。
「そんなことしたらここじゃ笑われるよ」
 などと軽んじてきた。ここで怯んでは舐められると思い、余裕のある振りをする。
「お前らには変なことかも知れないが、こっちには重要なんだ。一品づつ店で確かめてリストを作って見せないと納得できない」
 そう言ってもなかなかリスト作りはしようとせず、若いスタッフが電卓で値段ばかり打って示してくる。そして現地語でなにやらやり取りをしている。相手は数人だがこちらは一人だ。それでもなぜだか強気でいられた。ようやく翌日にはリストを宿まで持ってきてくれるという話をつけ、一旦店を出た。

 自分でも物価を調べるために、食料品店をまわって値段を聞いたりした。いったい彼等がどんなリストを作ってくるのか、楽しみでもあった。

「リストを見たいか?」
 そう言って宿へ訪ねてきたファラズ・カーン一味の若者は凄んできた。
「ああ」
 軽く応えて紙片を受け取ると、彼等はそれだけで帰って行った。それは手書きで簡単に項目が並べられているだけのものだった。「食器レンタル代」という訳のわからない項目が、やたらに高く書かれていて、むりやり帳尻を合わせているといった感じだ。

 宿の同年代の青年スタッフにそれを見せると、親身になって考えてくれ、
「ちゃんと食ってないものは食ってないって言うんだぞ」
 と言ってくれた。もうひとつこちらに強みがあった。ガイドが無断で余りの食料を着服していたのだ。

 再びファラズ・カーンのオフィスへ行く。リストをカーンに見せると、それは部下が作ったものらしく、彼も混乱している。一転して諦めたように、
「それで君はいったいいくら払いたいんだ?」
 と訊かれてしまった。逆に彼がかわいそうに見えてきてしまった。結局こちらが調べた物価にチップを上乗せして若干の割増料を払った。
 
 あとから考えると、全てぼくの思い込みだったような気がする。ビジネスの何も知らなかった未熟な勘違いかもしれない。当時は学生の身分の貧乏旅行で、US$100さえも高いと感じていたし、パキスタンは物価の安いところだという固定観念もあった。それにガイド付きツアーというサービスを提供した側が、サービス料というマージンを取るのは当然だろう。出発前にそうした契約をしっかり交わしておくべきでもあった。

 払うのは実費のみだという考えしか働かなかったのだ。ただ、ナンガを見たいという強い思いだけに囚われていただけに、現地の人達との軋轢があったことが予想外にショックだった。髭の悪者面で一味のボスのようなファラズ・カーンは悪人に思え、憎くさえ感じていたが、実際はオフィスの若者たちに慕われている一目置かれたボスだったのかもしれない。強気で交渉してしまったことが恥ずかしくもある。

 何も一人で全てをアレンジすることもなく、同行の仲間を募ることだってできた。ジープ一台を一人で占有することは身分不相応にも思えたものだ。まだ旅に長けていなかったということだ。

 今はナンガパルバットは、現地でのそうしたほろ苦い経験とともに思い出される。

2003/4記

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