西域南路を行く

中国 新疆ウイグル自治区 1995/8/8-18

【1】

コルラ〜ルオチアン パンク修理中 初めはそんなつもりじゃなかった。コルラから正しく西域の舗装路を一泊二日のバスでカシュガルに行こうと考えていた。コルラのバスターミナルに着いた日、次の目的地カシュガルまでのバス切符を買っておこうと、券売窓口で、中にいる漢族のオバチャンに、
「カーシィ喀什(カシュガル)」
 と言った。すると、
「明日来い」
 と言われてしまった。そのひと言でコルラでの延泊が決まってしまう。

 翌日、再び窓口へ行く。数人前の日本人客がカシュガル行バスの券を4枚購入していたのを見たため、今日は問題無く買えるだろうと思った。窓口で同じ漢族のオバチャンに言った。
「カーシィ喀什」
 すると、
「メイヨー没有(もう無い)」
 とすげなく言われた。腹が立った。昨日は「明日来い」で今日は「もう無い」とはどういうことだ。なんと理不尽な。ただ売りたくないのだとしか思えない。さっきの日本人はカシュガル行を買ったはずだ。そうは思っても中国語ができないため英語で食ってかかった。漢族のオバチャンは英語を理解したのかしないのか、面倒くさそうに顔をしかめて言った。

「無いっていったら無いのよ!」

「なに!」

 券売員のこの居丈高な態度に更に腹が立った。これが中国の旅なのだ。

「じゃあ、チエモー且末(チャルチャン)はあるのか」

 オバチャンが本当に切符を売る気があるのか確かめるために、試しにそう訊いただけだった。すると、仕方ないといったふうに紙切れに何か書いてよこした。
 チャルチャン行の切符だった。
 行き先を言ってしまった手前、「いらない」とも言えずにそれを買うはめになってしまった。そんなつもりじゃなかったのに。

 こうして図らずも前年外国人に開放されたばかりの、タクラマカン砂漠を横断するシルクロード西域南路を旅することになった。

 カシュガルへ至るには、主道西域北路と西域南路がある。南路はほとんどが未舗装で、タクラマカン砂漠の外円を時計回りにまわることになる。近辺には探検家スウェン・ヘディンが「さまよえる湖」とうたったロプノールや古城の遺跡楼蘭、ロプノール核実験場がある。その上アジアの大砂漠タクラマカンを満喫できるに違いないと、それはそれで悪くない旅のルートだと思おうとした。

 チャルチャンまではバスで二日がかり、約450km先のルオチアン若羌(チャルクリク)に一泊する行程となる。

 朝8時、満席のバスはほぼ定刻にコルラのターミナルを発った。やがて道の舗装は途切れ、さっそく砂漠の風景が広がった。近辺には緑やオアシスの集落が点在していたが、それも徐々に少なくなってゆく。昼頃、突然パンクし、暑い陽射しの下でしばらく修理に待たされる。それ以外にもエンストやら、理由もわからぬことで何度も停車する。

 バスの座席は狭く、前席が迫って膝が真っ直ぐ前に出せず、横にずらさなければ座れない。隣の人と体が密着する。これは4人がけに5人座っているためだが、ちょっとでも隙間があれば体を捻じ入れようとする中国人の気質のせいでもある。

 午後3時頃、ちょっとした集落に停まった。バスを降りる際、公安のような制服の漢族が二人待っていて、乗客一人ひとりに何かを手渡していた。黄色い小さな錠剤のようだった。それを受け取ったはいいが、薬なのか、何のためなのか理解できずに、飲むのがためらわれた。同じ乗客だったウイグル族のおばさんに身振りで「これ飲むの?」と訊くと、頷く。飲まずに何かの病気に感染するのも嫌だ。だがここは中国である。飲んでしまっておかしくなってしまうかもしれない。理不尽な中国の旅に疲れていたせいか、そんな懐疑心も抱いた。
 非常に迷ったが、乗客の誰もが疑問を持たずに飲んでいるようだし、結局思い切って飲むことにした。得体の知れない錠剤を飲むことほど怖いことはない。

 これはその後、とくに体調の変化は見られなかった。何のための薬だったかは分からずじまいである。何かの感染症の予防薬だろうか。近くに核実験場があり、カシュガルに到達した後、ちょうどそこを通過した頃核実験が行われたというニュースを耳にした。あるいはそれと何か関係があったのだろうか。

 そこで昼食休憩した他は、移動が続けられた。水筒にいっぱい詰めておいた水も、日中の暑さに残りは少なくなる。

 砂漠に拓かれた道は悪路で、ポンコツバスはバウンドし、端からぼろだった座席は壊れてしまった。「洗濯板」とも呼ばれる轍に小さく波打つ凹凸の上を走る激しい振動で内臓が疲労する。閉まりの悪い窓はがちゃがちゃと大きな音をたてて打ち震え、徐々に開いてしまう。居眠りもできない。
 それにも増して我慢ならないのが、中国人民たちの傍若無人ぶりであった。ピーナッツの殻やスイカの種、皮など食いカスを床に捨てるのは当たり前で、タバコを吸い唾をたらす男や、挙句に排便をする子供までいる。あまりに当然のように行われるそれらの行為を前に、異邦人である自分は我慢するほかない。

 最悪の乗り心地である。

 一向にルオチアンの町に近付く気配もなく、そのうちとっぷりと陽は暮れてしまった。コルラから14時間、夜10時になっても着かない。気温も下がり、月明かりの中の走行となる。もともと到着時刻など決まってはいないが、あまりに着かないため、ウイグル人客の一部で合唱が始まったりした。乗客同士これだけ長く忍耐を共にしていると、一台の窮屈なバスの箱の中で一体感のようなものが生まれる。ドライバーに命を託す運命共同体だ。

 走れども走れども闇夜に砂漠ばかりで、ルオチアンの灯は見えてこない。もう一生着かないのではないかと思えてくる。

「ルオチアンはまだか、ルオチアンはまだか……」
 心の中で何度もそう唱えた。

「ルオチアンに着いたら、水買って、ジュースも買うんだ」
 ささやかな楽しみを抱き、バスの席に耐えて座っていた。

 真夜中の1時近く、橙色の裸電球が点々と灯るだけの寂しいオアシスの招待所に到着した。それがルオチアンの町らしかった。招待所の食堂で、この地方の主食である皿うどん拌面を食い、隣席だった乗客の案内で午前2時過ぎ、床にありつくことができた。


【2】

ニヤ〜ケリヤ 砂砂漠 朝6時、月さえ西の空に沈まぬ未明に、バスのクラクションで起こされる。起き抜けにバスに乗るとすぐに出発してしまった。水とジュースの考えも潰え、バスの出発時にたむろしてくる物売り達も現れることなく、水筒の残り少ない水だけで出てしまう。一日これだけの水で過ごすことになるのではと不安になった。

 朝のうちはいくらか涼しく順調だった。砂漠の中にぽつんと一軒ある食堂で昼休憩をした時、ここぞとばかりに茶を水筒いっぱいに詰め込んだ。

 窓の外は一面砂漠で、バスの中にも砂塵が入ってくる。対向車とすれ違うと、砂煙で車内でも視界が霞む。足下に目を下ろすと、なぜか床に小さな穴が開いており、地面が見えている。煙突から煙が出るように、そこからものすごい砂埃がしゅうしゅうと舞い込んできて、全身砂色に変色してくる。砂は耳の中にも入って来て、ひどい時には目も開けられない。荷物を置いて穴を塞ぐが、悪路の振動ですぐにずれてしまう。そんな時は足で穴を塞いだ。こんな辺境でバスの床に開いた穴に悪戦苦闘しているとは、いったいこの旅って何なのだろう。

 夕方5時過ぎ、コルラから計28時間のバス旅でチャルチャンへ到着した。

 バスの屋根に載せられていた砂まみれのザックを抱え、新築されたという英語の通じるホテルへ歩く。存分にシャワーを浴びようと思った。しかしどこにそれほど宿泊客がいるのか部屋は満室らしく、仕方なく簡素で安い人民政府招待所へ入った。シャワーを浴びる夢も果たせず、部屋で荷を解くと、愕然とするほど隅々までまんべんなく砂が入り込んでいた。バケツの水で簡単に体を拭い、なぜだか味の薄いペットボトルのスプライトで喉を潤し、一服。砂地獄バス地獄からひとまず逃れることができた。

 日中の暑さの残る、人型に凹んだベッドで、夜目をつぶると、両脇にバス客がぎゅうぎゅうで暑苦しい気分が蘇り何度も目が覚める。ハエも飛びまわり眠りを妨げる。

 西域南路のオアシスを結ぶバスはどこも週2、3便しか出ていない。次の町ミンフォン民豊(ニヤ)行の翌日発つバス切符を買いに昼頃券売所へ行くと、英語の通じる女性がいて、
「5時からだ」
 と言われた。

 5時に再び券売所へ出向く。がらんとした四角いコンクリートの部屋。壁の真ん中にぽつんとひとつ、40cm四方の穴があり、白い鉄の扉で塞がっている。

「これが売り場、かな……」

 まさか、この穴の扉が開いて切符を売るのだろうか。

 5時になるとちらほらと切符を求める客が集まってきた。穴の周囲に何気なく近寄っている。やっぱりそうだ。この穴から切符は売られるに違いない。

 5時をまわった頃、鉄の扉の向こうでかちゃかちゃと開けようとする音がした。途端に何人もの客が僅か40cm四方の穴に密集した。並ぶということは絶対にしない。遅れてなるものかと、彼等に混じって入りこもうとした。

 穴が開く。

 我先にと切符を求める何人もの客が、小さな四角い穴に紙幣を握った手を突っ込む。できるだけ奥へ手を伸ばせば買えるというのか。顔をねじ入れようとする男さえいる。誰も必死の形相だ。僅かな求人の仕事を求めて群がる失業者か、腹をすかして食券を求める奴隷のようだ。まるで気が狂っている。

 何か違う。
「こんな者たちと争って切符を買うなどうんざりだ」
 そう思って密集から身を引いた。

 なんということもない、それらの客が帰った後窓口にニヤ行の切符を求めると、簡単に買えた。あれはいったい何だったのか。無為の争いとしか思えない。切符を手に券売所を出ようとすると、鉄の扉はがたんと音をたてて閉められ、穴は塞がれてしまった。

 出発は明朝6時。バス内で飲むための水を充分手に入れ、宿へ戻る。
 
「6時発とは早いなあ」
 そう思いながら、5時半に宿を出て真っ暗な通りを歩き、バスターミナルへ向かった。だがバスターミナルはひっそりとし、入り口の門も閉まっていた。砂漠の朝の寒さをしのぎながら待つこと2時間、ようやく門が開き、中庭に入ってしばらく待っているとバスがやって来た。

 今度は席取りの争いが始まる。乗車口に大荷の客が密集し、詰まってほとんど乗り込めない。後方から押し込もうとする者もいる。それを見た幾人かは窓から車内になだれ込む。そんな争いに加わるのは御免で、混乱が収まった後からバスに乗り込んだ。しかしすでに席は無く、定員40人ほどに60〜70人も乗っている。足の踏み場もないほど通路や隙間には荷が置かれ、バスの天井は異常に低く、立つと頭がぶつかる。また我慢の乗車だ。
 理由もわからず発車はむやみに遅れ、結局町を出たのは9時半過ぎだった。

 バス中のウイグル人の腕時計を見たとき、ようやく気付いた。自分のものより2時間遅い。
「そうか、ここは新疆時間が使われているんだ」
 北京時間と2時間の時差がある。このバスの出発は新疆時間の6時だったのだ。だから今朝ターミナルに来た時も、門は開いていなかったのだ。2時間も早く来ていたことになる。

 12時間、一度も座ることなくニヤに到着。水を充分持っていたのは正解だった。

 ニヤは比較的爽やかなオアシスの町で、ウイグル人も人当たりが好い。しかし砂漠の町だけあって水は自由にならず、宿の洋式トイレには便が詰まっていて、なんとも酸っぱい匂いを発していた。離れの衝立のない厠の方がまだ快適である。

 ホーティエン和田(ホータン)行のバス切符を買いにターミナルへ行くと、他に誰も客がなく、拍子抜けするほど簡単に手に入った。西域南路は開放後間もないからか、当時旅行者を悩ませていた外国人料金はなく、ほとんどが人民料金で切符を買うことができた。

 二泊してホータン行バスに乗る。砂漠の景色にも緑が増え、乾いた目に潤いを与えてくれる。ユーティエン于田(ケリヤ)からは舗装道になり、走りが極端に快適になった。

 ホータンの宿で漢族の男と同室になった。中国語はほとんどできないため筆談になるが、それでもお互い理解するのはひと苦労。彼の名は張永金というらしい。
「知っている中国語は?」
 と訊かれ、「ジョーリィ(ここ)」「ナァリィ(どこ)」と言ったら彼は首を左右に振って下を向いてしまった。後から考えると、「ここはどこ?」と訊いているとも取れ、自分がどこにいるのか分からないと思われたのかもしれない。判らないと言っているのに構うことなく、第三次世界大戦やらアメリカがどうのと、男に延々夜中の1時まで語られてしまった。

 翌日のカシュガル行夜行バスの切符を手に入れ、ようやく西域南路の中国バス地獄旅も最後となる。

 夜行とはいえ、道は全舗装で走りは軽い。夜半にバスやトラックが集まり賑わいを見せる町で休憩を挟み、夜道を快走。朝方、西の果ての街カシュガルへ至った。これでカラコルム・ハイウェイへ向かうことができる。桃源郷とも喩えられるフンザを訪れることができる。

「やっと中国を抜け出せる」
 それが何より嬉しかった。

 シルクロード西域南路はタクラマカン砂漠のロマン溢れる旅路のイメージもあるが、路線バスの旅は実際のところ、中国人民の理不尽と窮屈なバスにひたすら耐える我慢の行程だった。そして栓をひねればシャワーが勢いよく出る幸せと日本のサービスの質の高さを噛み締めた旅でもあった。

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