リカンカブール火山
南米アタカマ高地(チリ・ボリビア国境)リカンカブール火山5916m 2004/7/3 

                                  【1】
 峠と思って登りついてもまだ先には登りがある。
 一気に景色が開けるわけでもない。
 もったいぶってなかなか見せようとしない。
 チリ、ボリビア国境周辺の高地火山帯アルティプラーノはそんなところばかりだ。

「世界最悪の道、世界最高の景色」
 と言われる南米アンデスのアルティプラーノにやってきた。
 ボリビアの町ウユニを自転車で発ち、道とも呼べない単なる轍、砂地の悪路を走って6日目だ。
 最後にチリとの国境上にあるリカンカブール火山に登ってやろうと思っていた。

 標高は5916m。

 この地域の最高峰というわけではないが、今回の旅のルート上にあるもっとも目立つ火山で、散々苦しめられた自然を高いところからひとつ見下ろしてみたかった。この峠を越えればその山も見えるだろうかと思ったが、なかなか姿を現そうとしない。

「またか。もういい加減にしてくれ」

 乾季にしては意外にも雪景色になった峠からようやく下りに入ってゆく。
 左へと大きくカーブする道の正面に初めて目指すリカンカブールが視界に入ってきた。

 コニーデ型のきれいな三角錐で、遠目にもでかい。
 こいつに歩いて登る自分を想像すると、ちょっとひるむ。
 麓には緑の湖ラグーナ・ベルデが横たわっているはずが、いくら下ってもやはり湖の全貌を見せてはくれない。

麓の標高は4300mだが、峠はそんなに高かったかと思えるほど長く下り続け、砂地の悪路をくねくねと走り、二つに分かれたラグーナ・ベルデの西側の湖畔に立った。
 本当に緑色で風に波立つ湖面の対岸に、さっきとは打って変わってリカンカブールが威圧するでもなく立ち上がっている。

「これなら行けそうだ」

 実際に登るルートを目の前にした時の感覚は大事だ。山に、そこにある自然に呑まれているか、太刀打ちできるかがここで分かる。ラグナ・ベルデ湖畔のベースから

 標高差1600mをベースから一日で往復する算段だ。ちょうど富士山の五合目から山頂の往復と同じ標高差だが、高度がずっと高い分富士山より厳しいものになりそうだ。

 湖の連結部の細い流れを何度か往復して自転車と荷を対岸へ渡し、裾野を登った適当な岩影にテントを張った。

 驚いたことに、そこへリカンカブールに登ろうという世界一周中のサイクリストがやって来た。
 日本人で中西氏という。
 ヨーロッパ、アフリカを中心に60カ国以上、7万kmを旅してきて尚、あと三年は旅を続けたいと言った。彼は前日フランス人の旅人と麓のガイドを雇って登ろうとしたが、天候が悪く、5400m付近で引き返してきた。登頂へのこだわりから、もう一度、一人で登りに来たのだ。
 この辺境で、奇遇にも力強い同胞の輩。自然のなりゆきで共に登ることになった。


【2】

 山を目の前にした夜はどうしてこうも眠れないのだろう。穴が開いてぺしゃんこのエアマットのせいだけじゃない。未明に起き上がり外へ小便に出ると、無風で眩しいほど明るい月が出ている。天候は良さそうだ。

 4時5分、出発。
 月光に照らされたリカンカブールの三角形の輪郭が発光し産毛のようだ。
 中西氏と話しながら歩くが、標高が高いためすでに呼吸が荒い。腹式呼吸で苦しさをねじ伏せる。

初めは湖畔から緩やかに伸びるアプローチ道を進み、やがて左隣のフリケス峰とのコル下の切れ込みへと導かれるように登って行く。
 丘を登り抜け、右手となるリカンカブールへと徐々に急になる斜面を歩く。
 左には石積みのインカの遺跡があるというが、暗くて見えない。
 トレースは正面右の尾根状を登っているはずだが、どこにあるか分からず、それらしい方向へ真っ直ぐ歩いた。
 浮石エリアを斜断してゆくと、突然尾根状のトレースらしき踏み跡に出くわした。それをそのまま上部へと辿る。

月はリカンカブールのちょうど火口に吸い込まれるように消え、月光に照らされていた足下も暗くなる。

 前日までに降った雪の吹き溜まりでは脛までもぐることもある。
 トレースを外れると浮石で歩きにくく、消耗が激しい。火山礫の堆積ルートのため、ガレ場になっているのだ。
 進度は悪く、面白くもない登りを我慢して上を目指す。
 立ち止まり、ザックからペットボトルを取り出すと、飲み水は凍り始めていた。

朝陽、雲海

 やがて日の出を迎える。
 ラグーナ・ベルデのある盆地は一面の雲海。方々の山々が陸地のように広がって見える。

火山は高度をかせぐほど景色がひらけるという良さはあるが、登り自体は単調極まりない。
 所々、数個の石を積んだケルンがあるが、あまりあてにならず、雪の下に隠れたトレースらしきところをよく探しながら、ジグザクとスイッチバック式に登る。それでも大きな浮石や砂利に足下が崩れ、容易にはいかない。力を込めて踏みしめるほど、大地にパワーが吸い取られてゆく。
 月も、人の力も吸い取ろうとするこの山が、巨大な生き物のような気もしてくる。

 8時過ぎ、5300m辺りにあるインカの石積みを通過。思ったより時間がかかっている。そんな焦りを見透かしたかのように中西氏が口を開いた。

「まあ、じっくり行きましょう」

その言葉に励まされる。

 じっくり行くと徐々にスカイラインも近づいてくる。
 数歩行っては止まって呼吸を整えるという、完全な高所歩行になっているが、スカイラインが手の届くところまで来た。
 この頃から中西氏は遅れだすが、自分のペースを崩すのも億劫で先行していった。 

 上部の地形が不明瞭で、真上にある岩のピークをどちらへ巻くか迷う。左のコルになっている方へ抜けられそうで、そちらへ左上すると、ようやくスカイラインへ登り抜けることができた。
 しかしピークは見えず、岩の堆積した丘を越えなければならないようだ。一服したいところだが、様子見にもう少し丘を登ってみる。
 平らな広い場所があり、その奥の斜面の上に三つのピークが見えた。
 雪のラインが、真ん中のピークへとジグザグに登っており、それが頂上へのトレースのようだ。
 しかしまだまだ遠く、長い道のりに見える。

 しかし行く。諦めるべき理由はない。

 平らな場所を横断し、徐々に急になるつづら折りの雪道を登る。傾斜は見た目以上にきつく、角ごとに立ち止まって呼吸を整える。激しく動いてしまうと、気が遠のくほど息苦しい。呼吸とはこれほど困難なものだったか。雪の下はぐずぐずのザレで蟻地獄の登り。一歩でほんの少しでも上がれればいい。それで確実に最高点へ近付いているはずだ。

 急なつづら折りをクリアすると緩やかになる。少し進むと、それが山頂お鉢の一部であることが分かった。右奥に石積みと、隣にエビのシッポの付いた木杭が見え、そいつが最高点のようだ。ゆっくりと一定のペースで近付いていった。

 山頂にて11時登頂。登りに6時間55分を要した。

 山頂からは惑星的な荒漠とした大地と、無数の火山、湖がボリビア、チリ、アルゼンチンにまたがって広がっている。
 地球創世の姿を垣間見る思いだ。
 途方もないアルティプラーノの広がり、赤茶の大地。この色はアンデスの大部分を成すイメージだ。

 リカンカブールには火口湖があり、それは世界最高所の湖とも言われている。月を隠してやしないか覗き込むが、今度は自分が吸い取られたらまずいと、それ以上近付かないことにする。

 人間的あたたか味のこれっぽっちもない山頂に長居は無用だ。10分ほどで下降に移った。

 直下の急なザレで中西氏とすれ違い、先に下山することを言う。暗いうちのルート選択では彼にとても助けられた。下山路もルンゼのザレが速いと教えてくれた。

 登り抜けてきたコルまで降り、そこから更に先のルンゼを目指す。切り立った岩の門を抜けると、急傾斜のザレのルンゼが遥か麓まで一気に下っていた。そこを走るように、崩れる足場に身をまかせて下る。それでもなかなか緩やかな場所へは近付かない。一時間ほど走ってようやくインカの遺跡のある広い場所へ降り立った。

疲労を感じながらもベースまでハイペースで歩いた。
 ラグナ・ベルデ湖畔を自転車で進むやがて自分の黄色いテントと自転車が見えてきた。山頂からは2時間。

テントを畳み、自転車で凸凹石と砂地の悪路を進んだ。
 ラグーナ・ベルデの湖畔に、他には何もない、本当に何もないところに、一軒宿がぽつんとある。そこで下山してくるはずの中西氏を待った。しかし一向にやって来ない。

 迎えに出るべきかと動き出そうとした日暮れ頃、疲労困憊といった様子で彼は宿に入ってきた。登頂はしたものの、高度障害でガレの下山に体が動かず、時間がかかってしまったという。この間も6000m近い山に登り、前日もリカンカブールの途中まで行っていたにも関わらず、苦しめられたのだ。
 やはりこの山は何かある。
 中西氏は、
「記念に」
 と言ってザックから赤黒くくすんだ石のかけらを取り出した。山頂から持ち帰ったものだという。それは単なる鉱物ではなく、持ち出すべきではない石のような気がした。そのまま山頂に留めておくべきだったんじゃないか。この山を眠りから覚ましてはいけない。そっとしておいたほうがいい。

自転車で国境をチリへと越えると、待望の舗装路となった。
 ようやく“世界最悪の道”を抜けきる。
 標高差2000mのダウンヒルをノンブレーキで疾走すると、右後方になってゆくリカンカブールは下るほどに高くそそり立ち、チリ側からはとても登ろうなんて気は起きない。
 だが目立つ山だ。
 アルティプラーノへ入ろうとする者を見張る門番のように、フリケスという衛兵を従えて、でんと立っている。

(2005年6月"地球を登るトレッキング・マガジン"Packers創刊号に掲載)

登山データ

中腹よりアルティプラーノの大地 リカンカブールにはノーマルルートしかない。三角錐の火山でどこから登っても技術的な違いはなさそうで、普通、高低差の最も少ないボリビア側からフリケス峰とのコル経由で登られている。

 登山をアレンジする場合、二通りのアプローチ方法がある。
 チリ側のサン・ペドロ・デ・アタカマ(2700m)には登山ツアーも扱う旅行代理店が幾つかあり、そこでアレンジが可能。しかし高度順応の問題がある。
 もうひとつはボリビア側のウユニでリカンカブール登頂を組み込んだ5〜6日のランドクルーザー・ツアーがあり、これに参加する方法もある。こちらは4000mの高所を巡るため、高度順応もできてくるだろう。しかし時間的な余裕がなく、登山はオプションといった感じで、本気で登ろうと考えている者にはチャンスが限られてしまいそうだ。

 辺境の地であるだけに交通機関はない。自力で行くならヒッチハイクしか手段がない。ラグーナ・ベルデ湖畔のイト・カホネス(Hito Cajones)に一軒だけ簡易宿泊所がある。ここからリカンカブールの麓まで悪路を車で30分ほど。

 登山用にはまともな地図は手に入らない。もっとも、地図は不要なほど登山ルートは単純だ。エリアの概要を知るにはチリで発行されている「Altiplano」というチリJLM発行の観光地図(道や町の名は全く当てにならない)を手に入れるか、TPC地図(アメリカ運輸省発行航空地図)の該当エリアを使用できるだろう。今回はその両方を持っていたが、それで充分だった。

 キャンプ地は湖畔からインカの遺跡のある丘にかけて幾つか点在しているが、水は手に入らない。食料も近辺では手に入らないので、出発する町で全て準備していく必要がある。

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