黄蓮谷の旅
南アルプス甲斐駒ケ岳 黄蓮谷右俣 2003/9/18-20
同行 中村、石川
【1】
大きな溪谷を遡行する旅だけに、気になったのは谷の核心部を通過する二日目の天候だった。予報では大崩れはなさそうで、予定通り出発した。
竹宇駒ケ岳神社の駐車場を午前6時に出る。
様々なルート情報から入溪点をどこにするか迷ったが、尾白川溪谷道と呼ばれる、尾白川本谷の右岸に付けられた道を行くことにする。この道は溪谷を楽しむ気軽なハイキングコースのイメージだが、実際は険谷に鉄製の渡しや階段がつけられた、起伏の激しい登山道であり、重荷に湿気で少々辛い。「神蛇の滝」から先は比較的歩き易くなるものの、溪谷道最奥「不動の滝」まで二時間近くを要した。
ここから尾白川本谷をそのまま遡ろうと右岸を進もうとしたが、踏跡もなく、先の困難を思いやり、結局溪谷道の橋を対岸へ渡り尾白川林道へと登った。
暑く喉が乾く。
崩落砂礫が覆い、草樹木が人工の道を自然に戻そうとしている。その廃道となっている林道を歩き、トンネルを三つ抜けると林道終点。ここから明瞭だが急な径が尾白川へと下り、ようやく沢旅の様相になる。
河原を少し歩くと大きな淵が現れ、透明なはずの水が深い緑に見える。何だか怖いほどだ。泳がず左から越える。
岩肌を滑らかに落ちるナメ滝が続き、二つ目を左から進もうとするが、丸く滑りそうで早速ロープを出す。段の立ちこみに一発、安全確保用のハーケンを岩溝に打ち、更に中間支点にカムまで使用する。滝の直登は案外てこずる。
丹沢や奥多摩と違い、谷は深く沢床は広い。
ナメは少しでも傾斜が強いと、とても登れそうになく、左(右岸)の草付樹林に入って巻く。だが一旦巻きに入ると、再び流れへ戻るのも容易でない。トラロープのフィクスがあり、それに頼って登ったり、トラバースを強いられる。踏跡は不明瞭で、二箇所目の巻きでは登り過ぎ行き迷い、下り直して錆びた鉄杭にロープをかけ、つるつるの岩に足を滑らせながら下り、やっと対岸へ渡った。
やがて噴水滝と呼ばれるところに着く。しかし水量が少なく、噴水の如くは水を吹き上げていない。ここも磨かれた岩で、左をフリクションで登る。
しばらく溪独特の非常に美しい緩やかなナメが続き、雄大なアルプスの谷を堪能できる。
地図を見ると、噴水滝から黄蓮谷との二俣まではそう距離はないが、歩けど歩けど二俣にならない。噴水滝は本当はまだなのか、現在地はどこなのか。やや不安になる。
谷が右に大きくカーブしてゆく辺りで、ようやく黄蓮谷が左から出合う。2万5000図上の噴水滝の位置が違っているようだ。左岸の岩壁の位置から考えてももっと下流側に記されているべきものだ。
ここからやっと本来の目的たる黄蓮谷へ入ってゆく。
【2】
黄蓮谷に入っても相変わらず大きな滝は直登できず、巻きとなる。踏跡ははっきりせず、藪ともなり、徐々に消耗させられる。
千丈滝は左から巻きに入る。ここは沢すじから離れる大巻きとなり、黒戸尾根五合目から降りて合流するはずの径には気付かずに、千丈の岩小屋が左上に見える辺りで沢へ戻ることができた。
だが目の前の滝を横目に今度は右から巻きに入る。
この日の行動は時間的にここまでで、出くわした樹林のスペースにテントを立てた。
潅木を集め焚き火をする。
すぐ下には鹿のものか骨と毛が散らばっている。猟師が獲物を解体した跡だろうか。
この辺りから谷は傾斜を増し、甲斐駒ケ岳山頂へ一気にせり上がり行く手を阻んでいるようだ。明日の行程を思うと何となく気が重い。
焚き火の中に、アルミホイルを巻いた魚を放り込み、ホイル焼きにする。
炎を囲んで更け行く谷の夜を味わう。
翌6時15分発。
ゴーロを少し歩くと大きく坊主ノ滝が立ちはだかる。とても手の出せる滝ではなく、右のガレ沢を少し詰め、左の樹林へ入る。ガレ沢をそのまま登ると登攀対象ともなる坊主岩へ至るようだ。樹林に踏跡はあるものの、どこまで登っても沢すじへ戻れず、またも大巻きになってしまう。三つ四つ木枝にテープが巻かれていた他は標はなく、径は徐々に薄れ、消えかける。
樹間から傾斜のある滝が見えてきたが、それを左に見て谷は右へと折れてゆく。その滝を黄蓮谷左俣と見て、もう沢床へ戻らなければと下を覗き込む。やや登った所から床を覗きこむと、歩けそうな溪相になっており、懸垂下降でやっと水際へと立った。
左岸に高い岩壁が見えてくる。いよいよ核心の奥千丈ノ滝が始まる気配だ。
最初の滝は右のランぺをロープ無しで登ったが、その上からはシャワークライムを避け、左の泥付ルンゼへ入った。
この選択が再びの大巻きに巻きこまれようとは思ってもみなかった。ここで水線通しに登っていれば奥千丈ノ滝を味わえたはずだったのだ。
足下の悪いルンゼを途中で登ったが行き詰まる。ハーケンとカムで確保支点を作り、ロープを出した。すぐに沢へ戻れると思っていたが、流れのある右側へトラバースしようもなく、脆い岩と草付の危うい登攀で樹林へ突入してしまう。
急な藪と複雑な地形を、右に沢を感じながらも登り続ける。
長い巻きの末、逆くの字滝と思われる急なナメの一画に出る。奥千丈ノ滝は直登されているはずだが、目に映るナメの傾斜ではフリクション登攀などとてもできそうにない。残置ハーケンもひとつ見えるが、そこまでさえ行き着けそうになく、巻きから抜けるのをためらってしまう。同行の二人は巻きに嫌気がさしかけているようだが、流れを遡ることも御免こうむりたい。
結局降参して巻きへ戻る。
また巻き、巻き。
高巻き高巻き、やがて明るく日の射す岩の上へ出た。沢床は100mほど下方で、そこからまたまた急な高い滝が立ち上がっている。
「あれ、登るの?」
迷う。確実にシャワークライミングになる上、支点への不安もある。
今度こそはこの滝の上へ出るつもりで、結局巻きへ戻る。
藪をしばらく登ると左からの枝沢に出、そこを懸垂下降し、枝沢を下って久し振りに本流へ戻った。
なんと奥千丈ノ滝は全て巻いてしまった。というより奥千丈ノ滝の全貌を見ることなく越えてしまった。
【3】
この上の小滝群はハーケンを打ったり、カムも使用し、ロープを出して登っていたが、やっぱり登れない滝に行き当たる。もう、巻きに充実感を見出すようにさえなり、いかに美しく巻くか、いかにスムースに巻くかなど考えるようになる。
「巻き」もひとつのルートとして捉えれば、パターンや種分けができるのではないだろうか。「日本100名巻き」とか、「日本の巻き場」とかいうガイド本もできはしないだろうか。「巻き場グレードW級(踏跡不明瞭で藪が濃い。トラバースにロープが必要になる。)」「Y級(滝の直登より困難。沢へ戻れないこともある。)」とか。
右岸を巻く。緩いが結構手応えあるクラックを登って樹林に入る。
その先にはひっそりと緩傾斜の大きな岩壁がせり上がっている。それを横切ると比較的すぐに巻きを脱すことができた。
ザックがでかいと窮屈なバンドをカムのA0でトラバースし、水際へ戻る。
奥千丈ノ滝を越えてもまだ山頂は見えない。南アルプスはデカい。
この辺りは左岸の岩壁からの崩壊跡が激しく、尖った岩がゴロつき雰囲気が良くない。
奥ノ二俣は左に30mほどの滝が落ちており、その左を巻こうとしたが手まどりそうで、戻って一旦伏流となっている右俣へ入る。踏跡を辿って左の草付を抜けると奥ノ滝下へ出た。三段60mとのことだがそれは明瞭でなく、もっと大きいようにも見える。
右の踏跡へ入ると急な草付に階段状の素晴らしい巻き道となっており、非常にスムースに滝上へ出ることができた。ここは「日本100名巻き」のひとつに選出しよう。
目の前は幅広の段状の涸滝で、ここは残置ハーケンのある左隅からロープを引いて登り出した。上部のハーケンが連打されている部分が非常に難しく、カムA0とスリングに足を突っ込んでの立ち込みで抜ける。
ようやく歩き抜けられそうな最後の詰めの様相となり、ゴロ岩の間をくねくねとひたすら登った。
二俣状の広い箇所は右寄りにラインを取って上がると、ウサギギク、ミヤマアキノキリンソウの咲くお花畑であった。稜線も近い雰囲気だ。だがガスが巻き、日暮れも迫ってきた。
日が暮れるが先か、稜線へ立つが先か。
右奥に隠れたルンゼを目指して登り、小尾根の左基部にひっそりと登る小さな草原へ上がる。余裕があればほっとできる場所だろうが、日没に急かされ、そうもいかない。
稜線はまだかと前方を窺うが見えない。
その上にもうひとつ小草原があったが、稜線はまだ見えない。
足下は暗く、見えづらくなってくる。
ここで日は暮れ、ヘッドランプを出す。
このまま径を失えばビバークになる。偵察にひとり先行した。
次の樹林を枝を掻き分け抜けると、突然稜線へ出た。
バテた中村さんに最後力を振り絞ってもらい、6時半過ぎに山頂直下に抜けることができた。
ヘッドランプで時折降る小雨の中下る。黒戸尾根七丈小屋上の幕営地に到着したのは午後9時。下界の視界は良く、街の明かりが美しく輝いている。そんな光は何か嬉しい気分にさせてくれる。
明日は登山道の下山だけだ。黄蓮谷遡行の充実感に浸りながら、のんびりメシを食って寝た。
雄大な日本アルプスの谷を遡行するというのは、和心を感じさせる独特の風情がある。
ルートを正確にトレースすることにこだわる必要もない。遡行路に正解不正解もない。自分の目で見て判断し谷を詰めてゆくというのは、先行きの不安はあれど、自由で、抜け出た時の嬉しさもあるものだ。