ロシアン・ルーレット〜屏風岩東壁ルンゼ登攀

穂高岳屏風岩東壁  2003/8/6-9
 ルート解説ヘ 

徳沢の大木

 穂高に来ると必ず雨。
 梅雨明け10日の晴天を狙って8月の前半に日程を組んだにもかかわらず、またしても雨の周期に当たってしまった。どうしてこうも祟られるのかと歯噛みする。
 入山日は徳沢まで。登攀可能な天候は翌日1日だけのような気がして、そこに同行の仲間たちと屏風集中をかけることが決まった。雲稜ルート、東稜に各1パーティ、そして自分は石川と東壁ルンゼを登る。
 午後は時々雨。翌日も同じような天候と予想すると、夕方までには確実に壁を抜けていたい。

【1】

屏風岩東壁ルンゼ
同行 石川

 7日朝2:40起床、3:35発。ヘッドランプで横尾まで。暗闇でもふたりなら不安がだいぶ軽くなる。横尾で屏風パーティは集結し、岩小屋前の渡渉をこなして1ルンゼを遡る。雲は出ているが雨の気配はなく、迷うことなく屏風岩へと詰める。

 上部岩壁へのアプローチというには手応えのあるT4尾根基部に6時。
 T4尾根に取り付く雲稜組、東稜組と別れ、急な緑草に下るガレを右に降りる。ほどなくリングボルトが2本ある東壁ルンゼの取付。丁寧に準備をし、6:30テイクオフ。

 久し振りのデカいルートである。だが何も言わずとも分かっているパートナーとふたりであるためか、圧されるような緊張感はない。その信頼は力ともなる。それがザイルを組んで登る良さのひとつでもある。

 出だししばらくは支点が取れないが、濡れたところに気を使う他は難しくない。
 最初のビレー点はピッチが短すぎるようで通過。ピッチ数を多くするほど時間が必要になるものだ。しかし50m伸ばしても次のビレー点は現れず、残置ハーケンにキャメロット(岩溝に噛ませて使う登攀器具)を一つ加えてピッチを切る。
 続くピッチは石川で、すぐ上のバンドを右に移って直上したところで、結局通常の2ピッチ目のビレー点になった。

三日月レッジへのトラバース 3ピッチ目はリード。すぐ右のカンテをトラバースで越えると残置ボルトが続き、広い下部スラブの人工登攀となった。リングのないボルトも出てくるが、比較的しっかりしたものも多く、墜落を止めてくれる中間支点に困ることはない。
 「三日月レッジ」と名付けられたポイントへは汚れた長いスリングが垂れており、これに掴まってレッジへ移る。
 ピッチを切るビレー点が作られているが、やや上方にも立派なビレー点が見えていたため、そこまで伸ばすことにする。
 更に右へ人工トラバースをする。クラックに打たれた残置ハーケンまで手が届かず、人工登攀の秘具チョンボ棒を取り出す。こいつを使えば届くのだ。長いルートであるだけに、迷って時間をかけたくなかった。

 この上は黒部丸山東壁の緑ルートを思わせるスラブの人工が続く。そこをフォローで登っていたところ、上から
「あ、ああ〜」
 という声とともにクライミング・シューズがコロコロと落ちてきた。キャッチしようもなく左側から下方の藪へ落下していってしまった。

「なんと…」

 ビレー点まで登りつくと、石川はシューズのかかとを踏んでビレーしていたら左が脱げ落ちてしまったと言う。
 一瞬「敗退」も考える。訊くと、
「普通の靴で登る」
 と迷いなく言い切った。どう対処すべきかと逡巡する気持ちを一蹴してくれた。その代わり
「全てフォローで」
 と。そんな次第で、以降は全リードすることになり、気合いを入れ直す絶好の転機となった。石川は右足に残ったアッセントを、左に革の山靴をしっかりと履く。
 気がつけば自分の方も、リング無しボルト用に用意したワイヤーを二本とも、知らぬ間に落としていた。

 下部最後のピッチは2手の人工後フリーになるが、手掛かりとなるホールドが無く、パーミングで登ろうと立つと、左足が瞬間ずり落ちヒヤリとする。
 傾斜は無いが気は抜けない。

 トゲ植物のある緩傾斜帯を草を掻き分け登ると、上部壁の基部T3となる。左は雲稜に、右はT2から東稜に取り付いている仲間たちが見える。その他に屏風東壁に人は見えず、我々だけの世界である。
 一服し時計を見ると9:50。完登には充分な時間が残されている。この時はそう思っていた。


【2】

上部岩壁1ピッチ目 上部岩壁はチムニー(煙突状の岩形)から始まるが、ザックが引っかかって苦しい。左に出てフリーになると手足の自由がきいて楽。
 直角に折れた形のハングを右隅からカンテを回り込むように抜け、少し登ると、下から見えていたビレー点。

 続くピッチの人工部分は打たれていたリングが切れ飛んで無く、切れそうな細いスリングが連続している。安心できる支点はほとんど取れず、いつスリングが切れ飛ぶとも知れないロシアン・ルーレット。ここでワイヤーを使えればと思う。慎重に、
「頼む、切れないで」
 と念じながら体重をあずける。
 左上では扇岩テラスからの人工ピッチをリードしている仲間が、「3mmだぁ…」と叫んでいる。

 A2となるハング下まで行き着いたものの、ギアが不足しそうで、アブミに乗ったまま一旦ピッチを切り、フォロー石川を迎える。

 A2のハングは石川の目の前での空中遊戯。庇部に3つ残置が垂れ、抜け口は右にラープが打たれており、これにアジャスタブル・ディジーチェーンをかけて体を引き寄せる。その上のピンにアブミがとどけば「いただき」だ。この辺りの人工技術の要領は慣れが必要だと思う。
 フリー混じりで直上すると、狭いが安定したテラスがあり、短いがビレーに入った。

トラバース 上部の4ピッチ目はルート図に従って、正体の見えない左のルンゼへトラバースで入り込んでみる。見た目は内面で登り易そうだったが、実際登ると傾斜がきつく、手応えがある。真上の潅木を避けるように、おおまかなガバの続くフリーで右のカンテへ出ると、下に石川がロープを握って見上げている顔が見えた。
 アブミを使って少し上がると、再び狭いテラスがあり、ビレー態勢をとる。

 時折仲間からコールが響き、屏風岩独占の気風がクラシカルな登攀を盛り上げてくれる。

 また左のルンゼへ入り直上したところ、V字のテラスとなり、右へ行くべきか、左へ行くべきか、悩んだ。
 先ず、ピンの見える左を登ろうとするが、右のような気がして戻る。
 右のクラックを登ろうと手をかけるが、案外難しく、左のピンを絡めて登ろうと、もう一度左から攻めた。
 雲稜ルートもそうだったが、屏風は上部の意外なところに魔物がひそむ。
 アブミを出して登るとどうしてもそのまま左の草付へ引き込まれ、
「違っているぞ」
 という自分の声に反してそのまま登り続けてしまった。支点は点々とあるが古く、正規ルートはやはり右らしい。
 潅木のある垂壁にてこずり、木の根を掴んで力ずくで這い上がる。
 3年前の雲稜ルートの上部でも奮闘を強いられたことが鮮明に思い出された。
 上の様子が分からず、浮きぎみの残置ハーケン二つでピッチを切る。改めて見ると、数m上に良いビレー点があった。

 上にはもうひとつのA2となる黒いハング(「への字ハング」)が見えている。

 左の凹角を3手の人工で抜け、おおまかな草付をこなし、ハングへアブミで迫る。下からはラインが見えなかったが、下まで来るといくつかしっかりしたリングボルトがあるラインが右上しているのが見えた。
 ハングに浮く前に長めの支点を一発取る。
 再び空中遊戯。
 ここはしかし片方の足が着く上、ピン間隔も近く、さほど苦しさはない。連続している錆びていないボルトの一発目に支点を取り、上昇を続ける。
 次が外皮の裂けた青い3mmスリングで、これに全加重するのは怖い。だがこれまでアブミ登攀でスリングが切れた経験はなく、
「大丈夫さ」
 と言い聞かせてアブミをかけた。

 映画「ディア・ハンター」でC・ウォーケンが演じる男は、旧友デ・ニーロを前に今の自分と同じ気持ちでトリガーにひとさし指をかけたに違いない。自分ではコントール不能な運命に取り巻かれていることに、男は気付いていない。

 手前のボルトからアブミを外し、一連の動きで青スリングにできる限り荷重がかからないよう、右手で次の腐りかけのテープスリングへ掛け替える。
 そこに乗り移ろうとした時、

 ベシッ!

 同時に重力が消えた。

「うへ〜〜」

 気が付いたら右腕だけで空中に揺れていた。
 3mmの青スリングが切れたのだ。

 墜落は免れた。左手に残ったアブミを一手下のリングボルトに掛け直し、そこにもうひつつ支点を取る。一本飛ばしても上へ行けるため、そのまま登ることにする。

 それにしても右のテープスリングはよく切れずに耐えてくれたものだ。
 ふたたびそのアブミに乗り、体を抜け口に引き上げると固め打ちされたハーケンがあった。そこにアブミ2つをセットしても、次のピンにとても届かない。しかもそこにはまた腐った3mmが下がっている。チョンボ棒を伸ばしてフイフイを引っ掛けるが、あの「ベシッ」と切れる感覚が鮮明にあるため、思い切った加重ができない。傾斜は緩いため、静かに体重を分散させながら立ち、上の、まだましなボルトにアブミを掛けた。
 数手で木のあるテラスに登り着く。

 フォローをビレー中、雷鳴とともに雨が本降りとなった。ハングに苦戦しているのか、ロープの動きは悪い。みるみる壁は濡れてゆく。

 何かどうしようもない不安にかられる。

 雨を滴らせて登ってきた石川に笑顔を作る。不安を打ち消すために。

「もう終わりが見えてきたね」
 そう自らにも言い聞かせる。

 雲稜組は壁を抜け、東稜組は途中から下降に入っていた。
 無線で、
「東壁ルンゼ、あと2ピッチ。上まで抜けます」
 と言う。
「了解。最後まで気を抜かずにがんばってください」
 雲稜組からコールが返ってくる。その声に不安は消えた。


【3】

 雨は止んできた。
 草付の間に伸びる垂壁のボルトを数手辿ると、ラインは左の草付に紛れていった。
 わし掴んでもブチブチと抜けそうな草を頼りに登ると、傾斜は落ち、安定したバンドに着き確保に入った。壁はまだ上へ続いているが、ルートは右の潅木のルンゼと見え、ここで実質終了と言えた。

 最後、右へトラバースし木の根を掴んでブッシュを登ると、屏風の頭へ続く踏み跡へ出た。
 終了点にふたりそろったのは16:10。人工主体とはいえ、石川はよく革のシューズで登ってきたものだ。

 パノラマ新道から徳沢へ降りるに、まだ充分な時間が残されていると思った。
 ギアを片付け、踏み跡を上へと辿るが、しかし濡れ濡れの藪と、石川が核心のひとつと言う頭への詰めにペースは上がらず、結局頭到着は17:45になった。
 パノラマ新道の分岐は頭から下ってすぐと思っていたが、それは全くの記憶違いで、アップダウンが繰り返され、分岐の道標は一向に現れない。挙句にビバークサイトの先で踏み跡は藪に消え、びっしょりになって無理やり稜線へ上がると、全く馴染みの無い景色がガスの中に浮かんだ。

 どこかへワープしてしまったか、いったいここは何時代だ。

 徳沢が遠い。
 暗くなって迷いながらの彷徨下山をするくらいなら、涸沢も有りだと思いつく。

 稜線沿いに戻ると、下方の緑の間にトレースらしきラインがガスに紛れて見えた。そこへ降りると、それは確かに頭とを結ぶトレースである。
 コンパスで方角を確認する。
 3年前の記憶にある景色が微かにこの場所と重なる。
 疲弊したまま徳沢を目指すより、涸沢の小屋に入る方が得策と判断し、目指すは涸沢とした。雨でないことは幸いである。

 主観や感情に流されることなく、現状を正確に把握すれば、その先の判断は自然と決まってくる。第三者の目で自分たちを見ることで置かれた状況を把握できるはずだ。

 念のため頭方向に戻ると、ビバークサイトに出た。トレースはここで右鋭角に折れていたのだが、それを見落としていたのだ。枝にルートを示す黄色いテープも巻かれていた。

 無線で呼びかけると、雲稜組に辛うじて連絡が取れた。涸沢へ入ることを伝え、踏み跡を歩く。
 頭からだいぶ遠いところにパノラマ新道の分岐はあった。

 数カ所の雪渓を横断し、小屋の灯に吸い寄せられる虫のように、ヘッドランプを点けて涸沢へと歩いた。
 涸沢ヒュッテに入ったのは20時であった。

 翌日おいしい小屋の朝食後下山。途中登山道から、前日苦闘した屏風岩を見上げ、東壁ルンゼルートのラインを目で追う。あの壁に張り付いていたなんて、何か不思議だ。
 横尾経由で徳沢へ降りた。
 天候すぐれず、一日テントですごす。予定より1日早く、9日、台風の雨中1時間半歩いて上高地へ戻る。


【東壁ルンゼルート】
取付はT4尾根基部から右に100mほど降りた凹角で、リングボルト2つの残置がある。
1P 50m W 凹角を登るが、濡れているところは悪い。残置支点は出だしはほとんどないが、登るに従い適度に出てきた。最初のビレー点は通過したところ、ロープ50m分行っても次のビレー点は現れず、残置ハーケン1つとカムでビレー態勢に入る。
2P 15m V+ すぐ上の外傾バンドを右にトラバースし少し直上したところに通常の2P目のビレー点と思われるところがあった。
3P 40m A1 ほぼアブミのかけ替えのピッチ。直上は別ルートとのことで、右のカンテを越えるとスラブにボルトラダーが続いていた。しっかりしたリングボルトもあるが、腐りかけの細スリングが半分近く混じっている。三日月レッジへのトラバースは残置の白いスリングが長く下がっており、これを掴んで右へ移った。レッジのビレー点を見て更に右へトラバースし、クラックを人工で登って切る。
4P 40m A1 丸東緑を思わせる人工直上。
5P 30m W、A1 2手の人工後、スラブのフリーに移る。傾斜はないがホールドがあまく、際どい。その上はやさしいフリーで安定したビレー点へ。
緩傾斜草付帯150mUをコンテで進みT3(上部岩壁取付)へ。
6P 30m W、A1 出だしは右のチムニーを絡めて登るが、ザックが引っかかって苦しい。フリーから人工に入り、ハングを右に逃げるように越えたところで切る。
7P 30m W、A1 フリー混じりのあと、腐り細スリングとリングボルト小が連続する人工で、安心できる支点がとれず。しっかりした支点は逃さずにヌンチャクをかける。ギア不足からハング下でピッチを切ることにした。
8P 20m W、A2 核心のひとつの1.5mほどのハング越え。抜け口は青スリングの残置の右にもラープが打ってあり、これを使って確実に登る。途中からフリーで登ると安定したビレー点がすぐに出てきた。
9P 35m W+、A1 出だし、ルートが分かれていたが、ルート図を確認し、3つのしっかりしたリングボルトに導かれて左のルンゼへ入る。そこは見た目やさしそうだが、登ってみると傾斜もありやさしくはない。上は潅木に抑えられ、フリーと人工で右のカンテに出る。人工を混じえながら再び安定したビレー点へ登る。
10P 35m W+、A1 再び左のルンゼを登って行くと、両手が自由になるテラスへ着く。正規は右上のようだが、左のピンを絡めて登ろうとしたらそのまま左上へ導かれ、はまってしまう。古い残置に嫌らしい人工とフリーを力ずくで直上。トラバース・バンド下の不安定なところでビレー。後から、やや上に良いビレー点があるのが分かった。
11P 30m W、A2 左側へ移り3手の人工後草付き。最後の「への字ハング」を目指してフェースを人工で右上。ハング自体はピンも近く右上して傾斜のきつくないポイントから抜けるが、出口周辺の残置スリングがどれも切れそうで非常に恐ろしい。抜け口はチョンボ棒がないと辛い距離だ。その上も安心感はなかなか得られない支点に自分を騙しながら登り、木のあるテラスに着く。
12P 35m W、A1 草付きの間に現れている垂壁を5mほど人工で登り、左のまばらな草付きへと移るが、草の根を掴みながらの嫌なフリー。出てくるピンで人工を混じえながら登ると、登攀の終わりの見えるバンドに行き着いた。
13P 40m V 上にまだ岩壁は続くが、右へトラバースし潅木の茂るルンゼへ入る。木の根を頼りに登ると、赤布の下がった終了点の踏み跡に出た。

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