春山〜軟雪、潅木、夏の香り
北アルプス 不帰T峰尾根 2003/5/3−4
同行 大西、北村
【1】
今シーズンは積雪が多いと言われていたが、ここ数日の高い気温で落ちたのか、それほど雪は豊富であるとは思えなかった。
3日は快晴で朝からTシャツになる。スキー客に混じってゴンドラ〜リフトを乗り継ぎ、八方尾根を歩いて登る。尾根上は夏道が多く出ており、軽装の登山者も見られる。
上ノ樺から目立つ尾根の東側斜面をトラバースし、尾根を唐松沢へと下降する。同じく不帰T峰尾根へ向かう5人パーティーが後続するが、彼等も初めてとのことで、左の唐松沢への下降を探っている我々に構うことなく、
「下まで降りてみる」
と言って尾根を先に下っていった。
唐松沢を隔てて見るT峰尾根の上部は奇麗な雪稜となっているものの、下部は幾つもの支尾根と支沢が複雑に入り組んでいる。
「どこから取り付けばいいかな」
断壁と呼ばれるルート核心部がどこなのかもはっきりしない。ひとまず左の支沢から取り付く目星をつけ、尾根を下った。
2000mを切った辺りで左に適当な斜面を見つけ、唐松沢まで一気に駆け下った。
唐松沢では上部から3人ほどスキーヤーが滑り降りてくるのに出会う。正面にはT峰尾根が立ち上がる。
下部に落ちる二本の白い雪面のうち、標高の高い左側を我々のルートに選んだ。これは目星をつけた沢より下部であるが、ここからはそれが自然に見えた。
ルートファインディングは感覚によるところが大きい。目標地点まで至るに最も外的危険の少ないと思われるところをつなげてラインを引く。
登攀具を身に付け徐々に急になる雪斜面を登って行く。
踏み跡はなく、自分たちでルートを探る。登っていた支沢は上部で細くなりブッシュに紛れているため、そこへ突っ込まずに左の急なルンゼへ入りリッジを乗り越えた。
細い雪沢を少し上がると、小さなクレバスで雪が割れ、スノー・ブリッジになっているようだった。ロープを出し、足下を確かめながら登り越える。2ピッチ伸ばし、左のブッシュになった小リッジを乗越す。
ルート選択が難しい分、我々で路を切り開く探検的楽しさがある。
更に1P、岩と草付をトラバースしそのまま急な草付を上部の雪目指して登った。
取り付いてから両足裏を付けて休める場所がほとんどなく、足がつりそうになる。昨季の日本人クライマーによるギャチュンカン北壁の記録に「取付から7500mのプラトーまで、手を使わずに立っていられる場所はなかった」とあるのを思い出した。その感覚の一端は分かるような気もしたが、そんな登攀を高高度で続けるとはやはり想像を絶する。
ロープ確保でも時間を取られ、すでに陽は傾き出し、テントの張れる場所をと思いながら急雪面を登った。右上に平らに見えていたリッジは、実際細く急で、とても幕営できる場所ではなく、そこを見捨てて更に両手足を使って左の雪面を登る。正面の岩まで来た時、足下が深いシュルントで切れていることに気付く。
「シュルントが危ない。ロープ出しましょう」
後続する二人に声をかけた。この後に及んでまたロープ確保とは気が滅入るが、ロープ無しでのリスクは高い。失敗は許されない。
崩れないかとどきどきしながらシュルントに身を乗り出し、まだ根を張る倒れた潅木に辛うじてシュリンゲを巻きつけ体の安定を得る。下の二人にビレーを任せ、崩れ落ちそうなシュルントに沿って右へ数歩の際どいトラバース。足下にあった平たい岩が、緩んだ雪の斜面を滑り出しどこまでも落ちていった。あれが落ちた時の滑落ラインかと思いながら見送り、そのまま直上した。
続くピッチは右の脆い岩を絡めて急面のブッシュを登る。雪、岩、ブッシュなど残雪期特有の複雑な登攀が連続する。
その先は非常に切れ落ちたナイフリッジから細い雪稜が上部へと続く。幕営地を求めて先へ進んでも平地に出会う保証はない。どこも切れ落ちた狭いリッジだったが、ここで確保を取りながら雪を削り、ようやく幕営場所を作り出した。
テントへ入る頃には暗くなる。
【2】
夜は疲労のためか、気分が悪く、メシを全く食えずに横になった。冬に白峰三山を単独縦走した時と同じ症状で、自分が思う以上に体力を消耗しているのかもしれなかった。
夜は時折風がテントを揺らし、不安定な幕場から風でテントごと奈落へ吹き落とされる悪夢が頭を過る。
朝には風も止み、快晴ですでに気温も上がってくる。体調は戻り、雑炊を腹に入れてテントを出る。
テント横からすぐに急な雪稜となっており、その先はナイフリッジ。確保をとってもらい綱渡りのようにバランスをとりながら一歩一歩足場を切って進む。クレバスでリッジが寸断されたところでピッチを切り、二人を迎える。
朝日を背に受け、背後に広がる山並みと切れ落ちたリッジのスカイウォーク。
なんとも恐ろしく、そして美しい。
その後3P伸ばし、久し振りに安定した雪面に出た。この上が断壁上のジャンクションのピークで、数日前の踏み跡があった。結局我々は核心のある尾根ではなく支稜を登っていたことになる。
前日の5人パーティーは断壁を経由するルート取りをしていると思われ、まだその核心部を越えていないようだった。
2パーティーが我々のトレースを辿って登ってきており、つまらなそうに抜いていった。ルートの登攀を本当に楽しめるのは、先頭でトレースを付ける者たちなのだ。
先行が確かにしたトレースを歩くと、極端に楽になり、雪稜を苦もなく辿って最後の「垂直のブッシュ壁」へぶち当たった。
1P、潅木や草にすがって息を切らせて這い上がる。
口が水分を失ってベトベトと粘着した。
乾いた這松の幹を掴んで上がると、T峰を示す石積のケルンが見えた。
3人、堅く握手を交わす。
しかしまだ登攀は終わっちゃいなかった。点線難ルートとはいえ夏季には縦走路となる主稜線には危うい雪が何箇所かに付いて、ロープなしではとても乗り切れない難所が続いた。U峰の登りでは雪面をつなげることができず、V級ほどの岩登りまで強いられる。
「これほんとに一般縦走路かよ!」
何度も大西さんが言った。
緊張の続く登攀からようやく解放されたのはU峰を越えてからだった。
すでに夏の匂う雪のない西面の路を辿るとやがて唐松岳へ出た。午後二時過ぎ。春の北アルプスが一点の曇りもなく広がっていた。
断壁を通過しなかったとはいえ、緊張の抜けない手応えあるリッジ登攀であった。スマートに登り切るには体力を含めた総合力を必要とするルートであると思う。
八方尾根上部からT峰尾根を見て北村氏は言った。
「あんなとこ登れるものなんだな」
雪と岩で急角度に立った稜に、人間がはり付けるものかと思える。実際登れてしまうから恐ろしい。しかも「あんなところ」にテント張って寝ていたんだ。
走るように八方尾根を下りリフトへ乗ると、あの充実の山行を終えた満ち足りた疲労感に包まれた。