インド ラダック |
2005/3/4-16 インド・ラダック地方 |
【1】 インドの北端、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の接点にあたるジャンムー・カシミール地方はパキスタン、中国との国境問題が未解決のままだ。 まだ冬は明けず、雪で道はぬかるみ、宿はどこも営業していない。ようやく泊めてくれる宿を見つけたが、ぼろぼろの物置のような部屋を見せられ、すまなそうに言われた。 「ここしか空けられない。オフシーズンだから・・・」 選びようもない。宿帳に名と到着日を3月10日と記入する。その一行上の日付は前年の10月と書かれていた。 沈んだ気持ちですすけた窓から雪山を見やる。本当はあの山の向こう、ザンスカールを目指していた。 山脈に囲まれたザンスカール地方は、冬、峠が雪で閉ざされると、凍った川に沿って徒歩で旅する以外にアプローチ方法がないと言われている。 それが何なのかよく分からない。 衛生状態が悪い、水が手に入らないなどといったことではない。そこを旅することは自分の他誰も知らない。何かあったら誰に知られることもなく消えるという孤独、自転車のトラブルがあったら脱出できるかという疑問、同じ道を無事戻って来られるのかという不安、国境紛争による治安への恐れ。それらが重く腹の底に澱のように溜まる。 二日二晩迷った。 朝、街を発とうというその瞬間まで迷っていた。ザンスカールに挑むか、かつてのラダックの都レーへと主要道を旅するか。 街中に分岐がある。真っ直ぐ行けばスル谷を遡ってザンスカールへと向かう。左へ行って橋を渡ればレーへ向かう。レーへは除雪もされていて走行に問題となる箇所もない。 走り出す。 分岐は、進路は左へとった。銃を肩からぶら下げる迷彩服の軍人がこちらを見ている。 「行かない。スル谷の方には行かないよ。レーへ向かうんだ」 聞かれているわけでもないのに、心の中で軍人にそう言った。 ザンスカールに行ける可能性がないわけではない。 【2】 この辺りはイスラム教とチベット仏教の接点で、東へ行くほど仏教文化が濃くなってゆく。どうも馴染みきれないイスラム世界から仏教世界へ向かうことを思うと、どこか心が休まる。マスジドとコーランの世界からゴンパやタルチョ、マニ車の世界に入ってくるとほっとする。 カルギルから東へ向かうほどインダスの上流へ遡る形となり、各村の標高は徐々に上がっていく。しかしそれはなだらかな上りというわけではなく、峠があり、起伏とカーブが途切れることがない険しい道だった。 街道沿いの比較的大きな集落ムルベクに一泊する。夜、空を見上げると日本で見慣れているのと同じようにオリオン座が見え、そんなことだけで少し心が和んだ。 レーまでの間に名の付いた峠が二つある。ナミカ・ラ(3720m)とフォトゥ・ラ(4094m)だ。その二つがムルベクから次の目標地ラマユルまでの間にある。どちらも十数kmの上り一辺倒となる。 今回失敗したことのひとつにタイヤの選択があった。ラダックの冬は峠が雪で閉ざされるという話から、道には雪があることを前提にスパイクタイヤを履いてきた。しかし軍事的要衝となるこの地域は、しっかり除雪されていた。そうなるとスパイクは路面抵抗を大きくするばかりで、ペダリングが大変に重くなってしまう。ちょっとした上りでも7〜8kmのスピードがいいところだ。 ふたつの峠ではだいぶ苦しめられた。 フォトゥ・ラではレーへ戻るところだというトラックドライバーに出会った。50歳ほどの兄貴分的なカッコよさのあるチベット人で、名をカルマと言った。 「俺はチベットで生まれたが、4歳の時にこっちへ亡命したんだ。1959年のことだ」 現在のチベット仏教のリーダー、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命したのもその時だ。現在もダライ・ラマはチベットへ戻ることなく、インド北部のダラムサラーにいる。 「チベットの頃の記憶はあるのですか」 「覚えてなどいないよ。でも1992年に一度チベットを訪れた。両親に会って、方々の寺へ参拝にも行った。そりゃあとても良かった。君はチベットに行ったことがあるか?」 「7、8年前に一度行きました」 中国のチベット自治区は漢化が進み、純粋なチベット文化が薄れつつある。迫害されることなくチベット文化が生きているラダックは良いところだ、と彼は言った。レー郊外のチベット難民が暮らす町チョグラムサルに彼も住んでいる。 「レーへ着いたら家へ泊まるがいい。金などいらない。俺がチベットへ行ったときは宿泊費や交通費、食費で金がなくなっちまった。だからこっちへ来た旅人には金の心配なく滞在して欲しいのだよ」 「Free
Tibet」 つづら折りの下りを15km余り走り、チベットの西端最大のゴンパのあるラマユルまで来ると、辺りはすでにイスラムの匂いがなく、人も住居も食事も、トイレもチベット式になった。
集落は街道沿いにわりと多くあるが、村の名がわからないところもある。ある小さな商店の前に座っていた人に、ここは何と言う村かと尋ねた。 「ウレ・トクポだ」 「何か飲み物はある?」 そう聞くが、ない、と言われ、手持ちの水を飲む。 【3】 インダス右岸に沿って相変わらず起伏の絶えることのない道を走った。 仏の何千という目に見つめられたこの空間は、たとえようのない独特の空気がある。 名もない峠の登坂が案外あなどれない。名の付く峠と比べてもスケールが小さいとも言えず、本気のペダリングを強いられ、更には押しになるところさえある。 「こっちはきついんだ。そう見つめないでくれ!」 そう心でつぶやいて、おかしな空気に耐えて漕ぎ続けるのだ。 世界の自然を目指してこれまで行ってきた自転車の旅を思い返した。始めの思いはいったいどれほど成し遂げられただろうか。 ネパールヒマラヤでのMTBトレッキングや南米アンデスのアルティプラーノなど、思惑通りに旅が進み、それなりの経験ができたものもあった。 第二次大戦中、物資と資源輸送のルートとして切り開かれたのがキャノル・トレイルだ。戦後、輸送ルートが不要になると、豊かなツンドラの自然がルートを覆い、それは戦争の遺産となった。だが野心的な旅人がそこを歩いて横断するなどして、僅かながらもトレイルとしてのラインが残されてきたのだ。 そこはしかしあまりにも自然が強大だった。踏み出せばズブズブと沈む湿地、鬱蒼と茂る木々と草。それ以上に前進を躊躇させたのは多くのクマとの遭遇だった。サドルを食いちぎられ、体力だけでは解決できない難ルートに敗退を認めざるをえなかったのだ。 うまくいかなかった旅だからこそ得られるものもある。それを糧に最高の旅をものにできれば、決して無為な敗退ではない。そして何より自然と対峙する人間の姿はおもしろい。 「桜の木の下には死体が埋まっている」 作家梶井基次郎は、美しさと引き換えにある負の部分をそう表現した。 最高の景色を追い求めることは、裏を返せばそれと引き換えの困難を求めることでもあるに違いない。自転車で旅をする魅力はそこらへんにありそうだ。
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冬季ラダックの旅の現実 |
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