インド ラダック
2005/3/4-16 インド・ラダック地方

                                  【1】

 インドの北端、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の接点にあたるジャンムー・カシミール地方はパキスタン、中国との国境問題が未解決のままだ。
 旅のスタート地点カルギル(2700m)の街はパキスタン実効支配線まで僅か数km。1999年には戦闘が繰り広げられたところだ。現在は落ち着いているが、周辺に駐屯している軍人は多い。通りを行き交う住人も多いが、大河インダスの支流ワク川とスル川が合流する谷の底にある街には、地の果てのようなどことなく暗い雰囲気が漂っていた。

まだ冬は明けず、雪で道はぬかるみ、宿はどこも営業していない。ようやく泊めてくれる宿を見つけたが、ぼろぼろの物置のような部屋を見せられ、すまなそうに言われた。

「ここしか空けられない。オフシーズンだから・・・」

真っ白い山景色に引かれた一本の道選びようもない。宿帳に名と到着日を3月10日と記入する。その一行上の日付は前年の10月と書かれていた。

「目的地」の欄で書き悩んだ。

沈んだ気持ちですすけた窓から雪山を見やる。本当はあの山の向こう、ザンスカールを目指していた。

山脈に囲まれたザンスカール地方は、冬、峠が雪で閉ざされると、凍った川に沿って徒歩で旅する以外にアプローチ方法がないと言われている。

“閉ざされた異郷”冬のザンスカール。

 そこをなんとか自転車で訪れることはできないものかとやってきたのだ。しかし冬のこの時期は誰に聞いても無理だ、と言われる。夏には車も通る道は峡谷に引かれているため、積雪の多いこの時期は雪崩が危ない。雪崩の季節が終わる春、4月頃からちらほらと歩いて通る村人が出始めるそうだ。そんな場所へ向かうことに漠然とした不安を感じていた。
 集落が点在し、全く人に会わない日はないだろう。今までこれ以上の荒野を旅してきたはずなのに、しかしどれほどの無人地帯とも違う、単なる自然相手だけでない怖さを感じた。

それが何なのかよく分からない。

衛生状態が悪い、水が手に入らないなどといったことではない。そこを旅することは自分の他誰も知らない。何かあったら誰に知られることもなく消えるという孤独、自転車のトラブルがあったら脱出できるかという疑問、同じ道を無事戻って来られるのかという不安、国境紛争による治安への恐れ。それらが重く腹の底に澱のように溜まる。

二日二晩迷った。

 コーランの鳴り響くイスラム色の街。地の果てで悪夢を見ているのか、白峰連なる天国にいるのか、混沌と幻想の世界に自分を見失いそうだ。

朝、街を発とうというその瞬間まで迷っていた。ザンスカールに挑むか、かつてのラダックの都レーへと主要道を旅するか。

街中に分岐がある。真っ直ぐ行けばスル谷を遡ってザンスカールへと向かう。左へ行って橋を渡ればレーへ向かう。レーへは除雪もされていて走行に問題となる箇所もない。

走り出す。

分岐は、進路は左へとった。銃を肩からぶら下げる迷彩服の軍人がこちらを見ている。

「行かない。スル谷の方には行かないよ。レーへ向かうんだ」

聞かれているわけでもないのに、心の中で軍人にそう言った。

ザンスカールに行ける可能性がないわけではない。
 なのに何もせず諦めた。
 いったい何しにやって来たのだ。ザンスカールにまで達せなくとも、行けばそれなりの経験ができたかもしれない。しかし本当のところは単に勇気がなかったのだ。
 人生で逃げてしまう選択をすることだってある。でももう逃げるのはこれが最後にしよう。


                                【2】

陽に輝く峠のタルチョこの辺りはイスラム教とチベット仏教の接点で、東へ行くほど仏教文化が濃くなってゆく。どうも馴染みきれないイスラム世界から仏教世界へ向かうことを思うと、どこか心が休まる。マスジドとコーランの世界からゴンパやタルチョ、マニ車の世界に入ってくるとほっとする。

カルギルから東へ向かうほどインダスの上流へ遡る形となり、各村の標高は徐々に上がっていく。しかしそれはなだらかな上りというわけではなく、峠があり、起伏とカーブが途切れることがない険しい道だった。
 平坦な場所が全くない。
 道は上っているか下っているか、どちらかだ。

街道沿いの比較的大きな集落ムルベクに一泊する。夜、空を見上げると日本で見慣れているのと同じようにオリオン座が見え、そんなことだけで少し心が和んだ。

レーまでの間に名の付いた峠が二つある。ナミカ・ラ(3720m)とフォトゥ・ラ(4094m)だ。その二つがムルベクから次の目標地ラマユルまでの間にある。どちらも十数kmの上り一辺倒となる。

今回失敗したことのひとつにタイヤの選択があった。ラダックの冬は峠が雪で閉ざされるという話から、道には雪があることを前提にスパイクタイヤを履いてきた。しかし軍事的要衝となるこの地域は、しっかり除雪されていた。そうなるとスパイクは路面抵抗を大きくするばかりで、ペダリングが大変に重くなってしまう。ちょっとした上りでも7〜8kmのスピードがいいところだ。

右)トラックドライバー。トラックには「Free Tibet」ふたつの峠ではだいぶ苦しめられた。
 しかし峠越えというのはいい。峠に達し、来し方とこの先の世界両方を見やる充実感は何ものにも代え難い。

フォトゥ・ラではレーへ戻るところだというトラックドライバーに出会った。50歳ほどの兄貴分的なカッコよさのあるチベット人で、名をカルマと言った。

「俺はチベットで生まれたが、4歳の時にこっちへ亡命したんだ。1959年のことだ」

 現在のチベット仏教のリーダー、ダライ・ラマ14世がインドへ亡命したのもその時だ。現在もダライ・ラマはチベットへ戻ることなく、インド北部のダラムサラーにいる。

「チベットの頃の記憶はあるのですか」

「覚えてなどいないよ。でも1992年に一度チベットを訪れた。両親に会って、方々の寺へ参拝にも行った。そりゃあとても良かった。君はチベットに行ったことがあるか?」

フォトゥ・ラにて行く道を眺める「7、8年前に一度行きました」

 中国のチベット自治区は漢化が進み、純粋なチベット文化が薄れつつある。迫害されることなくチベット文化が生きているラダックは良いところだ、と彼は言った。レー郊外のチベット難民が暮らす町チョグラムサルに彼も住んでいる。

「レーへ着いたら家へ泊まるがいい。金などいらない。俺がチベットへ行ったときは宿泊費や交通費、食費で金がなくなっちまった。だからこっちへ来た旅人には金の心配なく滞在して欲しいのだよ」

Free Tibet
 と大書きされた板を荷台にはめ込み、カルマのトラックは登ってきたと同じようにフォトゥ・ラから力強く下っていった。

 つづら折りの下りを15km余り走り、チベットの西端最大のゴンパのあるラマユルまで来ると、辺りはすでにイスラムの匂いがなく、人も住居も食事も、トイレもチベット式になった。

 ラダックは北西―南東方向に四本の山脈が横たわっていて、西へ行くほど南からの湿った空気の影響を受け、雪が多い。従って東へ、レーへ向かうほど雪は少なくなり、乾燥してゆく。
 峠を二つ越えたラマユル以降は道沿いにも明らかに白が減った。

                                 

 集落は街道沿いにわりと多くあるが、村の名がわからないところもある。ある小さな商店の前に座っていた人に、ここは何と言う村かと尋ねた。

「ウレ・トクポだ」

「何か飲み物はある?」

 そう聞くが、ない、と言われ、手持ちの水を飲む。
 荒涼たるラダックの真っ只中。見慣れないタイプの自転車を珍しげに眺めるだけで、その旅への興味はほとんど示さない。
 乾燥して岩土色ばかりで何もないような地に暮らす彼らは、生活への不安、悩み、ストレスといったものとは無縁なのかもしれないと、ふと思う。将来への野望や、旅行をして世界を見てみようなどとは考えず、日々、季節に合わせて暮らしてゆくだけなのかもしれない。そんなシンプルな生き方もある。


                                 【3】

 インダス右岸に沿って相変わらず起伏の絶えることのない道を走った。

石に経文が刻まれている。マニ石という。 対岸へ橋を渡り4〜5km入ったところにアルチという名の集落がある。ここのチョスコル寺(ゴンパ)にはチベット文化圏でも随一と言われる仏教美術が残されている。
 興味津々というわけでもなかったが、見逃す手はないと思い寺を訪れた。
 寺内に三層構造建築(スムツェク)があり、外観は大層なものでもない。
 番僧に施錠をといてもらい中へ入る。
 採光が小さく、始めは暗くて気付かなかった。だが目が慣れてくるに従い、内部の様子が把握できてくると、その凄さに圧倒された。

 三層の床面以外、壁、天井に至る全ての面にこれっぽっちの隙もなく細密な壁画が描かれていたのだ。それは曼荼羅、仏画であり、何千という仏がこと細かに描写されている。
 この全面を満たすのにいったいどれほどの時間が費やされたろう。一日一仏としても壁のたった一面を埋め尽くすのに一年はかかるのではないか。

仏の何千という目に見つめられたこの空間は、たとえようのない独特の空気がある。
 四面に囲まれた中央にはチベット仏教が内包するパワーが集約されている。

 名もない峠の登坂が案外あなどれない。名の付く峠と比べてもスケールが小さいとも言えず、本気のペダリングを強いられ、更には押しになるところさえある。
 レーに着く日はそんな本気の登坂が二度も出てきて耐え難い思いをした。
 断崖につけられた道を次に見えるカーブを目標に漕いで行くとロード・メンテナンスの人夫がいた。スコップや鍬を使った人海戦術だ。そのそばを、苦しみながらノロノロと通過する時、誰もが作業の手を止めてこちらを見つめる。単に珍しいのか、歩くような速さで自転車を漕いで、いったいこいつは何をやっているのだ、などと思っているのか。

「こっちはきついんだ。そう見つめないでくれ!」

 そう心でつぶやいて、おかしな空気に耐えて漕ぎ続けるのだ。

この先にレーがある 氷河を抱く6000m峰ストック・カンリの見える峠に立つと、山脈の中にぽっかりとひらけたインダス沿いの広い平原が見下ろせた。そこに砂嵐が渦を作っている。
 この奥に目指す都レーがある。山こそ雪で白いが、平原は乾燥した砂色で、冬のラダックのイメージとは違う景色だった。

 世界の自然を目指してこれまで行ってきた自転車の旅を思い返した。始めの思いはいったいどれほど成し遂げられただろうか。

 ネパールヒマラヤでのMTBトレッキングや南米アンデスのアルティプラーノなど、思惑通りに旅が進み、それなりの経験ができたものもあった。
 しかし全てがそううまく進んだわけではない。
 冬のカナダ極北、ウィンター・ロードでは、想像以上の寒気の厳しさに体力に加え気力も蝕まれ、志半ばで旅を諦めたと言ってもいい。
 更に夏の極北では、あるひとつのルートに挑んだものの、ほとんど何もできずに敗退してしまった。それはキャノル・トレイルという、極北の無人のツンドラ帯を突っ切るワイルド・トレイルだった。

 第二次大戦中、物資と資源輸送のルートとして切り開かれたのがキャノル・トレイルだ。戦後、輸送ルートが不要になると、豊かなツンドラの自然がルートを覆い、それは戦争の遺産となった。だが野心的な旅人がそこを歩いて横断するなどして、僅かながらもトレイルとしてのラインが残されてきたのだ。
 そして現在300qにも及ぶハード・トレイルとして、冒険的刺激を求めるトレッカーの挑戦の舞台となっている。当時は車両も通ったところだ。ならばそこをMTBで行けないかと考えた。

 そこはしかしあまりにも自然が強大だった。踏み出せばズブズブと沈む湿地、鬱蒼と茂る木々と草。それ以上に前進を躊躇させたのは多くのクマとの遭遇だった。サドルを食いちぎられ、体力だけでは解決できない難ルートに敗退を認めざるをえなかったのだ。

 うまくいかなかった旅だからこそ得られるものもある。それを糧に最高の旅をものにできれば、決して無為な敗退ではない。そして何より自然と対峙する人間の姿はおもしろい。

 感動は、困難な自然を経験した先にある。
 それを体現したいという思いは今も熱い。

「桜の木の下には死体が埋まっている」

 作家梶井基次郎は、美しさと引き換えにある負の部分をそう表現した。
 高所の希薄な酸素、寒気、何もない荒野、それらの環境に耐え、自分の足で進んだからこそ出会える風景がある。それは行程が厳しいほど最高と感じられる。車や飛行機からは見えてこない景色が、自分だけに見える。

 最高の景色を追い求めることは、裏を返せばそれと引き換えの困難を求めることでもあるに違いない。自転車で旅をする魅力はそこらへんにありそうだ。

 街道に沿って空港があり、ここからレーへはまたきつい登坂となる。最後に上って終わるのは爽快さがない。商店や人が多く、大きな町独特の空気に気が散漫になる。
 ジャンクションから2kmほどは急で、結局押しになり、ようやく中心街へ至った。

冬季ラダックの旅の現実
ラダックでも旅を共にした自転車 今回旅したインドの公用語はヒンディー語だが、主要言語は18もある。ラダックではラダック語が話されているが、インドの補助公用語として広く使われている英語も良く通じるため、特に言葉を新たにおぼえる必要はない。ただここも例にもれず谷あいの集落で野良仕事をする民には英語が通じない場合が多い。
 ヒマラヤ山脈に含まれるラダックはチベット文化圏で、チベット仏教徒が多い。環境の厳しい辺境になるため、インドの平野部より物価は高く、輸送手段が限られる冬は特に物資も少なくなる。ものの質も良くない。夏季に訪れるツーリストは年々増加しているが、冬季は完全なオフシーズンとなり、宿も閉めてしまうところが多い。町では電気は日暮れ後の数時間しか発電せず、水道は凍結のため利用できない。水は汲み上げの共同水場を使うことになる。
 ラダックには名高い高峰があるわけではないが、土地の標高は高く、地形も険しい。その魅力はダイナミックな自然に加え、貴重な仏教美術や生きた宗教の残るゴンパと、そこに住む民との触れ合いにある。彼らのシンプルで真にエコロジカルな生活は、資本至上主義者たちが考え直すべき見本を示してくれ、我々が行き着くべき未来を見せてくれる。
 目指そうとしたザンスカール地方の冬は、深い峡谷を流れるザンスカール川が凍結することでできる“氷の回廊”チャダルを徒歩で行くのが、唯一のアプローチ方法と言われている。しかも“回廊”を利用できる凍結期間は最も気温の下がる1月下旬からの一ヶ月余りで、あとの半年間はまさに“閉ざされた異郷”となる。夏季はもちろん可能だが、冬季に自転車で訪れることは果たしてできるのか、今もわからない。

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