ヘインズ・ロード
カナダ〜アラスカ 1999/6/24-30
【1】
アラスカ・アンカレジを起点としたチャリの旅はカナダへ入った。
アラスアカ・ハイウェイ カナダ領内にあるヘインズ・ジャンクションからはヘインズへと南下するヘインズロードに折れることにした。これが車も少なく自然美の溢れるルートであり、選んで大成功であった。
6月24日、雨上がりの空の下、ヘインズ・ジャンクションを発つ。国境を越えたアラスカ領のヘインズまで約250kmの路となる。
すぐに登りとなり、霧に包まれる。時折走り抜ける車がある他は、静寂が覆い、幻想の世界を走っているようだ。チェーンがギアに噛む音、路面に回転するタイヤの擦れ音が、自転車と一体となった体を通して伝わってくる。
徐々に雲が晴れ、天候が好転してゆく。日も射し始める。
両側は緑の美しい木々。正面、黒色の登り坂が途切れる先に青い空と白い雲片。空へ向かって走ってゆくようだ。
さしたる苦も無く峠を越え、下りに入る。霧は完全に晴れ、山も見えてくる。花も咲いている。そして湖。走っていてこれほど気分がいいのはアラスカからの旅を始めてから初めてだ。自転車の旅をしていてもそう何日もあることではない。
湖はキャスリーン湖という名で、街道から未舗装路を下ると稀なる美しい湖畔に行き当たる。大きい湖ではないが、透明度が高く、底まで見える。そして山と森。楽園というに相応しい風景。
なにもかもが美しく感じられるのは、気分がいいからだろうか。
キャスリーン湖から17km、ロック・グレイシャーというトレイルがある。その名の通り石岩が氷河状の地形をつくっている。自転車を降り、ここを歩いてみることにする。30分ほどで、岩屑の堆積した丘に着き、このガレ場を崩れる石礫に足をとられながら登る。高さは30メートルくらいだろうか。上はそこからずっと先まで波打った堆積丘が続き、山の斜面に消える。上部は残雪がある。振り返れば青いデザデシュ湖が大きく広がり、ヘインズ・ロードが横に伸びている。森、山、雲、どこまでも広い大地。ひとりで旅をしていて必ずこうして広い空の下に佇む時がある。旅のいい時間だ。異国の大地と同化する瞬間でもある。そして去るのが旅だと思う。
デザデシュ湖畔をしばらく進んだ先のキャンプ場に入る。だがここには水場が見当たらない。手持ちの水は自転車用ボトルに1gのみ。水を求めて空荷で自転車を走らせ、クリーク(小川)の水を手に入れる。透明で見た目は奇麗だが、そのまま飲むのはためらわれる。沸かすべきだろう。
キャンプでは、水にはいつも悩まされる。知らずのうちに、すでに体内に何らかの菌を宿してしまっているかもしれない。いつか発病するだろうか。大丈夫と信じるしかない。
無人キャンプ場で利用者は少なく、静かだ。それでも日暮れ前にはレンジャーが見まわりやって来る。しっかり管理はされているのだ。
翌日は南よりの風が吹いており、湖面にも白波が立っている。向かい風となるが、予定の走行距離が長くないため、気は楽だ。
9キロ先にセントエライアス・レイクというトレイルがある。ここも自転車を置いて歩いてみる。自転車を漕ぐより、移り変わる風景のスピードは格段に落ちるが、自転車では立ち入れない緑と山の自然を存分に楽しめる。クマに出会う心配もあり、歌を口ずさみながら奥へと歩く。ハイライトの湖まで3.8kmほどだが、結構移動するもので、左右の山の見え方も変わっていく。
一時間かからずにセントエライアス湖に着いた。こちらは秘境というに相応しい風景。谷の奥にある小さな湖。ここも水がよく透き通っており、手にすくって味わってみる。匂いもなくいい水だ。
湖畔を水音を頼りに水を求めて歩くが、踏み跡もなく、水場には行きつけなかった。この湖は、山の雪融け水が流れ込んだものだろか。
往復二時間かけ、自転車のあるトレイル入り口へ戻ってきた。
向かい風の自転車漕ぎを再開。路は緩やかに登っている。大地の向こうに新たなる雪の山並みが見えてくる。緩やかにカーブし変化してゆく風景は飽きさせない。登りが急になってきたが、それは峠の近いしるしであり、少々気合いを込めて峠を越えると、一気の下りで100万ドルの滝キャンプ場に着いた。
キャンプ場のすぐ下にその名も「100万ドルの滝」がある。これは滝というより瀑流である。これほど迫力ある滝は見たことが無い。恐ろしいほどの水量。落ち口から全く白の水飛沫が驚くべきうねりとなって落ちている。水は全体的に白緑色に濁っているが、水質自体は良いようで、飲み水にもできる。それにしてもこの迫力、いつまで見ていても飽きない。滝を眺める展望順路がちょうど落ち口の近くへ伸びており、そこから轟く流れを覗くと、水流と共に吸い込まれてしまいそうな感覚に捕われる。ただ残念なことにこの滝の全体を眺めることのできる場所はないようで、展望順路以外は断崖と密生する植物が人の侵入を拒んでいる。滝の全体像はこの音と流れから想像するよりほかない。果たして滝壷までいかほどの高差があるのか。今日はこの水でご飯を炊く。
【2】
翌未明、外が何やら騒がしく、クマではないかと怯え、神経質になり、物音に異常に敏感になって寝られずに朝になる。テントから出なかったため、結局あの騒ぎが何だったのかは分からずじまいだが、疲れが取れきらなかった。
今日は走ることに集中。予定では110km以上。
覚悟はしていたが、40分ほど行った丘を越えた瞬間、向かいの風が吹きつけてきた。このあと峠越えがひかえており、登りは確実。二重の苦しみである。今日も耐えて、耐えて、ペダルを漕ぐ。救いは雲って喉がそれほど乾かないこと、そして風景が素晴らしいこと。辺りの樹々は皆、同方向の北に傾いでいる。つまりここでは常に南から風が吹きつけているということだ。路はひたすら南へと続いている。
標高が上がってきたことが空気で感じられる。高い木も見なくなる。高原というには荒涼とした大地が続く。ひとつの現実的な夢として走ることを想像している南米パタゴニアは、風の大地とも呼ばれるほど風の強いところだろう。だが今、こんな場所で風に悩まされていては、パタゴニアの旅も遠のくような気がする。パタゴニアはここ以上に風の強いところだろう。
「もうよそう、こんな苦しいチャリの旅は」
登り坂でフロントギアをローに入れた時、ペダリングが揺れるような違和を感じた。自分の体の感覚がおかしいのか、それともメカニックのトラブルか。
止まってギアを点検すると、ローギア・プレートのネジ5個のうち3個がとれて失われ、ひとつは緩んでとれそうになっていた。
まずい。
登りだが、ローギアは使わず、ミドルで何とか乗り切ろう。
トラブルとは。いったいいつ無くなったのだろう。
苦しい時、苦しい日、自転車が壊れてしまえば、いっそ自転車の旅はやめられると思っていた。実際フロントギアでも壊れて走れなくなれば、ヒッチハイクでヘインズ入りすることも可能だ。だが今の状態なら走って行ける。その先はしかし、故障個所を直さなければ走行を続けることは難しくなる。そうなればバスを使えばいいじゃないか。
自転車のトラブルでバスを使う、体の故障を理由にバスを使う、時間が足りないからバスを使う、いずれにしても理由を挙げる以前に、バスを使ってしまえば、本来計画していたルート通りの自転車の旅はできずに負けるのだ。その辛苦から逃れたいのだ。やり通すことのできない負け犬でありながら、それを正直に認めたくないから、相応の理由を作るのだ。
それでもいい。この辛さから逃れられるのなら、それでいいんだ。自転車もバスも移動手段のひとつに過ぎない。
風を背に受け、自分の来た道を振り返った。天上世界のような、自分にとってこの上なく美しい風景が広がる。この足でペダルを漕いで来たから、これほどこの自然に感動できるのだ。バスでやってきて同じ風景を目にしたとしても、今と同じようには映らないだろう。
再び風上に向かって漕ぎ出した。
空気が冷え、辺りに残雪も見られるようになる。雪山も近い。峠が間近となる。
ほぼサイクロ・コンピュータの距離表示通り、峠と思われる最高点に着いた。
「やった、やったぞ」
ひとりで写真を撮った。
最高点より少し下ったところに駐車場と「ヘインズ・ハイウェイ最高点 1070m」というボードがあった。実際は写真を撮った場所の方が高い。それは自分の足が知っている。真実はサイクリストに微笑むのだ。
ようやく下りとなった。しかし少し下っただけでまたも前方に絶望的な登りが迫ってきた。まだ苦しまなければならぬのか。また耐えて漕ぐ。そうすればいつか必ず下りが現れるはずだ。
湖が点在し、水も豊富で緑の豊かさがある。一方で人の生活が感じられない分、荒涼とした風情をかもし出している。
【3】
急な登坂を終え、緩やかな起伏に耐えると、前方、雲の向こうから、巨大に氷河を湛えた山並みが現れた。そしてとうとう看板。
「急坂 ここより18km
止まってブレーキのチェックを」
この先18kmは下りだということだ。ちょうどアメリカ国境の辺りだ。
そして下りは始まった。時速35キロほどのスピードだが、向かい風でなければもっと出るはずだ。
下り。最高だ。
前方は雪山。地獄まで下ってしまうのではないか思うほど下り続ける。頬で切る風を感じていると泣けてくる。
自分の力でこれだけ登ってきたのだ。
下るに従い、木々が高くなり、緑も濃くなり、気温が上がってくるのも感じられる。降りているのだ。この路は海へ向かっている。もう登らなくていいのだ。
やがてカナダ側の国境事務所の建物を通り抜け、アメリカ側事務所に着く。再びアラスカ州に入る。
「このところクマがよく出るから気をつけるように」
国境でそんなことを言われた。またクマか。その他、11kmほど先にレストランがあるという情報も得た。
レストラン。飯が食える。
まだ下りが少し続いたが、国境を通過するハイウェイとは思えないほど路は細く、所々センターラインもなくなる。
とにかく緑が豊かで、匂いがいい。夏をも感じさせる。残雪の峠からは季節が変わったようだ。山は急峻になり懐が深くなった。確かにクマが出てもおかしくはない雰囲気である。
チルカット川沿いまで来ると、ようやく下りを終えた感じだ。そしてレストランにたどり着いた。水の心配ももうない。久し振りにほっとできる。
更に10キロ走ったところにある、モスキートレイク・キャンプ場に幕営する。カヌーの少年がひとり、その他にキャンプをしている者はいない。少年は地元の人間らしく、
「クマに注意しろ。この辺りで見たから」
と言った。その名の通り蚊の多いところだが、外で飯にしなくてはならない。クマに備え、食料の入ったサイドバッグは自転車に付けたまま、テントからだいぶ離れた場所に置く。たとえ食糧を荒らされたとしても命が大事だ。
その夜はやはりよく眠れなかった。クマを恐れ、神経質になり、時々起きては、クマの足音ではないかと、自然の音に耳をそばだてる。クマが近付いてきたら、トイレの建物に逃げ込もう。
「どうかクマさん、来ないでおくれ。早く朝が来ないかなあ」
ようやく7時になる。無事に出発できそうだ。再び生きて朝食が摂れることに感謝する。早く出発してしまいたい。クマの領域からやっと出られる。
チルカット川は下流に行くに従い川幅は広がってゆく。白頭鷲の保護区に入るが季節柄見当たらない。それより左方に続く山の峻険さに目を奪われる。岩が露出している部分は急角度でせり上がっており、その比高は1000メートルに及ぶのではとさえ思わせる大岩壁となっている。穂高の屏風岩のような雰囲気だ。だが登攀の対象として見ると、岩は脆そうであり、寒く天候も不安定な土地であるため、手を出すには至らないかも知れない。そこが実際登攀を許しているかは不明だが。
前方からサイクリストがやってきた。路上で出会う二人目のサイクリストだ。ドイツ人で4週間の予定で、アラスカ、カナダを走りに来ていた。お互い情報交換をする。ルート上の補給地点、水はどこで手に入るか、坂の具合、風。サイクリスト同士話すべきことは分かっている。何が知りたいのかも分かっている。風の苦しさも共有している。これが仲間なんだ。
時折、潮の香を感じることがある。海が近い。アラスカ・アンカレジ以来の海となる。自分の育った土地は海に近かった。そのせいで、潮の香は郷愁を誘う。
やがて、250km振りの町、ヘインズへ入ってゆく。
ヘインズは場末の港町といった風情だが、観光の町でもあり、モノはそろっている。久し振りにクマの心配をせず、宿のベッドでゆっくり眠れる。
一日、時間をとってチルカット州立公園に伸びる海沿いのトレイルを歩きに行った。緑深い森とお花畑、対岸はグレイシャー・ベイ国立公園へと続く、氷河と切り立った岩山。その対岸に、海へ落ちるデビッドソン氷河と、懸垂氷河でその舌端より豪快な滝を落としているレインボー氷河が見られる。イメージのアラスカに出会ったようだ。帰りは、道はないが潮が引いて陸地になった沿岸を歩いた。
トレイル入り口にはトレッカー記入ノートがあり、これまでの入域記録を見ると、地元の人間が一番多い。他はアラスカや近辺からの者で、時折本土やオーストラリアからの旅行者がやって来ている。日本人の名は見当たらなかった。
水路で入り江の末の町スキャグウェイへ渡る。百年余り前、ゴールドラッシュで栄えたという歴史を持つ町だが、もはや歴史の影はなく、観光地でアミューズメント化が進んでしまっている。土産もの屋やレストランが数ブロック並び、そこが町の中心として賑わっているだけだ。クラシック・カーと馬車が走っていたりするが、観光の域で、浮いた感じがする。土地に根付いた深さがなく、足を止めて滞在するだけの魅力がない。それだけで、明日にはこの町を発とうと決めた。