デムスター・ハイウェイ |
2004/8/9−24 カナダ ノースウェスト・テリトリーズ〜ユーコン |
広大な土地を有するカナダには道がそもそも少なく、町をつなぐ街道は全てハイウェイと呼ばれる。デムスター・ハイウェイは極北の自然の中に伸びるダートで、カナダのノースウェスト・テリトリーズとユーコン準州の二州にまたがり、ロッキーの北端、リチャードソン山脈とオギルヴィー山脈を貫いている。イヌービクは北側起点の町だ。 デムスター・ハイウェイが特徴的と言える点はネイティブ・カナディアン(インディアン、イヌイット)の集落を結んで作られていることで、夏に彼らの住む場所を訪れることのできる唯一の陸路である。 ツンドラには数知れぬ沼、池、湖とそれらをつなぐ川が入り組み、移動手段は水路が中心だ。今でこそ飛行機が使われる機会が増えているが、“道”はほとんどない。この地の移動の季節は、ツンドラが凍結する冬であることは今も変わらない。 デムスター・ハイウェイが通年ルートとしてイヌービクまで開通したのは1979年。南とを結ぶ輸送路、そして観光路として重要な役割を担っている。 極北の冬は気温こそ低いものの、雪はそれほど多く積もることはなく、夏にやって来てもその雰囲気に大きな違いはなかった。 イヌービクを発った日、さっそく二頭のブラックベアに出会った。目が合って互いの存在は認識しているが、クマにはまだ注意を払う距離ではないようで、こちらへ向かってくる様子もない。 クマの嗅覚は風下にいれば数kmの距離を嗅ぎ分けるようだが、危険距離に入らなければブラックベアはジェントルである。 カナダ極北を貫く大河マッケンジーとアークティック・レッド・リバーの合流点にインディアンの集落シゲィチクがある。橋はなく、無料のフェリーの渡しを利用してシゲィチクへ入ると、川沿いの広場にサイクリストがテントを張っていた。カナダ北部に住むエリックというカナダ人で、三週間の休みをとって長年やりたいと思っていた自転車ツーリングをしにデムスター・ハイウェイへ来ていた。 カナダ極北に暮らすようになった者は例外なくアウトドア好きだ。エリックも登山、自転車ツーリングとそのフィールドを広げつつある。 「デムスターに来るのは初めてなんだ。俺にはまだ経験がないから一日一日がトレーニングみたいなものだ」 その晩は辺りをうろついていた犬が吠えたり、テントのまわりに食べ物を漁りに来て眠りを妨げられた。極北の集落にいる犬はペットではなく“アニマル”だ。外に出ていたエリックの荷が犬に持ち去られ、朝、探しまわったりした。 シゲィチクから60kmほど行くと、ルート中最大の集落フォート・マクファーソンがある。人口は約900人。グウィチン・インディアンの中心的集落で、立派なスーパーもある。ここより南にはもう食料を補給できる村はない。 極北のインディアンは今も狩猟をしている者が多いが、カナダ政府からの援助があるためそれだけで生活している者は減ってきているようだ。彼らはアルコールを手にすると底なしに飲んでしまう。援助金でアルコールに手を出し、アル中になって身を持ち崩すケースも良くあるという。そのためシゲィチクのようにドライ・ヴィレッジ(アルコール禁止の村)もある。 ピール川をフェリーで渡るとリチャードソン山脈への登りが始まる。山中のユーコン準州との境界にもなっている峠、ライト・パスは915mと高くはないが、海面に近い高度からの登りとなるため、部分的にきつい登坂もある。 先発していたエリックに追いつく。 「今日が俺のテスト・ケースだ。峠への登りはきつそうだし、それを越えられるかどうか」 エリックはそう言って額の汗をぬぐった。 【2】 緯度が高いため森林限界も低く、少し標高が上がるとタイガの森から低木と高山に生える植物が大地を覆い、ひらけた景色へと変化する。アルパイン・ツンドラと呼ばれる植生のエリアだ。その辺りでカリブー(北米に生息する大型のシカの一種)の群れにも出会うことができた。 真にワイルドな自然の広がる極北には野生動物も多く、デムスター・ハイウェイの縦貫する一帯にもその多くが生息している。グリズリーやブラックベア、ムース、春と秋には大きな群れで大移動するカリブーなどの大型獣。オオカミ、ドールシープ、そしてウサギやリスなど、野生の姿を見かける機会も多い。 ライト・パスまでの数kmは急坂が続いていた。大地全体が傾斜しているため、一見フラットだが、案外傾斜がきついことは、ペダルをこいでみて分かった。 峠を越えるとユーコン準州となる。イヌービクから四日目、ルートの中間点で、サービスの受けられるイーグル・プレーンズを目指した。 デムスター・ハイウェイを走り終えたある日、地元の者に問われた。 「レッド・サンをみたか?」 レッド・サン。大気に霞がかかり、日中でも太陽が赤く見える現象で、大自然の幕に包まれているような幻想風景だ。それをこの日、見た。 北緯66度33分を通過。ここはアークティック・サークルと呼ばれ、北極圏の境界である。ここより北は白夜と黒夜の世界だ。 イーグル・プレーンズは台地上にあり、そこへ登りつくのに苦労させられた。向かい風と起伏の多い走行の上、飲み水を欠き、最後の登り1kmで止まってしまった。 五年前、アラスカ・ハイウェイを旅していた折、一人の若いドイツ人サイクリストとすれ違った。ワイルドな匂いを放つ男で、イヌービクからデムスター・ハイウェイを走って抜けてきたと言った。 「どうだった?」 そう聞くと、彼は視線を斜め上へ漂わせて応えた。 「ああ、とてもよかった」 今、自分がその「とてもよかった」場所へ来ているはずだが、そんな言葉は実感として出て来はしない。 イーグル・プレーンズでテントを張っていたところへ、エリックがなぜだか顔を真っ黒にして疲弊しきった様子で入ってきた。 「もう俺はダメだ。昨日は峠への登りで車に乗っちまった。昨日のキャンプ地で出会ったドイツ人サイクリストのカップルは、パタゴニアから18000kmも走ってきたと言ってた。それを聞いて、こんな登りで車の助けを借りた自分が恥ずかしくなったよ。でも今日もきつかった。自転車の調子も悪いし、この先はトゥームストーンまでヒッチハイクで車に乗せてもらおうと思ってる」 「もう走らないのか?」 「自転車の具合が直れば走るかもしれない。だけど一度車を使ってしまったら何度でも同じことさ」 エリックの気持ちの中で、すでに彼のデムスターは終わってしまったようだ。 翌日は休養日とした。 エリックにまたいつかデムスターをやりに戻ってくるかと聞いた。 「戻ってくるとしたら南半分をやりに来たい。その前に、もっと町の間隔の近い舗装路でのツーリングを経験して、もう少し体力をつけないとな。いきなりデムスターではステップが大き過ぎたようだ」 午後、テントで本を読んでいると、エリックがやってきて、発つと言った。便乗させてくれる車を見つけたようだ。 「サイクリストのスピリットはもう壊れちまったよ」 さばさばした表情で言った。握手を交わすと彼は車の方へと自転車を押して歩いていった。敗れ去る者の背中を黙って見送った。 【3】 出発の朝、イーグル・プレーンズのある台地から雲海が見下ろせたが、ほどなく道はその海へと下っていった。雲海の中は寒く、視界は20〜30m。先が登りか下りかも分からない。こういう走行も気がまぎれて走り易くもある。 10km余り走ると登りになり、海から抜け出た。澄んだ青い空と極北の盛夏を謳歌する緑が突然視界に広がり、そう快なムードになった。 夕刻、長い坂を登り抜けると、オギルヴィー・リッジという山稜に沿った道になる。 苦労せず111km走り、オギルヴィー山脈の極北独特の景色が見渡せる場所でキャンプする。眼下には蛇行する川の流れるピール・バレーの谷。所々秋色に黄化した一帯が見られる。乾いた山と麓の緑など、豊饒で潤いのある風景。どこまでも乾いたアンデスとも、氷雪まとうヒマラヤとも違う、極北の自然もまた魅力がある。 アウトドア大国のカナダには街道に沿ってキャンプ場が多くあるが、森の中や川沿いにあることが普通で、高台の景色のひらけた場所には作られない。 しばらくしてRV車がやって来て停まった。彼らもこの場所に泊まるようだ。 オギルヴィー山脈の中間部はワイド・バレーとなり、フラットで意外な広がりを見せてくれる。対向からやってきた乗用車が停まり、若い男のドライバーが顔を出した。 「今、オオカミを見た。ここから6kmほど先の木が黄色く紅葉しているあたりだ。気をつけな」 冬、ある町でインディアンのおばさんに言われたことを思い出した。 「オオカミは人を追うの」 その言葉が「オオカミ」と聴いた後から繰り返し頭の中を回り始めた。クマより厄介な存在かもしれない。 6km先、左に黄色く色づいた木々が見えてくる。その辺りでは方々に目をやり、動くものに注意を払い、動物の気配を五感で感じ取りながら走った。しかし幸か不幸か、オオカミに出会うことはなく、突然目の前を横切ったリスに驚いただけだった。 対向から二人組みの赤いサイクリストに出会う。南東アラスカのジュノー(アラスカ州都)の中年夫婦で、アメリカの海沿いの町スキャグウェイから走り始めたそうだ。この先に最後の峠ノースフォーク・パスがあり、どんな具合だったかと聞いた。 「スキャグウェイからの登りに比べればたいしたことないわ」 「この先のトゥームストーンのキャンプ場はサイクリストは無料よ」 と教えてくれた。そこまでは峠越えを含めて一日で120km以上走ることになるが、無料と聞いて今日そこまで走る気になった。彼らはどこか水のある適当な場所を探してキャンプするそうだ。 オギルヴィー山脈を抜けると、深いスプルース(エゾマツ)の森に拓かれた道になる。イヌービクから九日目、デムスター・ハイウェイを抜け、舗装されたクロンダイク・ハイウェイに出た。 それは舗装路と違って道に表情があるからだと思う。浮石や砂利があるかと思えば、固い路面が現れ、凹凸や土がある。ロード・メンテナンスが行われているにせよ、地形や地質によって変わる路面と触れ合うことで、そこにある自然とより深く関わり合える気がする。 クロンダイク・ハイウェイをユーコン準州の州都ホワイトホースへ、約500kmを五日間かけ旅する。ここにもはるか昔から変わることのない自然が広がっている。 この辺りは森林火災が発生することがよくある。原因は落雷。ホワイトホースへの道中、何箇所かで火災跡地が見られる。その最大のものは1998年に発生したフォックス・レイクの火災で、辺りの山肌はあらわとなり、焼け朽ちた立ち木が一面に広がっている。 もうひとり、50年輩のヴィンツというカナダ人サイクリストに出会った。カルガリー近くの自宅を出て極北へと旅を続けている。50日余りのツーリングだという。 「君は2000km振りに出会った二人目のサイクリストだ」 ヴィンツは言った。こちらではこの年代のサイクリストが多い。 サイクル・ツーリングは若者の旅か、中高年の旅か。彼らにとってはそれはどうでもいいことだ。年齢に関わりなく、それぞれがそれぞれのペースで旅できるのがサイクル・ツーリングであり、どんなに年をとっても彼らはペダルをこぎ続けるだろう。 ヴィンツはイヌービクを目指してデムスター・ハイウェイを北上するという。 「どうだった?」 道路状況を話しながら彼はそう聞いた。レッド・サン、雲海、スカイ・ライド、極北の山と谷、川、そして森。そこに生きる動物たち、ダートを走ることの苦しさと魅力。それらのイメージが駆け巡る。その時、自分は応えていた。 「ああ、とてもよかった」 |
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