シグルド → 医者
「先生、腰が痛いです」
一応ノックはしたものの中の人間の返事も待たずに部屋に入ってきたハーヴェイが徐に挙手をしたと思ったら、突然そんな事を言い出した。
それまで自身の机に向かい静かに専門書を広げていたシグルドの眉間に何本かの皺が刻まれる。
ここはシグルドと同居人のハーヴェイとが暮らすマンションの一室。
つまり日々多忙を極めるシグルドの唯一ともいえる完全プライベート空間なのだ。
勤務先の大学病院から緊急呼び出しを受けたり、急病人の対応をするのならともかく、何故プライベートでも「先生」と呼ばれなければならないのか。
ハーヴェイの声音や態度からは緊急的要素は何一つ見出せない。
かけていた眼鏡をそっと外しながら椅子を僅かに回転させて振り返れば、案の定ハーヴェイは普段通りのノー天気な笑顔をシグルドに向けていた。
「……残念ながら俺は内科医だ。専門の医師に当たってくれ」
「何だよケチ! 患者が困ってんだ、医者なら分野違いでも何とかして見せるってもんだろうが!」
「無茶を言うな」
遠慮する事なく深いため息をつけば、ハーヴェイも己の主張の不恰好さが判っているのか、口を尖らせるだけでそれ以上無理強いしてくる事はなかった。
医師の誰もが分野関係なく全ての患者と向き合えるのなら、医師不足の問題は今よりいくらかマシになっているはずだ。
しかし医師に絶対はない。
もどかしくて歯がゆい、ごくごく普通の人間だ。
詰め込める知識にも勿論限界はある。
だからそれぞれの専攻分野というものが存在するのだ。
それに。
「……腰か、それならお前より俺の方がよっぽど診てもらいたい……」
ポツリ。
シグルドの口から思わず小さな本音が零れおちる。
聞き逃したのか、聞こえはしたが意味が理解出来なかったのか。
疑問符を飛ばすハーヴェイを、シグルドは鈍い痛みを生む腰に軽く手を添えながら改めて睨み返した。
ハーヴェイ → 先生
教材の大きな三角定規がルクスの頭を直撃する。
勿論力はまるで入っていないし、側面で叩かれたので痛みはない。
ただチョークの粉が少し髪につくのが気になるくらいだ。
「遅刻だ」
一時限目が始まって五分と少し。
静かにドアを開けて入ってきたルクスを三角定規で手厚く出迎えたのは数学教諭のハーヴェイである。
腰に手を当て三角定規をルクスの頭に乗せたまま、じっと見下ろす。
スミマセンと口を開いたところで、ようやく頭の上のそれがどかされた。
「担任に声かけてきたよな? だったらさっさと席つけ」
ドアの前に立つルクスを残しひらひらと手を振りながら教壇へと戻ったハーヴェイは、そのままくるりと後ろの黒板へと向き合う。
そして今し方武器に使った教材の三角定規を当て、図を書く作業を再開させた。
ルクス → 警察
スケッチブックを手に、ルクスは黙々と手を動かす。
室内には紙の上を鉛筆が走る音、そしてテーブルを挟んで正面に座る被害者の女性が犯人の顔を懸命に想い浮かべ、それをポツリポツリとルクスに伝える声音のみ。
ルクス一人だと何だか心配だからとお節介にも付き添いを申し出たハーヴェイは、ルクスの背後の壁に背中を預けて黙ってそれを眺めている。
背後から突然襲われバッグを奪われたという女性は腕に大きな痣を作っていた。
勇敢にも犯人に立ち向かい、必死な抵抗を見せた結果である。
引ったくりの類いは一瞬の犯行ゆえに、犯人の背恰好は判っても顔まで覚える事は難しい。
しかし今回は女性の勇気がルクスに似顔絵を作成させるまでに至った。
更に彼女は犯人が被っていたという黒いニット帽までもどさくさまぎれに奪ってきてしまっているのだ。
揉み合っている時に我武者羅に掴んで剥いでしまったという、毛髪がしっかり残ったニット帽。
犯人も抵抗されるとは思っていなかったのだろう、目的であるバッグだけを力尽くで奪った後は帽子の事など忘れて脱兎のごとく走り去ってしまったという。
彼女の記憶の中に人相とその手に毛髪という、とんでもないものを残して。
背恰好と似顔絵、そして物的証拠。
これだけ揃えば犯人に辿り着くのはもはや時間の問題だ。
ルクスは女性の証言から作成した似顔絵を確認してもらう為に、スケッチブックをそっと差し出す。
女性が覚えていたのは勿論揉み合った時の必死の形相だけだったが、それでも絵に起こせば自然と別の表情も見えてくる。
しっかりと頷いた女性を確認し、ルクスは「ご協力有難う御座います」と丁寧に頭を下げた後に椅子から立ち上がった。
「似顔絵が出来た。誰か女性をここに、休んでもらって落ち着いた後、彼女を家まで送ってもらう」
「お疲れさん。現場、今すぐ向かうか?」
「勿論、まだウロウロしているかもしれないし」
「判った、俺も行くから」
同じく女性に一礼したハーヴェイは、足早に部屋を後にする。
今、室内でするべき事は全て終わった。
これからは脚を使った地道な仕事の時間だ。
キリル → 農家
ギラギラと輝く太陽から容赦なく注がれる光に、キリルは被った麦わら帽子を更に深くかぶり直す。
今日も厳しい猛暑日だ。
頬を伝う汗を首にかけたタオルでぐいっと拭い、用意しておいたペットボトルのお茶で乾いた喉を潤す。
時々吹いてくる風に感謝しながら全身でそれを感じ、「よし」という小さな掛け声と共に再び作業の手を進めていく。
もうすぐでお昼時だ。
朝家から持って来た具だくさんのおにぎりと、たくさんの氷を使ってキンキンに冷えたお茶、そして取れたての野菜がキリルを待っている。
日陰に入って緩やかな風の中で食べるのが何よりのご馳走なのだ。
午前中暑い中で頑張った自分へのご褒美と、午後も暑いけど頑張ろうという自分への応援。
そんな二つの異なったメッセージが込められた昼食。
その上自分で作ったものばかりなのだから、美味しくないはずがない。
「さて、もうひと頑張りだ!」
天に向かって両の腕を突き出し大きく身体を伸ばす。
連日付き合わされた蝉の大合唱も、今ではそれなりのBGMと捉えられるようになった。
NOVEL