『 1 』 (早瀬)
それはとても不思議な感覚だった。
これまでキリルが体験してきたどの感覚よりも不思議で得体が知れなくて、そして何とも気分の悪いもの。
正体が知れないから気分が悪いのか、それともその感覚自体があまりいいものではないのか。
しかしそれを初めて体験する人間に問うても無駄な事、ただただ訳が分からないまま深みにはまっていくだけである。
キリルがその感覚を知ったのはきっかけとも呼べないような、本当に些細な日常風景だった。
昼食を済ませたあと、穏やかな海と所々白い雲が浮かぶ澄んだ青空に誘われ甲板まで出てくると、ふとそこに数人の先客がいる事に気が付いた。
何人もの人間を乗せた大きな船なのだから、人に出くわす事は珍しい事でも何でもない。
きっと自分と同じように心地よさを求めて日向ぼっこでもしにきているのだろうと考えたキリルは、まずは挨拶をと歩み寄る。
心なしか足取りが弾んで見えるのは、数人の先客のうちのひとりによく知った少年の声を聞いたからだろう。
近付くキリルに気付かないのか、その場にいる誰かと尚も話は続いている。
もしかしたら大事な話の最中だろうか。
そう思うと声をかけるのも、その場に自分が日向ぼっこなどと間抜けに割り込んで行くのも申し訳ない。
しかし感じる空気に緊迫したものは何もなく、声にも時折笑みが混じっている事が分かる。
これなら声をかけるくらいは大丈夫だとキリルは判断した。
もしこの判断が間違ったものだったとしても、すぐに退散すればいいだけの事。
気を取り直して軽く片手をあげながら、声だけでなくようやくその姿を見つけた少年の名を、ルクスと、そう呼ぼうとした。
「―――――ッ」
呼ぼうとしたが、しかしそれが声に出る事はなかった。
ルクスと一緒にいたのは彼が以前共に戦ったという信頼のおける仲間達。
穏やかな海と空と同じように、非常に穏やかな空間の中にいる。
それを目にしたキリルは訳も分からず声を飲み込んでしまった。
何て事はない。
普通に声をかけて、普通に入っていけばいいだけの事。
キリルにとっても全く知らない人達ではないので難しい事ではないはず。
それなのに声と一緒に歩みまでも止まってしまったのは、穏やかな空間の中心にあるルクスの横顔が、とてもとても柔らかかったから。
決して『普段は冷たい人』という意味ではない。
表情をコロコロ変える人ではないが、とても穏やかな人である事はキリルもよく知っている。
表に出ないから難しい人だと勘違いされやすいだけだ。
そんな人なのだからふとした拍子に柔らかな表情のひとつやふたつ浮かぶ事もあるだろう。
ただ最近はふたり一緒にいる時間が長すぎた。
柔らかなそれを向けられる時間が多すぎた。
だから忘れていた。
ルクスが本来ならば手も届かないような『英雄』である事を。
ふたりが出会うまではキリルにはキリルの、ルクスにはルクスの交わる事のないそれぞれの時間が存在している。
その時間について今更何を言っても意味がない。
しかし自分ではない別の誰かに向けられたひとつの柔らかな表情に、自分には決して入る事の出来ない、自分の知らないルクスを見ているようで、途端にキリルの中の全てが停止してしまった。
意味が分からなかった。
出会うまでの別々の時間など当たり前の事なのに。
大勢の人に信頼されているのも、こうしてそれの中心にあるのも、ただ単に彼が『英雄』だからではなく、彼が彼だからなのに。
訳が分からない。
急に出会う前の彼を知らない事を寂しいと感じるなんて。
それを知る仲間達を羨ましいと感じるなんて。
突然『英雄』を遠く感じてしまったなんて。
とてもとても不思議な、あまり気持ちのいいものではない感覚。
もやもやと霧のような、掴めない何かが身体中を支配する。
それを追いやる術も流す術も持たないキリルは、ただ呆然と立ち尽くす事しかできない。
どのくらいそうしていたのか。
時間にしてみたらきっと数秒くらいの短い間だったろう。
止まったキリルの時間を再び動かしたのは、ハッキリとこちらに向けられたルクスの声だった。
「キリル君」
「……ッ!?」
元々声をかけようと思って縮めた距離、相手に気付かれたとしても別に不思議ではない。
しかし今のキリルには、ルクスに対し普段と同じ自然な反応を返す事ができなかった。
目が合ってしまったので「気付かなかった」という言い訳は通用しない。
一度変に間を置いてしまった為に、上手い切り出し方も咄嗟には思いつかない。
早く、早く何か言わなければ。
そう思えば思うほど、キリルの頭は混乱していくばかりだ。
いつまで経っても呼びかけに答えようとしないキリルを不思議に思ったルクスがもう一度「キリル君」と呼ぶと、それを合図にキリルの身体が一気に反応した。
得体の知れない感覚と、時間が経つにつれ増すばかりの混乱。
これ以上この場所にいたらどうなるか分からない。
パニックを起こした頭はただそれだけを瞬時に叩き出し、それに従うべく素直に身体が動き出す。
咄嗟に出た謝罪の言葉と同時に踵を返し一気にその場を離れた。
背後でルクスの珍しく大きな声が聞こえたような気がしたが、今は自分の事でいっぱいいっぱいだったし、何より振り返る勇気などない。
我武者羅に腕を振り、ひたすら脚を動かす。
船という限りある空間の中、一体どこに向かっているのかも分からない。
ただ先ほどとは逆に、止まる事だけはできそうになかった。
『 2 』 (風望)
真っ先にルクスがした事は、自分の行動を振り返る事。
気配がした。
顔を上げればその姿が見えた。
距離からこちらに来ているのだろうと思った。
だから、声をかけた。
それだけの行動だった。
それだけの行動の、何が失敗だったのか、ルクスには理解が出来なかった。
「ルクス。」
甲板の上で空を見上げていれば、声をかけられたので振り返る。
軽く片手を上げて呼んだのが自分だと示し歩み寄ってきた女性の姿を見つけ、ルクスはほんの少し表情を和らげる。
「フレアさん、キカさん。」
ルクスの方へと向かってきたのは2人、フレアとキカ。
その組み合わせをルクスは少し珍しいと思った。
2人とも人の上に立つべき存在という共通点の為か、それなりに気が合っているのは知っている。
けれど誰も連れずに2人きりというのも何だか珍しかった。
「何か?」
もしかしたら何かあったのだろうかと思えば、それを感じ取ったのか、フレアが小さく笑った。
「いいえ、何でもないのよ。ただぼんやりしているようだから声をかけただけ。」
「1人でいるのが珍しい、と話していたんだ。」
「珍しい、ですか…?」
「ええ。だってルクス、最近ずっとキリルと一緒にいてばかりだったから。」
悪戯っぽい笑みを向けてのフレアの言葉に、そんな事はない、とは返せない。
「それで、珍しく1人で何を?」
「天気を、一応。」
「キリルは?」
「まだ食事だと。」
「あら、ますます珍しい。一緒じゃなかったの?」
「キリル君の方に用事があり、先に、と言われたので…。」
「そうか。」
「………、何ですか?」
「いや、何でも?」
フレアと同じような笑みを浮かべるキカに、ルクスは小さく息をついた。
少し拗ねた様子を見せたルクスに、フレアとキカはお互いを見て笑った。
こんな表情、以前では考えられなかった。
「最近の貴方は、見ていてとても安心する、嬉しいとも思う。」
「え?」
「友達が、大切な人がいるって、とても素敵な事ね。」
フレアが誰の事を言っているのかなんて、すぐに分かった。
ずっと自分には酷く縁遠いと、関わりのないものと、思っていたのも。
それを与えてくれた相手。
食事が終われば、この先荒れる心配もなさそうな天気だ、甲板に来るかもしれない。
そうして自分を見つけて、いつものように笑いながら、声をかけてくれるかもしれない。
そう思えば、自然と浮かぶ表情はいつも笑顔だ。
「………、はい。そうですね。」
自分の答えに嬉しそうにする2人を不思議だとルクスが思っていれば。
随分と馴染んだ気配を感じて、そちらに顔を向ける。
そこにはじっとこちらを見ているキリルの姿。
思ったとおり甲板に来た事を嬉しく思ったが、ルクスの表情から笑みは消えた。
キリルは少しだけ離れた場所で、何か考え込むような様子で、立ち尽くしている。
どうしたのだろうか、とルクスは口を開く。
「キリル君。」
「……ッ!?」
ただ、名前を呼んだだけ。
なのにキリルはびくりと肩を揺らし、漸く視線をルクスに向けた。
返事はない。
こちらに歩み寄る様子もない。
ただ困惑しきった様子でこちらを見るばかり。
どうしたのだろうか、何があったのだろうか、そう思いながらもう1度名を呼べば。
何故かキリルはこちらに背を向け、全力で反対方向へと走って行った。
「え…、キリル君…!?」
驚いて名前を呼べば、思ったよりも大きな声が響いた。
けれどキリルは立ち止まらない。
速度は落ちるどころか更に上がり、そのまま船内へと駆け込み、姿は見えなくなった。
追うようにルクスの足が1歩前に出る。
けれど止まる。
キリルに避けられた。
この現状が示すのは、つまりそういう事だろうとルクスは結論付けた。
こちらに気付かなかったわけではないだろう、しっかりと目が合って、キリルはルクスを認識した。
気付いていなかったとしても突然走り出すなんて不自然だ。
キリルはルクスを見た。
そうして避けるように、逃げるように、走り去った。
何故か一瞬息が詰まった。
「ど…、どうしたのかしら…?」
キリルの突然の行動に驚いているのはルクスだけではなく、フレアも走り去った方を見て呆然とそう呟く。
キカもどこか困惑気味だ。
ルクスの方へと嬉しそうに駆け寄るキリルの姿は見た事はあっても、その逆を見たのは今が初めてだ。
「何かあったのか?」
「………、いえ…。」
「思い当たる事は?」
「………、何も…。」
淡々と、けれど表情ばかりは苦々しく、ルクスが答える。
そうして必死に考える。
今自分がキリルにした事の中の、どれが彼の意に沿わなかったのかを。
気配がした。
顔を上げればその姿が見えた。
距離からこちらに来ているのだろうと思った。
だから、声をかけた。
姿が見えたのを嬉しく思って、名前を呼んだ。
本当に、それだけの行動だった。
「どうしたのかしらね、本当に…。」
フレアの呟きへの答えは、本当に欠片も、ルクスには見当たらなかった。
『 3 』 (早瀬)
ひたすらに走れば次第に息も切れてくるもの。
一瞬己が何処にいるのかすら分からなくなるほどに我武者羅に足を動かし、段々とそのスピードを緩めて行く。
その間誰にも遭遇しなかったのは運がいいのか、それとも悪いのか。
「……逃げちゃった……」
消えていくスピードと共に抜けていく力。
半ば呆然と呟かれた声を拾ってくれる人間は誰もいなかった。
心臓が五月蝿く、肺は破れてしまうのではないかと思うくらいに激しく動いている。
呼吸が苦しい。
しかしそれは我武者羅に走ってきたのだから仕方がない事。
今はそれが落ち着くのを待つしかない状態で、近くの壁にそっと背中を預けた。
時間が経つにつれ徐々に落ち着いてくる身体。
それと同時に気持ちまでも落ち着いてきて、段々と先ほどの自分の行動を思い返せるようになっていく。
ルクスを遠く感じたり、自分の知らない過去がある事を寂しいと思ったりなんて本当にどうかしている。
しかしそれ以上に、ルクスと目があった瞬間逃げ出してしまった事がキリルには信じられなかった。
自分で起こした行動だというのに、それを信じられないと呆然としている。
いっそ笑えてしまえたら楽なのに。
それすらもできずにただぐるぐると立ち尽くすだけ。
ならば忘れてしまえないだろうか。
頭を冷やすだけ冷やして、そしてまた笑顔でルクスと会えないだろうか。
「無理、だよな」
都合の良すぎる考えはすぐに否定される。
絶対にぎこちなくなるという妙な自信があった。
ルクスの顔を見たら、また得体の知れない感情に翻弄され逃げ出したくなるだろうと。
一度気付いてしまった感情を消し去る事は出来ない。
うやむやではいられない。
どうしてもこの気持ちの正体を知る必要があった。
それも早急に。
限られた空間での生活、またいつルクスと遭遇するかなんて分からない。
避けてばかりもいられないのだ。
しかしこのままひとりで永遠考えて、いずれ答えを導き出せるものなのだろうか――――――――――。
ふらりと一歩踏み出す。
ひとりでは辿り着けない答えなら誰かに縋るしかない。
それが完全なる答えではなくても、何かを掴むきっかけが欲しかった。
では、誰に。
ふらりふらり。
頼りない足取りではあったが、しかし確実に足は動いていた。
『 4 』 (風望)
昔からルクスは自分個人の事を主張する事は殆どなかった。
軍主として軍を率いていた頃、その立ち振る舞いや判断力は、彼が元はただの小間使いだった事を忘れさせる程だった。
軍主としては申し分なかった。
けれどそれは、彼が課せられた役目を果たすのが得意だったから。
彼が命じた言葉の中、どれだけ彼の本心からの言葉があったのか、正直分からない。
それだけルクスは自分の感情を表に出すというのが苦手だった。
感情を押さえつけるのは得意で。
与えられた役割を演じるのも得意。
その代わりに自分の本心に気付くのは酷く苦手で。
他人の感情に関わる事もとても苦手。
だから、キリルを追いかけようとしたルクスの足は、いつまで経っても動く様子はない。
それどころか、少し経てばフレアとキカの方へ戻ってきた。
何を考えたのか、大体の予想はつく。
「追いかけなくていいのか?」
「………、避けられたのに追いかけては、迷惑になるだけです。」
ほぼ予想通りの返答。
けれど表情はいつも通りの無表情かと思えば、ほんの少しだけれど苦々しく眉が顰められていた。
成る程そこまで大切なのか、と。
本当に大切な人と出会えることは大切だな、と微笑ましくなる。
けれど和んでばかりもいられない。
このまま放っておけば、確実にルクスは避けられた事を悪い意味でしか考えないだろう、しかも自分に非があるという方向で。
人が誰かを避ける時、それは決して悪い意味でばかりではない、なんてきっと気付かない。
「話の途中ですみません。………、何を、話していたでしょうか…?」
何事もなかったように続けようとするルクスに、フレアとキカはお互いを見た。
お互いに随分と困ったような呆れたような顔をしていた。
けれどルクスは気付かない。
話に戻ろうとしているが、伏せられた視線はキリルの意図を、主に自分の行動の何処がキリルの意に沿わなかったのかを、必死に考えている。
本当に追いかけてしまえばいいのに。
追いかけて、何がダメだったのか、聞けばそれが1番いいのに。
その行動に出る様子はない。
「………、ねぇ、ルクス。」
「………。」
「ルクス。」
「あ…、はい。」
「もう…、話しなんか聞けない状態じゃない。」
「………、すみません。」
「謝らなくていいから、追いかけてきなさい。ここで考えても分からないでしょう?」
「………。」
ルクスは黙り込む。
やはり動く様子はない。
それはルクスの性格もあるが、キリルを大切に想っている気持ちのせいでもあるだろう。
意に沿わないことはしたくない。
出来る限り願う事を叶えたい。
逃げたいのなら、追いかけない。
避けたいのなら、会わないようにする。
ルクスの考えは本当に、いっそ呆れるくらいに、単純だ。
子供のように感情をさらけ出せる年齢でもなく、同い年の青年達に比べれば落ち着きすぎたルクスでは、漸く大切に想える人と出会えてこれから色々と手探りで探していくには、邪魔が多すぎる。
時間をかければ確実に話は拗れる。
それならもう現状を理解させて学ばせていくしかない。
そうして教えるなら教える側がまず理解しないといけない。
「キリルがルクスから逃げる、か…。」
「ええ…。でも、あの時の彼の顔、もう少しで言葉に出来そうな気がするんです…。」
ルクスが声をかけて、キリルが驚いて。
言葉を詰まらせて、酷く困惑していて。
視線はキカとフレアに向けられてから、真っ直ぐにルクスに向けられて。
それから、一瞬、とても寂しそうな顔をした。
そう、あれはなんだったか。
例えるなら。
1人きりで置き去りにされた幼い子供のような。
とても大切な何かを見失ったような。
そんな、今にも泣きそうで不安そうな顔。
あの表情は。
抱えた感情は。
言葉にするなら、なんだろうか。
「………、ああ、そうか…。」
ふっとキカが呟いて、それから口元に笑みが浮かんだ。
フレアも同時に結果にたどりついたようで。
ああ、と手を合わせると、微笑ましそうな笑顔を見せた。
「ルクス。」
「はい。」
キカの呼びかけにルクスの返事は随分と硬い。
それ程に真剣なのだろう。
「人は酷く混乱すると、選択肢の1つに逃げるというものが出るようだ。」
「………?」
「お前がなにかしたわけでも、悪かったわけでもない。ただキリルの中で折り合いがつかなかっただけだ。」
ルクスはただ首を傾げる。
キカとフレアは笑うだけ。
「私の言葉を疑うか?」
「いえ、まさか。」
「ならこれだけを理解しろ。お前のすべき事は1つ。キリルを追いかけて、話を聞いてやる事だ。」
「話…ですか…?」
「逃げるようなら捕まえろ。いくら時間がかかっても、聞いてやれ。そうしてそれを出来る限り理解してやるんだ。」
「ですが…。」
「大丈夫だ。確かに逃げた。でもこれはお前も向き合わないといけないことだ。」
「彼1人では大変でしょうから、助けてあげてきなさい。友達なんだから。」
フレアにぽんっと背中を押されて。
数歩よろめくように歩いたルクスは、1度止まり、2人を振り返る。
ルクスとしては追いかける事は本当に気が重い。
でもここでずっと立ち止まって考え込んでいても、気が重いのは同じ。
それならキカとフレアの言葉を信じた方がいいだろう。
「………、はい。」
弱いながらもはっきりとした返事。
躊躇いながらも、ルクスはキリルが走り去った方へと向った。
多分キリルが抱えたのは、大切な人がいる限り避けられない気持ちの1つだろう。
あぁ本当にそれ程にお互いが大切なのか、と。
のろのろと歩くルクスを見送り、フレアとキカはただ笑った。
『 5 』 (早瀬)
「………………なあ、どうするべきだと思う? コレ」
「どうするもこうするも……とりあえず何とかするしかないだろう」
「そりゃ分かってんだけどよー……」
珍しくコソコソと会話をしながら、ハーヴェイとシグルドはある一点を困惑気味に見つめる。
ソレは数十分ほど前に寛ぐふたりの部屋へと突然やって来て、何事かを早口で捲くし立てながら部屋の中央にあるテーブルへと頭を抱えるようにして座り込んでしまったのだ。
どうしてこうなってしまったのか。
そもそも何故自分達の部屋でこうもコソコソしなければならないのか。
状況把握も何もできたものではなく、話の聞きようもないので途方にくれるしかない。
無理に話しかける、という選択肢などないほどに、ソレは非常に緊迫したものを持っていた。
しかしだからといっていつまでもこうしていられる訳ではない。
それはこの部屋にいる人間全員がよく分かっている事である。
とうとう意を決したハーヴェイがジリジリとテーブルに近寄り声をかけようとしたトコロで、ソレが小さく反応した。
「……分かってるんです。ルクスが英雄だって事は、最初から」
テーブルの顔を伏せたままのくもった声。
今にも消えてしまいそうなほど小さなものでも、無音の室内にはよく響く。
ハーヴェイとシグルドはそれぞれの行動を一旦停止させ、数十分ぶりに聞こえてきたその声に静かに耳を傾けた。
「お互い交わらない過去があるのだって当然なんです。今は隣にいるけど、でも僕達は所詮他人で一心同体でも何でもない」
テーブルと間近で向かい合いながら、キリルはどうしようもない自己嫌悪に陥っていた。
突然押しかけて、理由も説明せずにただ騒ぐだけ騒いで、そして沈黙。
ハーヴェイとシグルドが対応に困るのは当然の事で、妙な沈黙を作ってしまった今、自分が話し出さないと何も始まらない事も分かっている。
しかしキリルの中では未だに整理がついていなかった。
だから余計に口から出てくる言葉ひとつひとつに混乱していく。
何を言いに来たのか、何を聞いてもらいに来たのか。
そんな状態にも関わらず、わらをも掴む思いでとにかく押しかけてきてしまった。
ただでさえ混乱していた頭に追い討ちをかけるように沸き起こってきた、散々騒ぎ立てた恥ずかしさとふたりへの申し訳なさと。
何とか声を絞り出す事はできても、とてもではないが顔など上げられない。
ポツリポツリ心情を呟いてはみたものの、それ以上続いてくれない。
あまりの情けなさに鼻がツンと痛くなり始めたところで、ガタンと椅子を引く音が聞こえてきた。
「でもそれが寂しい。そんなトコか?」
「……ッ」
うつ伏せの自分と向き合うように座ったハーヴェイの一言に激しく動揺する。
まるで心を覗かれたのかと疑ってしまうほどに的確な一言に、ああ人間は図星を指されるとこんなにもグラグラになってしまうものなのか、と実感した。
もはや自傷気味に浮かぶ弱々しい笑みさえも滑稽に思える。
「やっぱり変ですよね。自分でもそう思……」
「いや別に?」
しかし被せるように帰ってきたその声に、キリルは言葉を飲み込むと同時に身を固くした。
「何でいきなりそんな事言い出したのかは分かんねーけど、変ではないんじゃねーの? なあ」
「……確かに過去は過去。もう終わってしまっているものを共にする事は勿論できません。しかしおふたりはまだ出会ったばかりで、これからたくさんの時間を共有していく。互いに知らない過去を語り合う事もできる。そうやって埋めていくのもいいとは思いませんか?」
テーブルに頬杖をつきながら、同意を求めるように見上げるハーヴェイの視線にシグルドが頷き静かに答える。
キリルはそれを、顔をテーブルに埋めながら聞いた。
「それに周りは英雄英雄言ってるけど、アイツ自身は全然そんな風に思っちゃいないぜ。言って欲しくもないみたいだし。だからお前がソレ気にしてたら駄目だろうが」
「でもッ! でも僕はこの感覚がなんなのか分からない。だから、どうしたらいいのかも分からない……ッ」
伏せていた顔を勢いよく持ち上げ、必死の形相で食い下がる。
またルクスを見て逃げ出す事は絶対にしたくないから、と。
普段のキリルからはまるで想像もできないくらいに切羽詰った、余裕の欠片もない姿。
目を丸くしながらそれを見ていたハーヴェイとシグルドは一旦顔を見合わせたあと、小さく息をはき、そして言い聞かせるように柔らかく口を開く。
若い証拠だよ、と。
「いやー、それにしてもホント良かったよなー。アイツの事こんなにも気にしてくれる奴が現れてさ。俺達も何か安心っつーかさ」
「ちょ、ちょっと待って下さいッ。若いってどういう……」
コンコン。
まるで全てが解決と言わんばかりのハーヴェイに思わず中腰になって詰め寄るキリルの言葉にまたも被さったのは、声ではなく音。
一斉にドアへと視線が送られた。
「……ほら、どうやらお迎えが来たみたいだぜ」
若い者は若い者同士、とっとと本音ぶつけ合ってこい。
まるでノックの相手が誰だか知っているかのようにそう口にしたハーヴェイは素早く椅子から立ち上がると、立てかけてあった愛用の剣を手に取る。
まさか尋ねてきた相手といきなり一戦交えるはずもない。
何処に行くにも必ず持ち歩くソレを手にしたという事は、この部屋から出て行くつもりだ。
ぽかんと見上げるキリルに笑顔を向けると、同じく微笑み、そしてキリルに向かって小さく頭を下げたシグルドと一緒にドアへと足を進めていく。
本当はキリルにも分かっていた。
そのドアの向こうに誰がいるかなんて。
待ってくれ、また心の準備も何もできていない。
しかしそんな心の声で引きとめられるはずもなく、ドアはゆっくりと開かれたのだった――――――――――。
『 6 』 (風望)
扉が開けば、その部屋の主達は揃って部屋から出て行った。
どうしたのか、と視線だけで問えば、中にいる、と笑みだけの返事で返された。
気を使われたという事はすぐに理解して、とりあえず今はそれに甘える事にした。
部屋に入って、扉を閉めて。
1人きりで取り残されて今にも泣きそうなほどに困惑した様子のキリルを見て、ルクスは少し考えた後にテーブルを挟んだ向い側にある椅子に座った。
ルクスの動きをキリルは目で追う。
まるで警戒されているようだ。
けれどここから逃げ出そうとしないだけマシだろう。
そのまま向かい合って座れば、ルクスの動きをずっと追っていたキリルと目が合った。
「キリル君。」
そっと名を呼ぶ。
それだけでびくりとキリルは肩を揺らし、途端に視線を彷徨わせた。
必死になって先程の逃げてしまった自分の行動に対する言い訳や謝罪の言葉を探したのだけれど、結局はにも見つからず、キリルはルクスの視線から逃げるように再び机の上に突っ伏した。
こうやっていて何が解決するわけでもない。
けれどこうでもしていなければ耐えられなかった。
呆れられただろうか、怒らせただろうか。
顔を上げる勇気もなくキリルは怯えるようにルクスの気配に耳と神経を向けていれば、やがて動く気配が感じられた。
何をするのか、どうするのか。
身構えるように体を強張らせたキリルを見て、ルクスは安心させるようにゆっくりと頭を撫でた。
安心させるように。
落ち着かせるように。
出来る限り優しく、緊張と焦りが和らぐまで、ルクスは黙ってそれを続けた。
机に突っ伏して固まってしまったキリルに、他にどうしていいかルクスには分からなかった。
やはり追いかけない方が良かったのか、一瞬そんな考えが頭を過ぎったが。
キカとフレアが追いかけた方がいいと言った。
人と付き合う事に不器用な自分の考えよりも、多くの人と接してきている2人の考えの方が、ずっと信憑性がある。
それに、ルクスとしても、本心としては追いかけたかった。
そうして話がしたかった。
話を聞いてやれ、と言われたけれど、このままでは埒があかない。
顔を上げないままのキリルに、けれど少しくらいは落ち着いてくれただろうと思い、ルクスは口を開いた。
「ごめん。」
その言葉にぴくりと指先が揺れてキリルが反応した。
「逃げたキミを追いかけるのは申し訳なかったけれど…、話したいと思ったボクの気持ちを優先させた。」
「………。」
「キミが本当に嫌なら、ボクはすぐに部屋から出よう。でも、少しでもボクが力になれるのなら、どうか話を聞かせてほしい。」
真剣な、まるで乞うような声。
ゆるりとキリルが顔を上げれば、ルクスはどこか不安そうだった。
心配をかけていることが心苦しくて。
よく分からない気持ちを抱えているのが辛くて。
話していいというのなら、それに甘えたくて。
「………、寂しい。」
耐え切れなくなって、ぽつりとキリルは気持ちを音にした。
「ルクスはこうして凄くボクに優しくしてくれる、とても気にかけてくれる。でも、ボクがルクスと一緒に過ごした時間なんて、ほんの何ヶ月程度だ。ボクよりもずっと長く一緒にいる日なんて他に沢山いる。」
「それが、寂しい?」
「そうだよ、寂しいんだ。ルクスは英雄で、本当ならボクじゃ手の届かないような人だ。でも一緒にいてくれる、笑ってくれる。それがとても嬉しい。でも他の人達にだってルクスはとても優しい。その人達の中で、ボクはきっと1番、ルクスとの時間が短い、何も知らない。」
きっとこんな気持ちはルクスを困らせるだけだ。
けれど1度喋りだせば止まらなくて、まとまらないまま気持ちを吐き出した。
「それが、寂しくて、よく分からない気持ちが込み上げてくるんだ…。」
後悔しながらも言い切ってしまい、居た堪れない気分のまま、ごめん、と言えば。
ルクスは特に何の表情も浮かべなかった。
困った様子も呆れた様子も怒った様子もない。
「キミが謝るなら、ボクも謝ろう。」
「………、え?」
「キミが誰かと過ごして楽しそうな時に、キミが家族達と過ごしている時に、ボクの知らない世界をキミが話す時、ボクはとても寂しいと思う。」
キリルは驚いた顔でルクスを見た。
逆にルクスは、先程のキカが言った言葉に納得して、苦笑いのような笑みを浮かべた。
「その気持ちをどうすればいいのか分からなくて相談をした。」
「ハーヴェイさん達に?」
「いや、キカさん。そうしたら、それは仕方のない事だと言われた。そうして相談するならキリル君がいいとも言われた。でも、態々気分の良くない話をすることもないと黙っていたけれど。」
そう言ってルクスは机の上にあるキリルの手を片方握った。
慣れた体温にキリルは重なっている手に視線を落とす。
彼は英雄で。
本当なら、全然手の届かない場所にいる人だけれど。
けれど、実際はこうして、触れ合えるくらいにとても近くにいる。
それを思えば込み上げてきた気持ちに泣きそうになった。
「話をすればよかったね、ごめん。」
「違う、ルクスが謝る事じゃない…。」
「うん…。」
「………、ボクはルクスの近くにありたい。でも、ボクの知らないルクスを知っている誰かは、必ずいる。」
「そうだね。世界にいるのはボク達だけじゃない。」
「そうしてボク達は同じ人間でもない。」
「でもだからこそ、ボク達は出会って一緒にいる事が出来る。世界に2人きりではなく多くの人がいるから、ボクはボクの気持ちでキミを大切なんだと思える。」
「そうだよね、2人だけだったら、仕方なくなのか好きなのかも、きっと分からないよね。」
「話をしよう。もっと多く、例えそれがどんなものでも。寂しいと思うたびに、そうしていけばいい。」
「うん。………、ルクス。」
「何?」
「ごめん。」
「ボクの方こそ。」
キリルは開いているもう片方の手を、ルクスの手の上に重ねて、今はただ傍にいる事を実感すれば、抱えた気持ち悪さも寂しさもすっかりと消えていた。
そうして残ったのは、交わした約束の嬉しさ。
結局あの気持ち悪さに、寂しい、という言葉以外が当てはめられなかったけれど。
けれど今はそれでいいと思った。
これからもっと話をして、一緒に悩んでいけばいい。
だから今は話が出来ただけで2人には十分だった。
「あ、キカ様。」
部屋を出て甲板に向ったハーヴェイとシグルドが、そこにいる自分の主とそうしてオベルの王女の姿を見つけ、手を上げた。
かけられた声に2人が振り返り、ああ、と返事が返ってきた。
返事があるということは、今は話しかけても大丈夫なのだろうと判断し、先程の出来事を話そうと思って2人はキカ達の所へと向った。
「聞いてくださいよ、先程キリルの奴が…。」
「ああ、やはりキリルが逃げ込んだ先はお前達の所だったか。」
「あれ、知ってるんですか?」
「………、もしかしてルクス様を後押ししたのは…。」
「私達よ。偶然現場に居合わせたものだから。」
「まったく、手の掛かる2人だ。」
「本当ですよね、こっちにかかる迷惑も考えろってんだ。ちょっとした独占欲の1つや2つで大騒ぎしやがって。」
「ああ、本当にな。」
キカは呆れたように肩を竦めた。
けれど浮かべる表情は、キカもここにいる皆も、ただ優しいばかりだった。
NOVEL