痕をつける






 シグルドが風呂場に行くと、そこにはびしょ濡れになった服を脱ぐのに悪戦苦闘しているキリルがいた。
 シャツを脱ごうとしているのだろう。
 でも濡れているせいで頭や腕に張り付いて脱ぎにくいらしく、一生懸命にもがいている。
「………、キリル様?」
「あれ、シグルドさん?」
 思わず声をかければ、布越しに少しくぐもった声が返ってきた。
 ちょうど頭の辺りで引っかかってしまっているので顔が見えない。
 あまりにも大変そうなので、引っ張りますよ、と声をかけてから手を貸した。
「あ、ありがとうございます。」
 ようやく顔が見えたキリルは、服だけでなく髪も随分と濡れていた。
「………、何かあったんですか?」
 天気は良好で雨は降っていないし、船の上までくるような波もないので、天候の為じゃないだろう。
 でも頭から足の先まで濡れているので、多少の水をひっくり返した程度ではここまでにはならない。
 大きなバケツでもひっくり返して頭からかぶらなければ無理だろう。
 まさかそんな事になったのだろうかと思えば、ようやく脱げたシャツをかごに入れながらキリルは苦笑した。
「いえ、その…、ちょっと特訓を。」
「特訓?」
「ボクってどうも水属性の紋章術に弱いんです。」
「そういえばそうですね。」
「だからもう少し何とかならないかなって思って、攻撃にならない程度の魔力をぶつけてみてもらったんですけど…、やっぱり駄目ですね、どうしても辛くて。」
「………、そこまでされればオレでも辛いですから、それほど心配しなくてもいいと思うのですが…。」
 随分と面白い発想をしたものだ。
 半分感心したが、半分はちょっと呆れた。
 でも本人は至って真面目だし、苦手を克服しようとするのは悪い事ではないので、何も言わない事にした。
「シグルドさんは今からお風呂ですか。」
「ええ、少しさっぱりしようと思ったので。」
「あ、それじゃあ、この前途中になっちゃった話の続きを聞いても…。」
「………、話は構いませんけど…、どうしました?」
 キリルが突然黙ってしまったので、シグルドは服を脱ぐ手を止めて首を傾げた。
 今ここにはキリルとシグルドだけで他の気配はない。
 何よりキリルの視線はシグルドに向けられているので、原因は自分にあるのだろうと思ったが、特に思い当たらない。
 キリルからいつもの笑顔が消えて、次には痛ましそうな顔をする。
 脱いだ上半身を確認してもキリルが驚くような怪我はしていないし、一緒に風呂に入るという事は珍しいわけではないので今更以前の傷跡に驚かれる事もないだろう。
 それじゃあ他は何なのか。
 キリルの目はシグルドの首の辺りに向けられていた。
「うわぁ…、随分赤いですけど、痛かったり痒かったりしないんですか…?」
 首の辺りに残った赤い色。
 思い当たるのはたった1つだけで、正直忘れていた事を指摘されてぎくりとしたが、でも一瞬だけ。
 その動揺は少しも表情に出なかった。
 何でもない顔でシグルドはいつものように笑う。
「ええ、大丈夫です。見た目ほど痒くはないですから。」
「あ、そうなんですか。急にじっと見てすみません。」
「いいえ。心配してくださってありがとうございます。」
 もし尋ねてきたのが他の人だったら、もっと反応は違っただろう。
 でもキリルは本当に虫刺されか何かだと思って心配しているだけで、それ以外の意味はない。
 過剰反応するだけ無駄だ。
 シグルドがにこりと笑えば、キリルも安心したように笑う。
 嘘を付いているような気になったが、特に追及するべき話題でもないので、さっさと話を戻そうとした。
 けれどその前にまた誰かが入ってきた。
「あれ、シグルドにキリルじゃんかよ。」
「ああ、ハーヴェイさん。」
 微妙なタイミングだった。
 話が終わった後で良かったと思ったが、同時にもうこの話は掘り返すなと心の中で願う。
「ていうかお前、もう入った後なのか?」
「いいえ、これからです。」
「何かお前だけ大雨に降られたみたいだよな。」
「水属性の紋章術克服の為に頑張ってたら、こんなになっちゃいました。」
「あー、成程。また無茶した事だけはよく分かった。さっさと入ってこいよ、風邪ひくぞ。」
「はい。」
 素直に頷いたキリルは、でもまた手を止めて、あ、と声を上げた。
 小さな声にシグルドは酷く嫌な予感がした。
「シグルドさん。」
「………、はい。」
「少し前に虫刺されの薬貰ったんで使いますか?今は平気でも、それ放っておいたら腫れそうですし。」
 ああやってしまった。
 そんな事を心の中で呟く。
 これで少しでもキリルに悪気があれば反論のしようもあるが、本当にキリルは何も知らなくて心配しているだけ。
 何をどう言えばいいのか全く分からない。
「どうかしたのか?」
「シグルドさんの虫刺されが痒そうに見えるなーって話なだけです。」
「虫刺され?」
 これ以上何も言うな。
 そう言う意味でシグルドはハーヴェイを睨んだ。
 けれどこちらは意味を理解したうえで何か言ってくる人だ。
 案の定、キリルの勘違いを理解して、とても楽しそうにハーヴェイは笑った。
「お前、それ本気で言ってんのか?」
「え?」
「ハーヴェイ。」
「だってさ、これ見て真剣に虫刺されって。もう本当にありえないだろうが。」
 ハーヴェイの言いたい事も分かるが、それでこちらに被害が来るのは徹底的に避けたい。
 別に今知らなければいけない事ではないのだ。
 のんびりと風呂に入る為に黙っていてほしいと願うのは悪い事ではない筈。
 けれどハーヴェイがシグルドの願いを聞き届ける様子はない。
「それ違うから。虫じゃなくて、やったのオレ。」
「え?」
 きょとりとしたキリルは、物凄く困惑した様子でハーヴェイとシグルドを交互に見た。
 虫刺されのようなこの痕はハーヴェイの仕業。
 つまりハーヴェイが刺したのだろうか。
 虫みたいに何かで、何かの為に。
 考えてみれば全く意味が分からなくなった。
「………、お前、何か今物凄く怖い事考えただろう。」
「え…、だって虫刺されがハーヴェイさんって…、ハーヴェイさんが虫!?」
「全く違う!」
「キリル様。ハーヴェイの言う事は放っておいていいですから、早く濡れた服を…。」
「だからつまりこうやって。」
 シグルドの腕を引っ張り、後ろからかぷりと首筋に噛み付く。
 キリルが驚いて目を丸くした。
 シグルドもあまりの事に硬直する。
 ハーヴェイだけが満足そうに、ほら、と言った。
「何かそれっぽくなるだろう。」
「………、歯形が付いただけなような…。」
「もっとちゃんと吸いつけばこんな感じだって。」
「というか…、何でそんな事してるんですか?」
「だってこいつはオレのだしさ。そういう意味で。」
「そう…、なん、ですか…?」
 キリルの疑問にハーヴェイが頷こうとしたが、それより先にシグルドが肘で思いっきりハーヴェイの腹を打った。
 突然の衝撃にハーヴェイが腹を抱えて蹲る。
 原因となったシグルドは笑顔だった。
 もういっそ怖い程に。
「え…えぇ…!?」
「申し訳ありません、混乱させてしまって。こいつの言う事は気にしなくていいですから。」
「はあ…。」
「それではちょっとお先に失礼しますね。」
 そう言ってまだ全部服を脱いだわけでもないシグルドが、まだ来たばかりのハーヴェイを引き摺って風呂場に入って行った。
 何だかよく分からないままキリルは呆然と見送り。
 ぱたりと扉が閉まった音を聞いて、我に返った。
「シ、シグルドさん!だから水は駄目、駄目ですって!落ち着いてください!!」
 キリルにはハーヴェイが何をしたくてシグルドが何を怒っているのか、いまいちまだ分からないけれど。
 とりあえずこのまま放っておけばハーヴェイが危ないという事だけは今までの経験から理解をして、キリルも慌てて風呂場の中へと駆け込んで行った。










END





 


2009.08.31

最近キリルとシグルドが羅貫君と成重さんのように思えてきました
だからつい一緒に風呂に入れたくなったとか
書き始めた動機が、もうお題と一切何の関係もなくて、本当にすみません





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