重ねた掌の意味






 シグルドは見慣れた姿が地面に転がる様を、何の感情も持たずただ静かに眺めていた。


 ひとたび戦場へと足を踏み入れればそんな光景は珍しくも何ともない。
 昨日まで笑い合っていた仲間の変貌した姿など何度見てきたか判らない。
 目をそむけたくなる様な場面に遭遇した事だって何度もある。
 誰が、勿論自分がいつそうなるか判らない。
 そんな世界にいるのだと理解してはいるが、そのたびに気分は重くなる。

 場は酷く混乱していた。
 危険や異変をいち早く察知し素早く報告する役目である見張りを気づかぬうちに失っていた事が大きかった。
 相手の奇襲作戦、第一段階のクリア。
 その後は態勢が整わない間に、反撃の猶予を与えず一気に責め立ててくる。
 混乱の末に離れ離れとなった相方の心配などしている余裕すらなく、シグルドは器用にナイフを操りながら懸命に事態の立て直しを図った。
 そしてそれはようやく終息を迎えた今でも変わらない。
 何とか退けはしたが決して少なくはない被害を前に、シグルド自身傷を負いながらも立ち止まる事など出来はしない。
 限りある魔力と薬を上手く使い、致命傷となる傷だけを治して回って仲間達の安否を確認する。
 動ける人間総出で事に当たっても治療を必要としている人間の方が多いというこの有り様にこれまでの警備態勢の甘さを痛感するが、そんな反省など後でいくらでも出来ると、頭を振る。
 しかしどんなに節約し、上手く使っても消耗品というものはいずれ消えてなくなるもの。

 シグルドがようやくその姿を見つけた時には、既に薬も魔力も体力も底を尽きた後だった。

 こんな所にいたのか。

 背後から一撃、その衝撃に集中力が僅かながら飛んだ隙を狙って一斉に、といったところだろうか。
 この世界ではある程度名の知れた人間ゆえに集中攻撃を受けた事が判る。
 豪快に大の字に転がる身体からは夥しい赤が水たまりを作り、服を所々染めている。
 荒い呼吸と並行して忙しなく胸が上下する様から、まだ辛うじて意識を繋ぎとめてはいるが、それも時間の問題であると見て取れた。
 切られたショック、出血のショックで全てを手放してしまわなかっただけさすがと言うべきか。

 ハーヴェイの身体から少し離れた場所で同じように転がっている愛用の剣を通り抜け、ゆっくりと近づいて行く。
 表情が見える位置までくればさすがに気配を察知したのか、うっすらと焦点の合わない視線を向けられた。
 その濁った瞳が混濁した意識を象徴する。
 口から洩れるのは苦しそうな呼吸ばかりで言葉は一つもない。
 きっと気配の持ち主が敵か味方かも判っていないだろう。
 そんなハーヴェイの隣にまで足を進めたシグルドは、その場にペタリと腰をおろして無造作に投げ出された傷だらけの手を取る。
 体温は感じられない。
 ただピクリと微かに返ってきた反応を確認したのち、それを僅かに宙へと持ち上げた。
 中途半端に浮くそれは、ハーヴェイは勿論シグルドにとってもキツイ態勢であったが、腕が細かく震えだしても止める事はしなかった。
 宙に浮いた事で重力に従いシグルドの手から滑り落ちそうになるハーヴェイの手。
 指先だけが辛うじて引っ掛かってはいるが、すぐにでもまた地面へと逆戻りしてしまいそうだ。
 しかしシグルドはそれをただ視界に映しながら、握り直す事もせずにぽつりと呟く。
 ハーヴェイにだけ向けられた声ではあるが、そのあまりにも擦れた小さな声にシグルド自身驚かされた。
 同じく過酷な戦闘に耐え、凌いだ後も指示や治療にと人一倍奮闘していたのだからそれも当たり前か。

「………………手を離すのか?」

 虚ろな瞳が虚ろな瞳を捉える。
 あんなに健康的だった顔色は見る影もない。
 こうしている間にもどんどんと赤いそれはハーヴェイから失われていく。
 こんな時にどんな言葉をかけたらいいのか見当もつかない。
 もしシグルドが魔力も体力も万全の状態だったのなら、紋章や薬を駆使して繋ぎとめる事も出来ただろう。
 しかし今は違う。
 例えギリギリのところで魔力が僅かながら絞り出せたとしても、去っていくものを連れ戻すなんて芸当はとてもじゃないが不可能。
 声を上げて泣いて縋ったところで何の力も残されていない今の状態では、ただ空しく惨めに響くだけだ。
 ならばどうすればいいのか。
 そんな事を考えられる余裕もなければ、考えを巡らせられる精神状態にもない。
 ただただ身体が重かった。

「お前がそうしたいのならそうすればいい。今の俺にそれを追って強引に繋ぎとめる力はもう残っていない……」

 打開する術など考えられない。
 しかしこうは思う。
 どんどん離れていくものをもう追う事は出来ないが、その場に踏み止まろうと懸命に抗うものにならばまだ近づく事は出来るのではないか、と。
 「病は気から」という言葉があるように、人間の強く思う心というものは時として絶大なる力を発揮する。
 もう駄目だと思えば加速度をつけて転がり落ち、まだやれると、まだ諦める訳にはいかないと思えば活路だって開ける。
 今は全く感じられない、ハーヴェイの強い心が必要だった。
 それには励ませばいいのか、それとも強く願えるよう促せばいいのか。
 シグルドに迷っている暇はない。
 ハーヴェイの状態を見る限り、時間的猶予はもうほとんどない。

「どうなんだ……俺の手を離してお前は行くのか?」

 それはもはや祈りを乗せた言葉。
 ハーヴェイの腕分の体重に疲れた腕がガクガクと震え出しても、懸命に宙へと固定し続ける。
 こんな事しか出来ないなんてと、ぎゅっと瞳を閉じて悔しさに唇をかみしめながら。
 すると。

 ――――――――――離すかよ。

 どこからかそんな声が聞こえてきたような気がして、ハッと息を呑み視線を眼下へと落とす。
 それと同時に、これまでシグルドの手の平に指先だけを引っ掛けた状態だったハーヴェイの手が、意思を持ってしがみ付いてきた。
 落ちまいと強く、力強く。

 落とした視界には、荒い呼吸を繰り返しながらもニッと歯を見せ唇をつり上がらせる表情が鮮明に映った。

 重なった手の平から確かな意思を感じる。
 それはハーヴェイがようやく見せた強い心だ。
 今ならいけるだろうか。
 いや、絶対にやる。
 痛いくらい力の加わった手を、シグルドも同じように力を込めて握り返す。
 シグルドが静かに瞳を閉じ天を仰ぎながらゆっくりと深呼吸すると、重なったそこから失われていたはずの淡い水の光が膨らみ始めた。
 しかしそれは非常に弱弱しく、時間にしたら数秒と持たない酷く不完全なもので終わってしまう。
 既に底をついた魔力と体力を考えれば、僅かにでも光を作り出せただけ奇跡と言えるだろう。
 これはあくまでも時間稼ぎにしかならないが、ハーヴェイ自らが繋ぎとめると決めたそれを、シグルドも文字通り全身全霊をかけてサポートする。
 抗うと決めた相手に、何としてでも近づこうとする。
 せめて少しでもあふれ出る血の流れを止める事が出来れば、弱める事が出来れば、あとは不足した薬を補給して駆け付けてくるであろう仲間達が何とかしてくれる。

 力強く握られた手の平に、先ほどはなかった僅かな体温を感じる。
 それを確認した瞬間初めて張り続けていた糸に僅かな弛みが生じ、シグルドの意識を後退させる。

 薄く瞳を開けたその先。
 見上げた空はやけに澄み渡り、そして綺麗だった。










END





 


2011.05.15






NOVEL