見張り番






ついていない日。
それは今日のような日の事をを言うのだろうと、ハーヴェイはひとり大きな溜息をついた。


朝から寝惚けてドアの端に小指をぶつける事から始まり、好物のおかずが目の前でなくなってしまったり、
自分の背後で派手に転んだ人間のコップの中身が綺麗に頭上から降ってきたり、
そのせいで足を捻挫してしまったらしい相手を、
力があるから、近くにいたから、という理由で何故か部屋まで運ぶ事になったり、
更に運が悪い事にその相手が本日午前中の見張り当番だったり。
「ついでだからお前が代わってやれ」なんていう淡々とした上司の言葉が恨めしい。
いや、普段から勘の鋭い上司の事。
誰かに状況を聞くなりして、きっと全てを把握していたのだろう。
食事の最中ハーヴェイ愛用の剣の机への立てかけ方が甘かったせいでふとした瞬間にバランスを崩し、
タイミング悪く相手の足元に転がってしまった事を。
何故相手が転んでしまったのか。
その原因を作ったのが自分であると分かっていたハーヴェイは、代役を買う事以外道は残されていなかった。

ああ、今日は本当についていない。
己の不運さにブツブツ文句を言いながら見張り台の設けられた船の一番高いところまでよじ登る。
辺りを見渡せば青い海と空しか見えない。
悔しいくらいの快晴だ。
ハーヴェイは小さく溜息をつくと、その場に腰を下ろし軽く背伸びをした。
潮の匂いとそれを含む風が心地よい。
不満げにしかめられていた表情が段々と和らいでいく。
じっとしている事をあまり好まないハーヴェイだったが、
頭の後ろで腕を組み、背を壁にぴったりとつけて飽きもせずにずっと海と空の栄目ばかりを眺めていた。

何をしてもついていないのなら何もしなければいい。

イライラしたままでは冷静な判断など出来るはずもない。
だから予期せぬ不運が次から次へと襲いかかってくるのだ。
ほんの少しだけ落ち着けたなら回避出来るものも中にはあっただろうに。

口を大きく開けて思いっきり空気を吸い込み、そして吐き出す。
船という狭い空間で、何となくひとりでぼーっとしていたい時に最適な場所。
ぼーっとしたあとは、落ち着いて考える事の出来る絶好の場所。
もう随分とこの船の厄介になっているというのに、ようやく見つけられた。
ハーヴェイはひとり苦笑いを浮かべながら、もう一度大きく身体を伸ばした。
ここに来た以上考え事ばかりしている訳にはいかない。
最低限の仕事はしないと、不運の一言だけでは片付けられない事態を引き起こす事になる。

「よっしゃ、やるか!」

一言気合を入れ、更に気合を入れる為に備え付けの双眼鏡を鷲づかんでそれを目元に押し当てる。
青い海、海、海。
キラキラと眩しいくらいに太陽の光を弾いている。
何かないかと目線をうろうろさせながらふいに少しだけ角度を上に上げると
迂闊にもその光をレンズの端に入れてしまい、慌ててそれを下げる。
ぎゅっと瞳を閉じたあとに瞬きを数回繰り返していると、
ふとレンズ越しに、船内から甲板へと続く階段付近を歩き回っているよく知った姿を発見した。

先ほどのハーヴェイだったら、
また何か小言を言われるだろうと不貞腐れ声などかけようとも思わなかっただろう。
しかし今は今朝の不機嫌さはどこへやら、双眼鏡を下ろし自然とその名を口にしていた。

「おーい、シグルド!」

何処からか突然飛んできた自分の名前に、その場で立ち止ったシグルドがきょろきょろと辺りを見回している。
上から見ているとその姿が母親を探す子供のようで、妙に可愛らしく見えてくる。
大の男に向かってそんな事を言ったらナイフが飛んでくるだけでは済まないだろうから絶対に口にはしないが。

「こっちだ、こっち」

片手を大きく振って自らの存在をアピールしながら声を張り上げれば、それを追うようにシグルドの顔が持ち上げられた。

「なあ、何にもなくて退屈なんだよ。暇ならちょっと寄ってけ!」
「油断するな、命取りになるぞ!」

声を張り上げての会話が何だか新鮮で面白い。
ハーヴェイは口元を緩めながら少し大袈裟に両手を大きく広げてみせた。

「見てみろよ、この一面穏やか過ぎる海と空。こんな日に一体何が起こるってんだ」
「だからその油断が……」
「分かったよ。じゃあ危険がないか隅々までチェックするからお前も手伝え!
 あ、そうだ、ついでに何か持ってきてくんね? じっとしてると妙に腹減るんだよ」

今朝の騒動のせいで食事もゆっくり出来なくて全く食べた気がしない。
じっと海や空を眺めている時には気付かなかったが、腹から声を出した事で身体が空腹を思い出してしまったようだ。
眉を寄せながらこちらを見るシグルドにニカッと笑って見せると、諦めたかのように吐き出された溜息。
それと同時に「仕方ないな」と唇がゆっくり動いたような気がしたが、それには気付かないふりをして再び眩しい天を仰ぐ。


大きな大きな空。
今朝の不運なんて本当にちっぽけだと思えるくらい広くて遠い。
そしてもっともっといい何かが起こりそうな予感すらも。
退屈としか思っていなかったこの当番の株が一気に上昇する。
シグルドが上がってきたら今日発見した見張り番の素晴らしさを教えてやってもいいかなと、
潮風を身体いっぱいに感じながら考えていた。







END





 

2008.02.29 NOVEL