海の上で
広い広い海の中で。
顔を上げれば、見えるのは海と空と雲と、頑張ればほんの一瞬目に痛い程に眩しい太陽と、見えるのはそれくらい。
他には何も見えない。
島から離れて随分と経ち、目的地に着くまでまだ時間がある。
だから見える物は限られてくる。
暇だな、と小さく隣にいるハーヴェイが呟いたのは、どのくらい前だったか。
特に大きな声ではなかったが、けれど何度も同じ言葉を繰り返され、じゃあ何処かへ行け、とシグルドが返せば黙り込んでしまった。
素っ気無い返事に苛立って無言の抗議、ではない。
ただ単に、いくら呟いてもシグルドが取り合わないと理解したから、黙ったのだろう。
今は黙って特に目立ったものなど何も見えない海を、けれど日差しと風を受けて心地よさそうにしながら見ている。
静かでいい、とシグルドは思った。
けれど同時に、暇だな、とも思った。
移動する為のこの時間、すべき事はそんなに多くない。
時折針路を邪魔し船を襲う魔物の撃退をするが、警鐘が鳴り響き人が集められる事はそう多くない。
魔物は本能に忠実な奴が多いから誰もこのような恐ろしい力の乗った船など襲いたくはない、と見た目ばかりは少年だが言葉遣いが随分と古めかしい紋章師が言った。
以前は2人の同業者が無謀にもこの船を襲う事もあったが、今となっては遠くに船が見えても、それだけだ。
随分立派なこの船は、以前は目標にされる事があった。
けれど今ではこの船に名の知れた海賊であるキカが乗っている。
それで襲撃の回数は減った。
そうして今となっては、英雄であるルクスまでもがいる。
襲撃をかけてきた船に世界の力の1つを司る、それこそ国の命運の1つや2つを簡単に喰らえそうな程の力を見せ。
この船に近づくのなら相応の覚悟はしろ、と。
ただそれだけを高らかに告げれば、その話はあっという間に広がり、人間からの襲撃はなくなった。
あそこまで躊躇いなく紋章を使ったのは、戦争終結から今までの時間の流れの成果なのか、それとも出会えた大切な存在への気持ちなのか。
おそらく強いのは後者だろう英雄の行動と紋章の影響力で、とにかくこの船は平和だった。
他に気をつけることいえば、もう天気と海の様子と自然の障害物くらいだろう。
ぼんやりとシグルドは水平編を眺めた。
平和でいい。
けれど暇だなとも思う。
こんな場所で何もせずにぼんやりと時間を過ごすなんて、平和と暇そのものだ。
「………、そういやさ。」
ふとハーヴェイが話を始めたので、シグルドは隣に目を向けた。
ハーヴェイはやはり風が心地よさそうに、若干眠そうに、遠く海の端の方を見ている。
「なんだ?」
「キリルって赤月帝国出身なんだよな。」
「………、何でいきなりそんな話になるんだ?」
暇だ暇だと言い続けた後はぱたりと沈黙。
そうして再び口を開いたかと思えば、突然この話。
何故そんな話になったのか分からなくてシグルドが返答に困っていれば、別に、とハーヴェイはぼんやりと言った。
「いや、ただ赤月帝国ってどんなんだろうなって思ってさ。確かこっちの方角だろう?」
指差したのは今まで見ていた海の先。
陸地は見えない。
ただ濃い青色と薄い青色と混じる白色が見えるだけ。
けれど確かにこのずっと先には陸地があるだろう、この世界全てが海ではないのだから。
そう思いながらハーヴェイが指差した方向を見ていたが、1度空へと視線を向けて、それから振り返り、シグルドは小さく息をついた。
「お前、赤月帝国は反対だろう。この方向じゃファレナ女王国になる。」
「あれ!?」
慌てた様子でハーヴェイは振り返る。
今ここに方角を示す物は何もなく、夜のように方角の基準となる星が見えるわけでもない。
けれどこの時期この時間の太陽の位置と、今向かっている方向と。
それを考えればハーヴェイの言っている事は間違いで、シグルドの方が正しくなる。
ハーヴェイも少し考えた後に納得したようで、ああ本当だ、とすぐに自分の間違いを認めた。
「お前…、海賊としてそれはどうなんだ。」
「あー、平気だって。別に今船の針路見ているわけじゃないし。」
「あのな…。」
「じゃあ赤月帝国はあっちか。やっぱなんも見えねーなー。」
光の眩しさを避けるように目の上に手を当てて、振り返ったハーヴェイは遠くに目を向ける。
見える風景に大差はない。
視界に数人の仲間と甲板が増えるだけ。
ここでルクスとキリルが2人で何かしていれば違った感想も出てきそうだが、とりあえず増えたところで特別興味を引かれる事は何もない。
だからまた振り返ったままぼんやりと水平線を眺める。
「………、それで、何で赤月帝国なんだ?」
また黙り込んだ中、別にこのままただの思い付きと流してもよかったが、他にする事もなかったので話を戻してみる。
ハーヴェイも同じ心境だったのだろう、返事は簡単に返ってきた。
「何となく見てたらさ、方角は違ったけど、遠いよなって思って。」
「………、そうだな。」
「欠片も見えやしねぇ。しかもクールークを越えた更に先。よくここまで紋章砲の為に来たよな、あいつも。」
「本当に…、帰るのも大変だろうに。」
「会いに行くもの一苦労な距離だよな。」
「海路に加えて陸路もあるからな。それなりの旅になるだろう。」
「ルクスも大変だよな。」
まだいくらか先の、けれど必ずくるだろう時に、今となってはまるで弟のような少年2人と、それに自分達を考えて。
静かに呟いたハーヴェイは、けれど声の落ち着きさとは違い、表情はどこか楽しそうだった。
「笑うところか?」
「いや、でも、欠片も見えねぇけど、絶対あるんだよな、この先に。」
「当たり前だろう。」
「なら別にどうとでもなるよな。全部が陸続きって訳じゃないけど、海が断ち切られて行けねぇ場所なんてないんだし。」
「それはそうだが…、何でそんな話になるんだ?」
「何もする事がないからじゃないか?」
返事としては随分と微妙だった。
ほんの少し反応に困ったような顔をシグルドが見せれば、ハーヴェイの表情は更に楽しそうになる。
「今は物凄く退屈な景色だけど、やっぱりなくなったら困るよな。何より海賊として。」
「そうだな。お前が陸に上がって山賊になるというのも変だしな。」
「オレがなったらお前も山賊になるんだぞ。お前の方が似合わない。」
「巻き込むな。」
「違う、当たり前の事を言っているだけだ。」
ぐたりと船体に寄りかかり、水平線から空へと目を向ける。
天気のいい穏やかな日。
天候や海の様子に気をつけるにしたって、今はただ穏やかで、それが変わる予兆も何もない。
見えるものは何も変わらない。
あー、とハーヴェイは意味のない声を上げた。
「ま、なんねーけどな。それこそ世界から海が消えるなんて事が起きない限り。」
「つまり絶対にありえないって話になるんだな。」
「そうだな。海がなくなるのと、オレとお前が別々に生きるのと、ルクスとキリルが一緒にいるのがこの旅だけなのと、どれが一番ありえないだろうなぁ。」
「………、ハーヴェイ。」
話を聞いてはみたが、やはりいまいち話の流れが分からない。
その原因に漸く行き当たる。
呼べばハーヴェイはシグルドへと目を向けて、ゆっくりと1度瞬きをする。
その動作は酷く緩慢で、その理由は1つしか思い当たらない。
「お前今物凄く眠いだろう。」
「正解。」
すぐに返ってきた返事と共に大きな欠伸。
これだけいい陽気と暇な時間では、確かに眠くもなり、そうして眠ければ思考もよく分からない事になるだろう。
「話してれば起きるかと思ったけど、やっぱり眠いな。する事もないし寝るか。」
「………、ならオレも戻って読書の続きでもするか。」
最初は何もする事がないからと本を読んでいた。
けれどずっと本を読んでいて少し疲れ、少し風にあたろうとしたシグルドにハーヴェイがついてきた。
それも飽きたのでまた読書に戻り、ハーヴェイは昼寝をする。
「本当に、いっそ笑えるくらいに、暇だな。」
そんな事をシグルドが言った。
普段は何もない方がいいと言っているシグルドが、言った。
陸に着けば戦いがあるというのに、今はどれだけ平和なのか。
いつもならハーヴェイが言う台詞をシグルドが言ってしまったので、いつもなら小言を言うシグルドの代わりにハーヴェイは声を立てて笑った。
そうして戻る為に寄りかかっていた船体から立ち上がる。
「そんで。」
「ん?」
シグルドも部屋に戻ろうと先に歩き出す。
その背中に声を投げかければ、足を止めて振り返った。
何の事か分かっていない様子の不思議そうなシグルドの顔を見て、それで、とハーヴェイはもう1度尋ねる。
「ありえないの、どれだと思う?」
ああ何だその事か。
表情がそう言った。
それから、くだらない、と笑った。
「選びようがない、どれも全部ありえないからな。」
「だよな。」
さーて寝るか、とハーヴェイは背を伸ばして。
戻るか、とシグルドが小さく笑う。
見えるのは海と空と見ようと思えば本の一瞬太陽なばかりの、この海の上。
暇だ平和だと文句のように思ってばかりだけれど。
それでもなくなってしまえば、きっとこんな他愛のない言葉を交わす事など出来なくなる。
これは確かに失うには惜しくて大切な、そんな場所と時間なのだろう。
END
2008.05.30
どうでもよくないと言えばそうだけど、でも考えるまでもないどうでもいい話をどうでもよさげに話させてみる
別に海の上じゃなくてもいいんじゃねと思うが今ここでやってみたかったんです、勝手に個人テーマでした
なんか書くたびにハーヴェイがおかしくなっていく気がするのは、気のせいなのか現実なのか
ちょっと真剣にひびきに向き合わせようと思います(いつもながら全力他人任せ!)
NOVEL