眠れない夜は
暗闇の中でぱちりと目を開いてキリルはじっと天井を見つめた。
それから1度右に寝返りを打ち、すぐに今度は左側を向いた。
けれど落ち着かないのか、また仰向けに寝転がり天井を見上げ、ぎゅっと目を閉じると布団を頭まで被った。
静かに落ち着いて呼吸を繰り返す。
遠くに聞こえる波の音を耳に馴染ませる。
意識を深く沈めるようにゆっくりと手放そうとする。
静かに、ゆっくりと。
このまま眠れるように。
「………、ダメだ、寝れない…。」
けれど効果もなく、キリルはそう独り言を漏らして布団の中から顔を出した。
部屋の中は暗い。
寝転がったまま手の届く位置にあるカーテンの半分を引っ張れば、窓からぼんやりと月明かりが入り、部屋の中が暗い青色で見えるようになった。
窓から見えるのは空だけ。
起き上がって窓の外を覗き込んだとしても、それにろくに空と区別がつかない海が加わるだけ。
月明かりがあっても夜の海では水平線すら見えないので、結局はただ暗いばかりの景色だ。
仕方ないので寝転がったまま、落ち着きなく何度も寝返りを繰り返す。
やがて横向きになり布団を抱きしめるように抱えてキリルは動きを止めた。
そうしてもう1度、寝れない、と呟く。
どうしてこう眠ろうと頑張れば頑張る程眠れないのか。
自分の意思で意識を手放せればいいのだけれど、何度試してみても上手くいかない。
何故か余計に目が覚めるだけだ。
ほんの少しの暗い灯りしかない部屋の中で数度瞬きを繰り返す。
眠さに負けて瞼が落ちてくる様子はない。
目を閉じていても暇だと感じるくらいだ。
暗い部屋の中でぼんやりとしていてもつまらないので、武器の手入れや以前シグルドから貰った本を読んだりして、眠くなるまで時間を潰そうかと思った。
けれど起き上がって灯りに手を伸ばそうとして、止まる。
今の時間では部屋の外の廊下も暗い。
うっかり明かりを点けて光が漏れ、こんな時間まで起きている事をうっかりアンダルクに見咎められたら大変だ。
過保護な付き人は、どうもキリルを幼い子供のように扱う。
おかげで眠る時間は随分早い。
用もなく起きていると色々と言われてしまうからだ。
それなのに、もう随分と船が静まり返った時間、偶然にまだアンダルクが起きていて偶然に気付かれたら、説教と心配が同時に来るだろう。
想像が出来て小さくため息をついた。
怒られるのは嫌だ。
心配をかけるのも嫌だ。
それに、いつもならとっくに眠っている時間で明日が心配になってくるので、キリルとしてもさっさと眠ってしまいたい。
けれど眠れない。
別に昼間に熟睡してしまったわけではない。
船旅の最中だが甲板を使ってハーヴェイに手合わせをしてもらったから疲れていないわけではない。
それなのに何故こうも眠れないのか。
「………、嫌だな…。」
暗闇の中、1人きり。
何もする事なく、眠気もなく、ただ寝転がっているだけでは、やる事もなくて色々と考えてしまう。
色々な事が途切れ途切れに纏まりなく浮かんでは消えていく。
昔の事、今の事、これからの事。
残るのは漠然とした気持ち悪さと不安ばかり。
夜に考え事など、決して明るい気持ちになれない事は、知っている。
大抵は訳の分らない不安に耐え続けて、眠りが訪れるのを待つだけ。
ぎゅっと布団を掴んでいる手に力を込めて、けれどやがて耐え切れなくなったようにキリルは起き上がった。
いつものキリルならとっくに眠っている時間。
誰かに見つかればどうしたのかと心配をかけるだろう。
けれどこのまま1人きりで横になっている事に耐え切れなくなったキリルは、寝巻き姿のまま部屋を出た。
廊下も薄暗い。
所々にあるランプに小さな灯りがあるだけで、人の気配もない。
それでも、じっとしているよりはいくらか気が紛れるだろうとキリルは思い、ふらりと廊下を歩き出した。
静かな廊下を、出来るだけ足音を立てないように。
特に何処に向かうつもりもなく歩いていれば、何気なく外に出ようかと思って甲板に向かう。
けれど外に出ようと扉を開いてみれば、吹き付けてきた夜風は思ったよりもずっと冷たかった。
寝巻き姿のままでは少し辛い。
でも頭を冷やすにはちょうどいいとも思った。
風邪をひかない程度に風にあたろうと思って、甲板へと1歩踏み出す。
「キリル君?」
「うわっ……!!」
ちょうどそのタイミングで後ろから声をかけられ、誰もいないと思い込んでいたキリルは悲鳴を上げそうになり、慌てて口を手で押さえる。
何とか悲鳴は飲み込み、驚きからやけに早くなった脈を落ち着かせるように胸に手を慌てて、そろりと振り返る。
立っていたのは、ほんの少し首を傾げてこちらを見ているルクスだった。
その姿を見てキリルは肩から力を抜く。
普段なら声で気付くのだが、今は驚きが強すぎたようだ。
「ル、ルクス…。」
「ごめん、驚かせたようで。」
「あはは、少し…。」
苦笑いを浮かべるキリルにルクスは歩み寄る。
こんな深夜にどうしたのか。
キリルはそう思ったが、それはルクスも同じ疑問だった。
「どうしたの、こんな時間に。」
ルクスの声はほんの少しの心配を含んで聞こえた。
ああしまった、と思ったキリルは、とりあえずルクスの心配を否定しようと何度も首を横に振った。
「あ、何もないんだ、心配されるような事は何も。」
「そう?」
「うん…。ただ、ちょっと眠れなかっただけ。」
「………、そう。」
ルクスがほんの少し目を伏せる。
余計に心配をかけてしまったのか、それとも何か思う事があったのか。
随分と静かな声で短く呟いたルクスは、けれどすぐに顔を上げてキリルと目を合わせた。
「でも、この時間に外に出る事はやめたほうがいい、風が冷たいから。」
「やっぱり、そうだよね。」
「眠れないなら、なにか温かい物を用意しようか?」
「え?」
「食堂を探せば何かあると思うから。」
それだけ言うと、キリルの返事を待たずに歩き出したルクスの後を、キリルは慌てて追いかけた。
少し風にあたりたい気分だったが、止められてまでやりたい事ではない。
何よりルクスと一緒にいられる時間を割くなんてキリルには考えられない。
だから当たり前のように追いかけた。
隣に並ぼうとして、その少し手前で、キリルはルクスが自分と違って寝巻きではない事に気がついた。
もう随分と遅い時間で、船の中はとても静か。
キリルは歩き回っている間、誰に会う事もなかった。
こんな時間に普段着のままだなんて、まだ眠ろうとすらしていないなんて。
ルクスが眠る時間は自分よりもずっと遅いと知っていても、キリルは不思議に思った。
「ルクス。」
「何?」
隣に並んで名前を呼べば、キリルの方を向いたルクスは特に何の表情も浮かべないまま返事をした。
ルクスが表情をあまり変化させない事は今に始まった事ではない。
けれど、何だか変だな、とキリルは思った。
何がどう変だと明確に言えるわけではない。
それでも違和感は消えずに、呼びかけておきながらただじっと黙ってルクスを見ていれば、ルクスは不思議そうに小さく首を傾げて、キリル君、と呼んだ。
その声に、何となく違和感の正体を掴んだ。
声がいつもよりずっと静かなのだ。
ルクスはいつも静かに淡々とした声と表情で話をするが、それでもキリルにとってそれはとても温かいものに感じられた。
特に名前を呼ばれた時など、ただ嬉しいばかり。
けれど今日はその感覚が何処か遠い。
最初に呼びかけられて驚いた時も、不思議そうに聞き返してきた今も、静かすぎて嬉しいなんて喜んでいられないと思ってしまう。
「………、ルクス。」
「何?」
再び同じ呼びかけに、同じ声と表情でルクスは返す。
ああ、そうだ、それに笑ってもいない。
いつもなら見せてくれるほんの少しの笑みも、今はない。
「どうかしたの?」
聞けばルクスはぱちりと瞬きをした。
それからキリルから目を逸らして前を向き、ゆるりと1度首を横に振る。
「特にどうもしないよ。」
「………、そう?」
「うん。」
そう言われてしまえばキリルは何も言えずに黙るしかない。
言葉が途切れる。
静かで暗い廊下を歩く音と、船が揺れてぎしりと小さく軋むような音だけが聞こえるようになる。
普段からでは考えられない程に居心地の悪い沈黙に、キリルは慌てて言葉を探したが、見つからない。
どうしようかと困っていれば。
沈黙に耐え切れなくなったように先に口を開いたのはルクスで、ただ、と小さく呟いた。
「え?」
「ただ…、眠れなかっただけだよ。訳もなく…、ただ、眠れないだけ。」
それだけだよ、とルクスはキリルと目を合わせて小さく苦笑した。
力のない笑みに、多分自分と同じなのだろう、とキリルは思った。
特に理由もないのに眠れなくて、暗い中に1人でいれば色々な事を考えてしまい、漠然とした不安ばかりが広がっていく。
ルクスには立場があるし、その立場を得た過去もあるし、強すぎる力もある。
きっと自分よりもずっと考えてしまえば抜け出せなくなる事を一杯に抱えている。
普段そんな素振りは全然見せないけれど。
彼は英雄であり、真の紋章に選ばれた特別な存在だけれど。
でも、たった1つしか年の違わない、ルクスは1人の青年だ。
そう思えば、キリルは考える間もなく隣を歩くルクスの手を握った。
「キリル君?」
不思議そうな呼びかけに、キリルは握っている手に力を込める。
けれど気持ちばかりが先に立ってしまった結果の行動なので、咄嗟に言葉が浮かばない。
困るキリルに、ルクスはただ黙って言葉を待ったけれど。
ふと握られた手に目を向けて。
ほんの少し目を閉じた後に、その手をルクスからもぎゅっと握った。
より強く感じられた温かさに、キリルは漸く言いたい言葉を見つけて、あの、とルクスに声をかけた。
「その、飲み物、作ってくれるんだよね?」
「うん。」
「じゃあ2人分。ボクとルクスのを作って。」
「うん、いいよ。」
「それで、それを持ってボクの部屋に行こう。」
握られた手に向けられていたルクスの目がキリルの方へと向けられる。
キリルの言葉の意図が分からない、そんな様子だ。
ルクスのそんな様子と暗い中で見ても綺麗だと思う青色に、急に躊躇う気持ちが湧き上がってきて一瞬言葉を詰まらせた。
けれど今は言ってしまいたい気持ちの方が僅かながら強かった。
「ボクの部屋で一緒に飲んで、少し話をして、そうして一緒に寝よう。」
ルクスは目を丸くした。
キリルも、やってしまった、という気持ちからそっと目を明後日の方へ向けた。
部屋に来てもらって一緒に寝るといっても、ベッドは1つきり。
片方が床に寝転がるが、もしくは狭いのを我慢して1つのベッドを使うしかない。
キリルが思い浮かべたのは後者の方だ。
だって、今は1人きりが何だが嫌だ。
そして、それは多分ルクスも一緒だ。
だったら一緒にいれば、色々と考えてしまう事も、漠然とした不安を抱える事も、きっとない。
完全に消えなくても、1人でいるよりはずっと安心する筈だ。
だから一緒にいよう。
そう思っての提案。
けれどはたしてルクスにそこまで踏み込んだ提案をしてよかったのか。
言いたい気持ちがあったのは確かだが、こちらをじっと見たまま何も返事をしないルクスに、正直後悔した。
それなのに握った手は離せない。
こうなればいっその事無理矢理に引っ張って行ってしまおうか、とそんな事をキリルが思ったと同時に、小さな笑い声が聞こえてきた。
視線をルクスの方へと戻せば、握っている方とは逆の手で口元を押さえ、それでも耐え切れなくなったように笑っているルクスが見えた。
笑みを浮かべる事はあっても、声に出して笑う事は滅多にない。
珍しいその姿に、キリルはついじっとその姿を見た。
それにルクスが、ごめん、と笑い混じりに言う。
「悪い意味で笑っているんじゃない。ただ…、キリル君は凄いなって。」
「え?」
「本当に、ただ眠れなかっただけで、それだけだったんだけど、そう思っていたんだけど…。」
声を抑えたルクスがほんの少しの笑みをキリルに向ける。
「そうだね…、少し、1人でいるのが、寂しかった。」
いつも見せてくれる穏やかな表情。
そういえば声はいつの間にか聞き慣れた温かいもの。
「ルクス…。」
「キリル君の言葉に、甘えてもいいのかな?」
「も、勿論だよ!」
つい力強い声で返事をしてしまい、静かな廊下に響いた自分の声にキリルは慌てて口を押さえた。
それにまたルクスが笑い出す。
「ルクス、笑いすぎだよ。」
「ごめん。何だか嬉しくて。………、いいね、友達がいるのは。」
「………、うん、そうだね。ボクも正直寂しいような怖いような、そんな気持ちに耐えられなくて、歩き回っていた。でも、ルクスに会ったら、何だがそんな気持ちは吹き飛んだよ。友達がいてくれてよかった。」
「うん、本当に。」
「じゃあ早く部屋に行こう。友達と一緒に寝るなんて初めてだから、何だか楽しくなってきたよ。」
「目的は眠る事で、話し込む事じゃないというのを忘れないでよ。」
「あ、そうだよね、うん、頑張る。」
「ボクも頑張るよ。」
ああこれでは別の理由で眠れなくなりそうだ、と少しだけ思ったが。
寂しいわけでも不安なわけでもなく、楽しい気持ちでいられるのなら、それでもいいだろう。
そう思った2人は、この暗く静かなばかりの廊下を、とても楽しそうに一緒に歩いていった。
END
2008.03.30
初めて友達の所にお泊り、という軽い気持ちと、夜に考え事は訳もなく不安にばかりなる、という微妙な重さを混ぜたら
何だかとても微妙な立ち位置になった気がします、何だお前ら
考えの浅い人間が考えの深い人なんて書けないので、ボクの書く主人公連中はいつも悩みがなさそうなのですが
たまにはこんな事もありますよね!
無理矢理にそう思ってください
後は皆様方のきっちり物事を考えられる想像力にお任せします(何処までも他力本願)
NOVEL