左手






 水を貰おうと思った。
 シグルドが船内の食堂に向ったのはそれだけの理由だった。
 決められた食事の時間でなければ食堂に食べ物は何もないが、次の食事の準備をしている担当の人が必ずいる。
 その人に声をかけて水を貰おうと厨房を覗き込んだのだが。
「ああ、シグルド。」
 シグルドに気付いて声をかけてきたのは厨房の人ではなく、何故か厨房の中にいたルクスだった。
 いるとは思わなかった人の姿に、シグルドは数度瞬きを繰り返した後に目を擦った。
 けれどそもそもルクスの姿を見間違える方が難しい。
 目を擦ってみたところで、そこにいた人の姿は変わらなかった。
 シグルドの一連の行動を、多分不思議そうに、けれど見ている限りは無表情に見た後に、どうしたの、と小さく首を傾げた。
「ああ、いえ…。ルクス様がここにいるとは思わなかったものですから、少し驚いて。」
「そう。」
 多分答えに納得したのだろう、でもやっぱり無表情にルクスは短くそう言った。
 何となく雰囲気は分かる。
 けれど小さな表情の変化を見る事は、やはり難しい。
 まじまじとシグルドがルクスの顔を見ていれば、ルクスはまた首を傾げる。
「何?」
「あ、その、水を貰いに来ました。」
「ああ。」
 奥に厨房担当の人がいるようだ。
 ルクスが声をかけると包丁と野菜を手に顔を出し、水を、と言われると慌てて取りに行った。
 慣れない人がルクスと一緒にいるのは大変だろう。
 綺麗な顔のこの青年は滅多に表情は変えないし、口数も少なく、何より存在感がある。
 声をかけられて慌ててしまうのは仕方がないと思える。
 けれど今更シグルドは気にしない。
 厨房の奥へと戻っていく人の後姿を見送った後に、ルクスに視線を戻した。
 正確にはルクスが両手に抱えている物に。
「ところで…、ルクス様は何を?」
「ケーキを作っている。」
「………、ケーキ、ですか?」
「ケーキだよ。」
 右手には泡だて器。
 左手には2つ重ねたボウルを持っていて、その中には白い液体が入っている。
 ケーキを作るというのなら生クリームだろうか。
「何でまた急にケーキを…。」
 自分で言っておきながら、言葉の途中で答えなど1つしかありえない事に気付いた。
「キリル君が食べたいって言ったから。」
 ルクスからの返事は案の定だった。
 続けてもいい、と聞かれたので、どうぞ、と答えれば慣れた手つきでクリームを泡立て始める。
 少しすれば水の入ったビンを持った厨房の人が戻ってきてシグルドの前に置いたのだけれど、それでもじっとシグルドはルクスの様子を眺めた。
「面白い?」
「随分手馴れていると思いまして。」
「前はよく作ったから。」
 短い答えにシグルドは不思議そうな顔をした。
 以前何度か食べる機会があったのでルクスの料理が上手い事は知っているし、あの腕ならお菓子を作っても美味しいだろう。
 けれどルクスは言うほど甘い物が好きな人ではない。
 食べている姿は普通に見るが、ないからと態々作る程でもないだろうし、それ以前にルクスが自分で食べたいと思って自分で作るというのも正直あまり考えられない。
 ここで作っているのが饅頭なら納得できるかもしれないが、ケーキでは無理だった。
 でも少し考えて、ああ、とシグルドが声を上げる。
「スノウにですか?」
「うん。随分前だけど、何故かボクに作れと言ってきた。」
「もしかして、やけに料理が上手なのも?」
「同じ理由。」
 シグルドと話しながらもずっと止まる事なく動いていた手が、そう答えると同時にぴたりと止まった。
 クリームと液体の中間くらいになったボウルの中身へとじっと視線落とす。
 シグルドがどうしたのかと思えば、それをルクスに聞く前に、不思議だね、とルクスが言った。
「何がですか?」
「ボクは料理が好きでも嫌いでもない。」
 美味しい料理を作る人だが、これが趣味という程作っているわけではない。
 ルクスの言葉にシグルドは黙って頷いた。
「スノウがボクに言ってきた時、コックがいるのに知識のないボクに言ってくる理由が分からなかった。」
 作った事はないので美味しくは出来ない、とルクスは言った。
 それでも、ケーキを作って、とスノウは言った。
 意味が分からなかったが、それでも主に望まれた事なので、それ以上は何も言わずにただ従った。
「初めて作ったら、美味しいわけでも不味いわけでもない、微妙な物が出来た。」
「まぁ、初めてですから。」
「この結果を見ればボクに頼む事の無意味さを理解してくれると思ったら、少しした頃にまたボクにケーキをと言ってきた。」
「そうして、この結果ですか?」
「うん。分量を覚えていくつか種類が作れるくらいまで、作った。そのうち美味しいという評価をもらえた。」
「そうですか。はやり嬉しかったりしましたか?」
「いや。」
 ルクスは緩く首を横に振る。
 それから思い出したようにまたクリームを泡立てる事を始めた。
「求められていた結果が出た、それだけ。」
 彼の性格を考えれば、その返事は不思議ではなかった。
 けれど時折こうしてルクスの感情の起伏の少なさを、周りの事どころか自分の事すら感情の何もかもを切り離しているような様子を、目の当たりにするたびに少し寂しいような気持ちになる。
 それを思いながらシグルドは、そうですか、とただそれだけを返す。
 ルクスはずっとクリームをかき混ぜていて、途中で疲れたのか泡だて器とボウルを持つ手を逆にする。
 料理中だからだろう、その手に手袋ははめられていない。
 随分久し振りにただルクスの左手にあるだけの紋章を見た気がした。
 過去には随分と宿主であるルクスを苦しめた、けれどルクス自身は特に深く気にする様子も見せなかった、紋章。
 ルクスの性格だから耐えられたのかもしれない、と思う。
 けれどそう思えば余計に何だか寂しくなり、気付けば左手を見たままシグルドは顔を顰めていた。
 気付いたルクスが少しだけ困った顔をしたように見えた。
「気になる?」
「え、あ、いえ…。」
「気分を悪くしたのなら謝るけど、でも料理中だから隠せる物がなかった。」
 左手を見るルクスにシグルドは慌てて首を横に振る。
「いえ、その、ルクス様は左手も随分器用に動かすなと思いまして…。」
 少し苦しい言い訳だ。
 自分ですらそう思う言い訳がルクス相手に通用するとは思わないが、ルクスは特に追求はしなかった。
「気付いたらね。動かしやすいのは右手だけど。」
「そう、ですか。」
「………、気にしないでくれていいんだ、本当に。」
 何の事を言われたのかが一瞬分からなくてシグルドはルクスを見る。
 ルクスは黙ったままクリームをかき混ぜていたが、液体からしっかりと固まったクリームを見てその手を止める。
 そうしてボウルの中身を見て、小さく笑った。
 シグルドが笑ったと分かるくらいの笑みは、ルクスにしては随分とはっきりとしたものだ。
「本当に作るのは好きでも嫌いでもなく、評価もどうでもいいものだったけれど…、でも今は作っているのが楽しいし、嬉しい。」
「………、キリル様、ですか?」
「うん。」
 1つしかないだろう可能性を言えば、ルクスは躊躇わずに頷いた。
「キリル君が嬉しそうなのに遠慮がちにケーキと言ってきた時、作ってあげたいなと思った。喜んでもらえるのかと思うと今はとても楽しい。」
「ええ、キリル様ならきっと目を輝かせて喜びます。」
「昔、評価されるほど作っておいてよかったとすら、思えた。」
 ボウルを台の上に置いて、左手を目の高さまで持ち上げる。
 黒く禍々しいという印象さえ与える紋章を見るが、ルクスの表情は変わらない。
「そうして紋章にすら、今は感謝している。」
「え?」
「これがなかったら、ボクは別の道を歩いていた。その道じゃ、キリル君に会えなかったかもしれない。」
「………。」
「感謝している。今ここにいる事の出来る道の全てに、キリル君に会えたから、感謝している。」
 穏やかな表情で言うルクスを、シグルドはただじっと見た。
 本当に心からそう思っているんだという事は、その表情を見れば分かる。
 だって過去の記憶にこんなルクスはいない。
 軍主になる前から共にいた仲間にも、何かと多く接したハーヴェイとシグルドにも、こんな顔はしなかった。
 それをキリルではなく自分が見ていいのかという気持ちのまま、呆けたようにシグルドが見ていれば、ルクスの笑みは穏やかな物から苦笑いに変わった。
「やっぱりおかしいのかな、これは…。」
「え…、あ、いえ!そんな事はないです。」
「じゃあシグルドもハーヴェイにそう思う事がある?」
 多分それはとても大切な気持ちだ。
 だから慌ててシグルドが否定すれば、返ってきたのはそんな言葉で、思わず固まった。
「………、ハーヴェイ、ですか…?」
「だってハーヴェイはシグルドの大切な片割れ。ボク達よりも長く一緒にいるのだから、機会も多そうだ。」
 ルクスはただ戸惑っているだけだ。
 今までこんなふうに思う相手なんかいなかったから、キリルへの気持ちがおかしくはないか、それがキリルにとってマイナスにならないか、判断する材料があまりにも少ないから、戸惑っているだけで。
 シグルドにはハーヴェイがいると理解しているから、確認をしている。
 ただそれだけで、他に他意はない。
 それは分かっている。
 分かっているが、まさかルクスの気持ちを否定するような言葉は言えず、かといって唐突にそんな話を振られても言葉が見つからず。
 じっと向けられる強い視線に、シグルドは困ったように硬直していたが。
「ルクス?」
 聞こえてきた声に、シグルドはほっとした。
 ルクスの視線もすぐに声の聞こえてきた方に向けられる。
「キリル君、ここ。」
「ルクス。あ、シグルドさん。こんにちは。」
「こんにちは、キリル様。」
「………、どうかしたんですか?何だか疲れているような感じですけど…。」
「いえ、何でも、何でもないです。」
「そうですか?」
 不思議そうにしながらもシグルドの言葉を信じたキリルは、すぐにルクスの方を向く。
 ケーキのスポンジの姿はないが、ボウル一杯のクリームを見て、思った通り目を輝かせた。
 その様子にルクスが嬉しそうに笑う。
「もう少し待って。あと飾り付けるから。」
「うん。その…、本当にごめんね、我侭言って。」
「気にしないで、構わないから。」
 近くにおいてあった、ケーキの飾り付け用だろうと思われる、切り分けられた果物を手にとり、半分くらいをクリームにつける。
 それをキリルの口元に持っていけば、キリルが嬉しそうに食べた。
「美味しい。」
「そう?」
「うん。」
 嬉しそうなその様子に、ただルクスは笑う。
 普通と比べればやはりささやかに思える笑顔だが、表情が変化したからも分からないルクスがこうもはっきりと笑っているのは、本当に珍しいのだ。
 でも最近ではもうあまり珍しいとは思えなくなってきた。
 キリルの前では本当に変わったと分かるくらいに表情を変える。
 今も本当に嬉しいとか幸せだとか、そう思っているんだとシグルドにも分かる笑顔。
 キリルが顔を上げて笑顔で美味しいと繰り返せば、その笑みは更に深くなる。
 見ている方が恥ずかしくなるくらいにルクスもキリルも幸せそうな光景。
 これ以上は邪魔をしない方がいいのかと思って貰った水を持って戻ろうとしたが、その前にルクスがシグルドを呼び止める。
「シグルド、この後何かある?」
「いえ、特に何も。」
「それならハーヴェイを呼んできて。折角だから、2人も食べよう。」
 当たり前のように誘われた。
 以前ならこちらが呼ぶばかりだったのに、それでも断る事ばかりが多かったのに。
 本当に随分と変わったと思う。
 でも、何もかもに感謝するくらいの人に出会えたのだから、変わって当然だとも思った。
 そうしてたった数ヶ月程度でここまでルクスを変えたキリルを凄いと思いながら、シグルドは笑って頷いた。
「はい。すぐに呼んできます。」
 シグルドの答えに嬉しそうにしたキリルを、ルクスはやっぱりとても大切そうに見ていた。










END





 


2007.11.30

そうしてこの後、結局さっきのボクの話は変だったのか、シグルドはどう思っているのか、とルクスに追求されるシグルドがいると思います

多分紋章関連と考えて出したと思われるお題でしたが(つーかこれ出したのはボクだ)
そういえば紋章関連はオフで殆ど書ききったなー、と思いまして…
1・紋章を怖がるルクス、2・紋章も自分もどうでもよさそうなルクス、ときましたので、3・紋章に感謝しているルクス、となりました
とってつけたような感じになりましたが、流してください





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