時間を忘れて






その部屋の中はただただ静まり返っていた。
時計の針が進む音も、それを『音』とは認識されていない。
まるで誰もいないかのように、気配さえも存在を顰めている。
そして時々思い出したかのように響くのはほんの一瞬、紙をめくる微かな音だけ。
それがこの部屋ではもう半日以上続いていた。

一度集中し出すとなかなか抜け出せなくなるという自覚はあった。
酷い時には気付けば時計の針が一周していたという事もあるくらい、
本気で入り込んでしまうと時間などあっという間に過ぎ去っている。
しかし長年染み付いたそれが簡単になくなるはずもなく、時々はこうして『集中』をし続けてしまう。
船の上では戦闘でもない限り基本的に皆自由に過ごしている。
最低限の決まり事、マナー、与えられた仕事をこなすなどの当たり前な事を守れば
酒を飲むのも、仲間とカードゲームに勤しむのも、食事も訓練も何もかもが自由だ。
なので誰かの『自由』に口出しする人間は誰もいない。
例え半日以上姿が見えなくても『自由』。
まさか船から飛び降りるなんていう意味不明な行動を取る人間はこの船にはいないし、
体調不良で動けないにしても何らかの連絡手段はある。
そんなものとは無縁とも言える人間に対してなら、
尚更半日だろうが一日だろうが表に姿を現さなくても誰も気にしない。
絶対的な信頼、信用というのも時には考えものである。

永遠に続くかと思われたこの制止した時間。
しかしそれはふと響いた控えめのノックの音に、再び動き出す事となる。

どのくらい同じ体勢でいたのだろうか。
反射的に持ち上がった顔、肩や首に鈍い痛みが走る。
活字ばかりを追っていた目が突然入ってきた広い空間に一瞬怯んだ。
初めは気のせいかと思った。
空耳か、もしくは幻聴か。
聞こえてきたはずのノック、しかしそれから先は何もない。
何時間とも知れない集中から解かれ、時計の針の音も聞こえるようになった。
しかしそれだけだった。
気のせいか、それとも船が何かに擦ったのかもしれない。
固まっていた身体を伸ばしながら、膝の上に広げられているそれにもう一度視線を落とした。
大きくて分厚く、一枚一枚にびっしりと文字の書かれているそれ。
広げ始めた時は一枚目を通すのに酷く長い時間を要したはずだったが、
今では残りの紙を数えるのに数秒とかからないところに指がかかっている。
これなら目が痛くなる事も身体が痛くなる事も納得が出来るというもの。
ひとつ大きく息をはきながら、瞳を閉じ眉間を揉むように指先を押し当てた。

コンコンコン。

気のせいかと思っていた音がもう一度耳に入ってきて、ここでようやく確信する事が出来る。
誰かがこの部屋の前にいるという事。
そしてその『誰か』が誰なのかという事も。

以前、その相手と交わした会話を思い出す。
無謀とも言える、しかし自分ではどうする事も出来ない『集中』を知った相手は何度か瞬きを繰り返した後、
笑みを浮かべてこう口にした。

――――――――――それなら勝手だけど、適当だと思ったところで引き上げに行く、と。

一度入り込んでしまうとなかなか抜け出せなくなる静寂に差し込むひとつの『音』。
「自分が引き上げに行くから集中してもいいよ」と。
相手にとっては何でもない一言なのかもしれないが、しかし息を呑まずにはいられなかった。
集中しているのだから邪魔をしては悪いという周囲の気遣いのもと、これまで随分と自由にさせてもらってきた。
それはそれで楽だったし、急な戦闘や用があった時には声をかけられるので問題ないと思ってきた。
長時間同じ体勢でいて身体を痛くするのは自分ひとりだし、誰に迷惑をかける訳でもない。
しかし相手は用もないのに声をかけに来ると言う。
何故だと問うと「心配だから」とキッパリ言葉にされた。

行き過ぎているという自覚はあった。
皆口には出さないが周囲の気遣い、心配も感じなかったといえば嘘になる。
しかしこうして面と向かって言葉にされたのは初めての事。
それは周囲に心配をかけている事に気付いていながらも止まる事の出来ない自分の愚かさを指摘されたも同然で。
絶対的な信頼、信用とは時に考えもの。
自分はそんなものを向けられるほど出来た人間ではない。
誰かの力を借りなければ、こうやって心配をかけてばかりなのだから。

しかし、それでも集中していいと言う。
周りが見えなくなるくらい、音すら聞こえなくなるくらい。
そうなったら自分が引き上げに行くから、と。

どこまで相手に甘えれば気が済むのか、思わず自傷気味の笑みが浮かぶ。
いや、それよりももっとどうしようもないのは、そんな風に気にかけてもらう事に喜びを感じてしまう事。
他の誰でもない、この相手だからこそ嬉しいと感じてしまう事。
強さだけではない。
こんなどうしようもない部分を知られても構わないと思える唯一。
それに出会えた自分は、酷く幸福だと思う。


再び聞こえてきたノックに一言返事をしながら、
分厚いそれを手から膝から離して、相手を迎え入れる為にゆっくりと立ち上がった。








END





 

2007.12.28 あえて台詞なし(?)に挑戦。 キリルが半日も姿現さなかったらアンダルクが大暴れしそうなので、これはきっとルクスの話だと思います。 NOVEL