「こころの玉手箱」 音楽家 加瀬邦彦 | ||||
かせ・くにひこ 1941年東京生まれ 慶大卒 66年ザ・ワイルドワンズ結成、「想い出の渚」でデビュー。71年の解散後は作曲家、沢田研二のプロデューサーとして「危険なふたり」「TOKIO」あどヒットを連発。81年ワイルドワンズ再結成。 |
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第4日 渡辺晋さんから譲られた旅行カバン スター育てた人の重み感じる | |||
「加瀬、これ欲しがってたよな。おまえにやるよ」。この年季の入った威厳のある旅行カバンは、渡辺プロダクションを創業した渡辺晋さんからいただいた。「社長、いいかばんですね。くださいよ」と冗談交じりにせがんでいたのは1970年代だったが、思いがけず譲られたのは80年代半ばごろ。それから間もなく病気で亡くなられた。 僕が作曲し、安井かずみさんが歌詞を付け、ナベプロの看板スターだったジュリーこと沢田研二君が歌う。僕らは相性のいいチームで、73年に作った1曲も3人の自信作だった。ところが晋さんを筆頭とする制作会議は、ジュリーの新曲のB面に決めてしまった。 僕ら3人は作戦会議を開いた。 「曲名がいまひとつだな」と僕。安井さんが 「危険なふたりってどう?」とぽつり。 「いいね!」 |
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「タイトルも変えました。ぜひA面にしてください」。翌日、僕はナベプロの社長室に単身乗り込んで直談判に及んだ。晋さんは「君もしつこいね」と言いながら認めてくれた。 「危険なふたり」は日本歌謡大賞を受賞し、晋さんが「ご褒美だ」と3人をスペインのマジョルカ島へ連れていってくれた。その時も僕は「いいかばんですね」を連発した。 「だめだめ、スペインの有名なメーカーのやつなんだぞ」 かばんを譲られたころ、晋さんに呼ばれて「この店の経営を立て直してくれ」と頼まれた。ナベプロが銀座でやっていた「メイツ」というライブハウスだ。 僕は85年に同じ場所で「ケネディハウス銀座」を始めた。晋さんは植木等さんらを連れて頻繁に訪れ、「いい店になった」と喜んでくれたが、病状が悪化して入院。 「最近は満員ですよ。早くよくなって来てください」。そう伝えたのが最後だった。 ケネディハウス銀座は加山雄三さんらが出演してくれて、今も盛況。晋さんに見せたかった。 僕はこのかばんを持って2度ほど海外を旅してみたが、あまりの重さに音を上げて、今は大切に保管している。時折取り出してこの重さを手に感じるたびに、数々のスターを育てた渡辺晋という人物の器の大きさを思い出すのである。 |
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09年10月30日新設
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