「こころの玉手箱」 音楽家 加瀬邦彦
かせ・くにひこ 1941年東京生まれ 慶大卒

66年ザ・ワイルドワンズ結成、「想い出の渚」でデビュー。71年の解散後は作曲家、沢田研二のプロデューサーとして「危険なふたり」「TOKIO」あどヒットを連発。81年ワイルドワンズ再結成。
現在は加山雄三と組んで全国公演中。

第3日 加山さんの妹から贈られたピンバッジ  ほろ苦い恋が幸運をくれた

 このピンバッジは高校時代のガールフレンドから贈られたものだ。別れ話をした高校3年のときに。
 AとCの文字を入れたのは、僕が「アッコ」と呼んでいたからだろう。彼女は自分の写真と一緒に、自分のイニシャルを入れたバッジを贈ってくれたのだ。
「お別れするけど、記念にとっておいて」
そんな意味だったと思う。この写真は茅ヶ崎の海岸で撮ったものだ。隣には僕が写っていたはずだが、彼女は切り取った片割れをくれた。
 高校一年の晩秋、我が家は神奈川県茅ヶ崎市に引っ越した。ある日、下りの東海道線で茅ヶ崎駅に帰る途中、藤沢駅から同じ車両にセーラー服の子が2人乗ってきた。
「かわいいな」。僕はその
うちの1人に人目ぼれしてしまった。

 2人とも茅ヶ崎で降りた。しかも僕と同じ方向へ自転車を走らせる。僕はのろのろと後ろを走ったが、先に家に着いてしまい、彼女がどこに住んでいるかは分からずじまい。同じことが4日続いた後、冬休みに入り会えなくなった。
 やがて慶応高校の先輩から「一緒にクリスマスパーティーに行ってくれ」と誘われた。
「映画
スターの上原謙さんの家なんだ」
 有名な大邸宅の呼び鈴を押すと、若い女性の声がして扉が開いた。
「あらぁ〜、あなた・・・。」
「ええっ、き、君は上原謙さんの娘だったのか」
 僕はアッコこと亮子さんと親しくなり、頻繁にお宅を訪れるようになった。上原さんが僕の自転車をぴかぴかに修理してくれるなど、いつも家族同然の扱いで歓待していただいた。
「兄貴の後輩よ、慶応高校一年の加瀬君」
「ああ、そう。よろしくな」
紹介されたお兄さんこそ
、まだ俳優になる気など全くなかった慶大2年のころの加山雄三さんである。
 僕が東京に引っ越して妹さんとは疎遠になり、別れることになったが、お兄さんとの縁は深かった。
ワイルドワンズの名付け親になってくれただけでなく、半世紀を経た今も、全国50カ所のコンサート
ツアーを一緒にやっている。
加山さんとの出会いがなければ今の僕はないが、その幸運を
くれたのがアッコなのだ。。

「オヤジ達の伝説」コンサートで、加瀬さんと亮子さんのツーショット写真が写され、加山さんとのやりとりの中でも「妹さんが目当てでした」と喋っておられましたが、私はショーの構成上、誇張されているのだと思ってました。まさか本当にお付き合いされていたとは!
若大将シリーズのDVDに付属されていた特典ビデオで、加瀬さんが茅ヶ崎を紹介するシーンがあるんですが、その中でも亮子さんとの出会いを話されてましたが、お付き合いしていたとは言っておられなかったですね。青春真っ只中の加瀬さんに出会えました。(でんでん)

09年10月30日新設
10年11月04日更新