「こころの玉手箱」 音楽家 加瀬邦彦
かせ・くにひこ 1941年東京生まれ 慶大卒

66年ザ・ワイルドワンズ結成、「想い出の渚」でデビュー。71年の解散後は作曲家、沢田研二のプロデューサーとして「危険なふたり」「TOKIO」あどヒットを連発。81年ワイルドワンズ再結成。
現在は加山雄三と組んで全国公演中。

第2日 ジュリーとの釣り  ぶらり息抜き 兄弟のように
「沢田、釣りに行くぞ」。神奈川県の葉山マリーナ付近まで、よく車で飛ばした。助手席に乗せたのはジュリーこと沢田研二君。貸しボート店で2人乗りの手こぎボートを借りて、キスなどを釣った。
 1960年代後半のグループサウンズ全盛期、タイガースの超人気者とワイルドワンズの僕が葉山でのんびりと釣り糸を垂れているなんて、当時のファンは想像もできなかっただろう。
 ジュリーと出会ったのは66年。ワイルドワンズのデビュー曲「想い出の渚」がヒットして、大阪のデパートでキャンペーンをやった日のことだった。僕らと同じ渡辺プロダクションと契約した京都のバンドがステージの見学にきた。
最も目立たないメンバーがジュリーだった。
最近、
「あのときは加瀬さんたちが東京弁をしゃべってるというだけで緊張してしゃべれなかった」と明かしてくれた。

 その後、東京・新宿のジャズ喫茶「アシベ」でタイガースを見て、衝撃を受けた。普段はおとなしい
ジュリーが、ステージに立つと豹変する。鳥肌が立った。あのオーラは天性のもの
だろう。
 僕はグループサウンズのブームは長続きしないと直感して、将来は作曲とプロデュースで身を立てようと考えていた。「プロデュースするならジュリーだ」。当時からそんな思いがあった。
やがてそれは現実になり、ソロ歌手になったジュリーが僕の作曲した「危険なふたり」や「TOKIO」などを歌うことになる。
 タイガースとワイルドワンズは同じ日に休暇をもらった。ジュリーはタイガースのメンバーより、僕と遊ぶことの方が多く、我が家を訪れてはおふくろの手料理に舌鼓を打った。うちに泊まり、翌朝は葉山まで釣りに繰り出すのである。
 彼は海に慣れていなくて、ボートでだんだん青ざめてくる。「空を見てろ、酔うぞ」。沖の名島に上がって、「沢田、おいしいから食べてみろ」と捕りたてのウニを差し出しても、
「えー
っ、気持ち悪いよ」。いつもそんな調子だった。
 弟のようなジュリーと過ごした葉山の海は、僕の「想い出の渚」だ。

09年10月30日新設
10年11月04日更新