「僕の青春 スポーツ・映画・音楽

 (PHPアーカイブス PHPスペシャル9月増刊号 350円)

僕の青春

スポーツ・映画・音楽

わが青春に悔いなし

編集部)”青春”というと、加山さんのイメージに実にピッタリなんですが、ご自身にとっての青春時代というと、いつ頃のことだと思われますか。

そうですねえ、具体的な時期となると、やはり学生時代がいわゆる青春であったろうと思いますね。それから若大将シリーズでもう一度青春をエンジョイしたというか、そういう感じですね。

編集部)なるほど。では学生時代のことからおききしたいと思いますが、その時代の思い出に残ることというと?

やはり何といってもスポーツに打ちこんだことが思い出としてありますね。特にスキーです。国体にも出ましたんでね。仲間とスキーのクラブを作って、十二月末から四月半ば頃まで、毎年合宿やったんですよ。試験の時に下山する以外はずーっと山の中です。志賀高原の石の湯ってところで、今はずいぶん開けてますけど、当時は旧式のロープウェイが一つあるきりでね、ほとんど人が来ないんで専用ゲレンデのようなものでした。枯れ枝を折って旗門代わりにして、毎日滑ったものです。

編集部)何人くらいのグループでしたか。

多い時で二十人ぐらい、少ない時でも十二人くらいは参加してましたね。面白いのは、中に必ず追試を受けなきゃならん奴がでてくるんです。その連中が山を降りるのをみんなで見送る光景というのは、何か青春の象徴みたいな気がしますね(笑)。

司会)合宿所は学校の施設ですか。

いえいえ、安い山小屋を見つけましてね、たしか一日一五〇円だったですか。

編集部)二十年前としても、そりゃ安い。

ええ。その代わり、暖房も何もないんです。自分達で枯れ枝集めてルンペンストーブで燃やして・・・。食料も全部自前です。合宿に入る前に皆で買い出しに行って、干魚だとかカンヅメだとかね。先に荷物で送っとくんです。でも四ヶ月も山にいるとどうしても食料が足らなくなって、川で魚とったりもしましたけど、野菜は足りないし、いつも栄養失調寸前までいってましたね。

編集部)ところで、冬はスキー、夏はやはり海というになりますか。

そうですね、夏場はほとんど海ですごしましたが、夏にも合宿やるんですよ。これはほとんど遊びみたいなものですが、それでも身体を鍛える意味で毎日三千メートルから四千メートルぐらい泳いでましたね。それから合宿の資金づくりのためのアルバイト。ウェスタン・バンドつくりましてね、ホテルのパーティなんかにかり出されてよくやりました。冬合宿が終わると夏合宿のためにアルバイトやって資金を稼ぎましたよ。これも楽しい思い出ですね。親からの援助なんか一銭ももらわずに、自分たちで稼いで、自分たちでいろんな方法を工夫して、すべて自分たちでやってきたということがすごく良かったんじゃないか、と思いますね。
 ほんとにカネじゃないですよ。学生時代の豊かさというのは金銭の問題じゃないという感じがしますね。

編集部)なるほど、そうでしょうね。それに仲間というか友達というものの良さ・・・。

これはもう非常に大きいです。ぼくらの頃は友達を大事にしましたね。卒業してからもそういうつながりをすごく大事にしています。今でも何かというと集まっちゃあ歌ったり馬鹿言ったりしてますがね、スポーツや遊びを通じてそういう仲間ができたというのは青春の大きな財産でしょうね。

編集部)平凡な言い方ですが、悔いのない青春を過ごされたと・・・。

まったくその通りですね。

青春の象徴=若大将

編集部)若大将シリーズのお話に入りたいんですが、あの主人公の若大将という役、まさに青春そのものという感じですね。

あのシリーズはぼくが映画界に入って二年目ぐらいから始まりましたんでね、まだ俳優なんていう自覚もあんまりない頃で、学生時代の延長みたいな感じでね、学生気分まる出しで、やってて楽しかったですよ。それに、多分にぼく自身の学生生活と似通った面もありましたんでね。ただ、現実はあんなにカッコよくないですよ(笑)。大会に出りゃ必ず勝つしね。女の子にはすごくもてるしね。特にぼくの学生時代は女性にもてなかったですからね。現実とは大ちがいですよ。まあそういう違いはありますし、あれは青春なり学生生活を象徴化して描いてありますけど、ぼくらの頃にはあそこで描かれているような楽しい面も実際ありましたね。だから、学生生活を、それもいい面だけをもう一回やったような感じですよ。

編集部)たしかにあの映画は、学生生活とは何て素晴らしいんだろう、自分もああいう青春をおくりたいなあという夢をずいぶん多くの人に与えたでしょうね。

ええ、そうでしょうね。実際によく手紙もらいますよ。あの映画を見て、大学にあこがれて入ったけど、実際はちがうじゃないか、ちっとも楽しくないとかね。そういう点では、ちょっと悪いことしたなあという気もしないではないですけど(笑)・・・。でも、そういう中でも、少しでも学生生活をエンジョイしようとして自分なりに知恵をしぼっている人はいっぱいいるはずですからね。

編集部)若大将シリーズのリバイバルの人気は大変なものですが、その秘密はどのへんにあると思われますか。

そうですね。やはり現実の学園生活があんなふうに楽しく、ほのぼほとした、正義感あふれたものではない、というところから、一種のあこがれをもって受けいれられてるんじゃないか、というふうにぼくは解釈してるんですがね。

編集部)封切当初とは、見る側の受けとり方もちがっているでしょうか。

それは多少なりとも違っているでしょう。十年もたって、社会情勢もかなり違ってきていますし、今の方がいろんな意味で厳しい状況になってますからね。当初は、こんな青春あるな、という共感みたいなものが中心だったと思うんですよ。今は、夢というか、やはり現実にはないものへのあこがれでしょうね。ただ、根底に流れるものは同じだと思うんですよ。あの映画は、正義感あふれる健康的な若者が主人公で、それをとりまく人々もあたたかい連帯感でつながっている、そこにスポーツがあり、恋があり、音楽があるわけで、これは青春というもの、といより人生というもののハピネスの象徴のようなものですから、年齢を越えてエンジョイできる要素があるということだと思いますね。

編集部)なるほど。ところで若大将シリーズでの印象が強烈なもので、若大将は今でも加山さんの代名詞みたいになっていますね。

ハッハッハッ・・・。まあ、この歳になってそう言われるのは、ありがたいような、中身が足りないようでなんか情けないような・・・(笑)。しかし、代表的なシリーズをもてたこと、その役柄がいわばニックネームとなったということは、俳優として幸せなことだと思いますね。まあ、あのシリーズは最初三本の予定が結局十七本になり、足かけ十年も若大将やってたんですからねえ。あんまりストーリーが同じなんで、後半はちょっとダレた感はありますが、やはりぼくの青春の大切な一ページだというふうに思いますね。それに心の底では、若大将の雰囲気を維持しようという気持ち、いい意味での若さ、正義感みたいなものは持ち続けていきたいという願望はありますよ。

俳優になってよかった

編集部)話は変わりますが、小さい頃から俳優になろうと思っておられましたか。

とんでもない。全然思わなかったですよ。親父(俳優・上原謙氏)の映画なんかもほとんど見てませんし、たまに見ても恥ずかしくてしようがなかったですよ。何だこんあくだらネェことやって、こんないやな仕事はないんじゃないかと。つっぱりもあったんでしょうね。それに人前で何かやるなんてのは性格的にもあわないと思ってましたしね。

編集部)ほう。それでは、学生時代はどういう方向に進もうと思っておられたんですか。

ぼくはサラリーマンになるつもりでしたよ。もっとも、小さい頃からの夢としては、造船技師か船乗りになりたかったですね。高校もそっちの専門学校に行きたかったんですが、たまたま慶應受けたら受かったんで、そうするともったいないから大学も、っていうことになったんですがね。大学出てから商船大学に入り直そうかとも思ったんですが、人より四年も遅れるのがちょっといやでね。やはりサラリーマンになろうと・・・。

編集部)というと俳優になったのは?

それがね、一流会社のサラリーマンになるにはちょっと成績がね。先生もとても推薦できないと。仲間がどんどん決まっていく中で、どうしようかと思っていたんですが、いろんなこと言ってくれる奴がいましてね。”お前、サラリーマンてガラじゃねえよ。学生時代にやったことを生かさねえテはないよ。お前、スポーツも音楽もできるんだから、それを生かせばいいじゃねえか”って言うんで、そりゃなんだ、って聞くと、俳優だよ、っていうんですね。しかし俳優はいやですからね。ところが、別の奴がお前"、船乗りになりたいっていうけど、そんなら金もうけて自分で船持ちゃいいじゃねえか”。これがききましたね。なるほど、そういう手があるか、と。そrてで決めちゃったですよ。あとは親父の”ノレン”を利用して何とか入れてもらったという具合ですね。

編集部)映画界に入られて、これはいける、と思われましたか。

いえいえ、そんなことないです。まあ、若大将は楽しかったけど、芸能界ってのは何かきたならしい感じでね。ばかばかしくてやってられねえや、いつでもやめてやる、って感じだったです。
 それが変わったのは、黒澤(明)監督を知ってからですね。黒澤さんの「赤ひげ」出させてもらったんですが、その当時のぼくの状態とその役がまったくピッタリでね。町の汚い養生所に修行に出された青年が、はやく逃げ出したいと思っているうちに、赤ひげという、得たいの知れないような人間のすばらしい人間性、魅力にひきこまれて、とうとうそこに残る決心をするんですがね。まったく黒澤さんはぼくにとっての赤ひげだと思いますよ。この人こそほんとに世界に通用するリアリティをもった映画人だなと感じて、この人の生き方をどんな形でもいいから、精神だけはまねしていこうとね。それで居つくことに決めたわけですよ。

編集部)それはいつ頃のことですか。

昭和39年だったですかね。映画界に入って四年から五年目ぐらいの時ですよ。

編集部)今では映画界に入ってよかったと・・・。

ええ、今はそう思ってます。どんな仕事でも同じだと思うんですよ。やっぱりそれなりに悩みもあり苦しいこともある。だけど、それで一応ちゃんと生活を立てていけるようになったという喜びね、これは同じじゃないですか。
 だから、その中でスペシャリストとしてちゃんと生きて行くべきじゃないかと、今はそういうふうに考えていますね。

音楽は一生の友

編集部)音楽の話に入りたいんですが、これまでにおつくりになった曲はどのくらいありますか。

え〜と、二百五十何曲ですね。レコーディングされたのは、そのうち百六、七十曲かな。七、八十曲はストックがあります。

編集部)頼まれてお作りになることも?

いや、それはないです、まったく。自分がつくりたい時に、つくりたい曲をどんどん書いちゃうんです。最近アグネス・ラムが歌っているのも、頼まれて作ったんじゃなくて、頼まれた時にそういえばふさわしいのがあったなあと思い出して、九年ぐらい前のやつからひっぱり出してきたんですよ。映画の音楽も映画にあわせて作るんじゃなくて、あるものの中からちょうどいいやつを選ぶんです。

編集部)ほう、そうですか。若大将シリーズの中の歌なんか、まさに映画にピッタリでしたね。ところで加山さんの歌を聞いていると、まさに青春のイメージにピタッとくるものが多いように思いますが、やはりそういうことを意識してお作りになるわけですか。

う〜ん、そうですね、ぼくがつくる曲は青春というものを美化してるんですね。だからたとえば、月だとか星だとか、浜辺とか太陽とか、万人が感ずるロマンの対象を青春の象徴として歌にしているわけです。しかし実際の青春というのは、苦しみも多いし、悩みもあるわけでしょう。そういうものをとりあげる青春の歌もあるわけで、最近のフォークの歌なんかそうですよね。ぐっと身近なものをテーマにして歌ってる・・・。

編集部)風呂屋の帰りに待ち合わせて、とか・・・。

そうそう。それも確かに青春の一面だと思うんですよね。ただぼくの場合は、さっき言ったように万人のロマンの対象になるもの、感動というか、そういうものを青春の象徴として歌っているわけです。これは永遠のものだと思うしね。どんな時でもそういうものにふれたらふっと心を洗われる思いがする、そういう歌を作りたいと思いますね。

編集部)音楽の仕事というものは、ご自分の中で映画の仕事とどのような関係というか、位置においておられますか。

それはね、ぼくはやはり最初から映画俳優だし、それが本職だということです。音楽の仕事というのは、途中からはからずもぼくの音楽性みたいなものを生かすことができて、ありがたいことにヒットした曲もあって、いつのまにか仕事の一部に食いこんできたわけですが、しかしホンネとしては、音楽についてはアマチュアでいたいというのがぼくの気持ちなんですよ。

編集部)しかし、これだけヒット曲もあり、レコードも売れ、リサイタルも大盛況となると、アマチュアとはいっていられないのでは・・・。

そうなんですよ、実際ゼニ儲けさせてもらってますしね、プロに徹すべきだとよく言われるんです。その通りですね。でもね、亡くなった小島正雄さんに、学生時代にアルバイトのバンドをやってた時に言われたことがあるんです。”君、音楽というのは、そうやって趣味程度で楽しみながらやってるのが最高だ。それでメシを食わなきゃならないとなったら、とても苦しくて、だんだん情熱もうすらいでくるもんだよ”ってね。これがすごく頭に残ってるんです。だから、プロにはちがいないんだけど、心の底ではアマチュアの気持ちも持ちつづけたい、必要に迫られての苦しみは味わいたくない、音楽は一生のよき友でありたい、と思っているわけです。まあ、ぜいたくな話ですけれどもね。

どこまでガマンできるか

編集部)テーマに戻りますが、加山さんは”青春”とはどういうものだと思っておられますか。

ぼくは青春ということば、好きですね。青春とは残酷なものだ、というようなことを誰かが言ってますが、確かにそういう点もあると思う。でも、あとからふり返ってみて何かほのぼのと、ああ、よかったなあ、と思い出せる、そういうものが青春というものだろうと。

編集部)では、実際に青春のまっただ中にいる若い人達に、どういうふうにすごしてほしいとお考えですか。

ぼくはこういうふうに考えているんですよ。人間はあるものに対して抵抗を持てなければいけない。そのレジスタンスの精神というものがやがて情熱になり、生命力になっていくという、そういう考え方なんですね。だから、物事に疑問や不満を持つのは大変にいいことだと思うんです。ただ、それを解決していく努力は自分自身でやらなければいけない。それがやがてその人の質量というか生命力を高めていくことになると思うんですよ。だから、青春というのは、物事に対して大いに疑問を持ち、抵抗していくべきだと思うんです。

編集部)青春において大切なのは、レジスタンスの精神である、ということですね。

そうですね。そして解決していくために大いに悩めばいいと思う。その悩むことが即ち青春だといってもいいと思うんですよ。だから、僕は、青春というのは十年毎にあるんだと思うんです。十代には十代の青春があり、二十代には二十代の青春、五十代、六十代になってもそれぞれの青春があってよし、だと思うんですね。それは、あとで思うと、ああ情熱があったなあと、懐かしく思える、そういうものが青春じゃないかなあと、それがぼくなりの解釈なんですけどね。

編集部)なるほど。しかし現実にはそういう情熱というものが持ちにくい世の中になってきているということはありませんか。

そうです。結果が分かりすぎて疑問すらも持ち得ない、なげやりにならざるを得ないような状況というものがあまりに多く視野に飛びこんでくると思います。でも、それでなげやりになるというのは、ガマンが足りないとぼくは思いますね。何事によらず疑問を持ち、それを解決するための情熱を持ち、ガマンして努力していくということがないとね。
 世の中に出て働くということ、生きていくということは、それは肉体を使い、精神力を使う大変な作業であるわけだから、一〇〇メートル走れるか走れないか、トレーニングした人間とそうでない人間とは明らかに違うという、そういうことと共通する面がある。だから若い時にそういうものを養っておいた方がより良い人生を歩んでいけるということだと思うんですよね。
 荷物が重たいのではない、自分の力が足りないのだ、ということでね。どこまで自分がガマンできるかかけてみる。そりゃ限界はありますよ。ありますが、早くあきらめた人間と、限界ギリギリまで努力した人間と大きな差がでてくるということじゃないですかね。そういう生き方の美しさというか、人間の基本的な生き方の大切さみたいなものを知るべきじゃないか、そういうところに本当の青春のすばらしさがあるんじゃないか、僕はそんなふうに思いますね。

2012年07月22日新設