「父・上原謙の最期と理想の死に方」

 (文芸春秋 7月号)

雑誌「文芸春秋 7月号」に掲載された加山さんの対談記事です。

大型特集
尊厳ある死
父・上原謙の

 最期と理想の死に方

七十五歳になった「若大将」が考える”理想の最期”とは
加山雄三(俳優)X 

     吉永 肇(東北大学名誉教授)

「永遠の若大将」こと加山雄三氏も、今年で七十五歳を迎えた。再婚相手と別れた父・上原謙を自宅に引き取り、八十二歳で亡くなるまでの一年半を共に過ごしてから、ほぼ二十年が経つ。かつての父の年齢に近づきつつある加山氏は今、何を思い、超長寿社会とどう向き合っていくのか。

 元東北大学医学部長で、現在は「仙台敬老奉仕会」理事長を努める吉永肇医師が、看取りと介護のスペシャリストの立場から、加山氏の体験に耳を傾け、現代における「理想の最期」を提言する。

吉永)今日は、「若大将」にお目にかかれるのを楽しみにしてまいりました。

いや、先生、あれはニックネームですから(笑)。この年になると「若」をとって、ただの「大将」くらいがちょうどいいいんですが、ニックネームとしては有難いなと思ってます。

吉永)早速ですが、今日はまず、ご自宅でお父様を介護されたときのお話を聞かせてほしいと思ってるんです。

実は、ウチは介護らしい介護は何もしていないんです。親父は離れで寝起きして、食事の時間になると自分で母屋まで食べにきてましたから、僕や女房の手を煩わせることは、まったくなかったんです。ただああいう形で、むこうの家を追い出されたから、テレビのワイドショーは連日、大騒ぎでした。親父は、ひたすらテレビをじっと見つめて、ときどきため息を漏らしては、私に対して「すまんなあ」と繰り返していました。

吉永)そうでしたか。

今でも覚えているのが、亡くなる前日のこと。その日は親父の誕生パーティをやって、親父は寿司を三人前も食べるほど元気でした。パーティが終わって、離れまで、女房と見送ったんですね。親父が中に入って、電気が消えたから、帰ろうとしたら、突然またパッと電気が点いた。何だろうと思ったら、ドアが開いて、親父が顔を出して、声は聞こえなかったんですが、口の形で「アリガトウ」と言ってるのがわかった。
 それが僕らの見た最後の姿で、翌日、風呂場で倒れているところを発見されたんです。

吉永)じゃあ、加山さんにとっては、突然の死だったわけですね。

はい。その日は、お客様を招待してクルーズする予定だったんで、女房と二人で江ノ島からヨットを出して、七里ガ浜を走っているときに、お手伝いさんから連絡があって、「旦那さまがお亡くなりになりました」「なくなったって何よ」「死んじゃったんですよ」って。自分の顔からサーッと血の気がひいていくのがわかりました。慌てて港に戻って、病院に駆けつけたら、「もうお寺さんに行きました」と言われて、「すげえ早いなあ」と呆然としましてね。

 今でこそ、「最後は自分で”湯灌”までした、あっという間に旅立って、”子孝行”な親父でした」と言えますが、当時はすごく戸惑いました。これが、日ごろから病んでいれば、もちろん介護は大変なんでしょうけど、いろいろと心構えとか準備もできたのになぁ、と。

吉永)そうなんです。世間では一般に「ピンピンコロリ」がいいとされているんですが、元気な方が急に亡くなるというのは、残されたご家族にとっては、ショックが大きくて、立ち直れない人も結構いる。加山さんのお父様の場合は、八十二歳ですから、天寿を全うしたといえるかもしれませんが、やっぱりショックには違いない。

風呂を怖がってた

それでも親父と最後に過ごした一年半で、改めて親子の絆をしっかりと結び直す交流ができました。例えば親父はまったく酒を飲めない人間だったんです。僕は毎晩、夕食のときはビールを飲むんですが、あるとき、親父が「うまそうだな」と言うんです。僕が「こんなうまいものが飲めないなんて、可愛そうだな。飲んでみる?」と訊いたら、「飲んでみる」というので、僕は親父のコップにビールを注いで、初めて親子で乾杯したんです。
 そしたら、よしゃいいのに、「一気飲み」しちゃったんですよ。昔のトリスのCMみたいにバーっと顔が赤くなって、「親父、大丈夫か」と訊いたら「大丈夫じゃないなあ」(笑)。

吉永)ハハハ。

それで尾張かと思ったら、もう一杯くれと。こっちも嬉しくなって、日本酒に切り替えたら、日本酒も同じくらい飲んじゃって、二人でベロンベロンになってね。で、「親父、ひとつ訊いていいか」「何でも訊いてくれ」「親父は俺のオフクロを本当に愛してたのか」「当たり前じゃないか。世界一愛してたよ」「世界一って、世界二もあるのか」なんてね(笑)。肩をたたきあって飲んで、しまいには親父が「そうだろう、お父さんだって寂しいんだ」ってボロボロ泣き出したから、僕も涙出てきちゃってね。

吉永)そうでしたか。ところで、お父様はお風呂で亡くなられた?

はい。心不全でした。で、どういうわけか、亡くなる一年ほど前から、風呂を怖がっていましてね。ウチには循環式の温泉みたいに広いお風呂があるんですが、そっちには「怖い」といって入ろうとせず、離れにあるユニットバスに一人で入ってた。結局、その風呂で亡くなったんです。

吉永)もしかして、お風呂を怖がるようになったのは、お酒を飲むようになってからではありませんか?

そうです。

吉永)お風呂で亡くなられる方というのは、実は結構いらっしゃるんです。お父様が怖がっていたというのは、入浴中や入浴後に、あるいはちょっと胸が苦しくなるようなことがあったのかもしれませんね。

今思えば、そうだったかもしれません。

 私の個人的な体験としては、ここまでなんですが、一方で、これから日本が超高齢化社会を迎えるにあたって、日本人の意識改革が必要だと思うんです。誰かが何かをしてくれるのを期待するのではなく、自分たちの問題として自ら取り組むことが重要になる。誰もが年をとるということは、わかっているわけですから、いざ自分がそこに直面してから、国が悪い、政府が悪いと言っても、しょうがないだろうと。

吉永)まったくその通りなんです。現在は介護保険制度というもので、いわゆる長寿社会を支えているわけですが、これが財政的にも早晩行き詰まることは目に見えている。それで消費増税だという話が出ているんですが、現実は少々の増税では追いつかないところまで来てしまっています。

そうですね。

吉永)例えば、今、日本で要介護者は五百万人を越えています。そのうち要介護度四〜五のいわゆる「全介護」の方は、実に百二十万人に達します。それに対して、特別養護老人ホームは全国で約四十万床にすぎず、入所待ちが百人、二百人という施設はザラです。さらにその特養で働く職員は低賃金・過重労働で、離職者が後を絶たない。今後、団塊の世代が、要介護者に加わってくると、どういう状況になるかは火を見るよりも明らかです。

なぜこうなったのかというと、僕は日本ほど「過保護」に育てられた国民はないと思う。例えばドイツではドナウ河の岸には、防護柵も何もありませんが、日本はというと、どんな小さな池にも柵と「入るな危険」という看板がある。そうしておかないと事故があったときに、注意書きをしない行政が悪いと批判されるのを避けるためでしょう。結果、日本人は、自分の責任で行動する意識が希薄になってしまったんじゃないでしょうか。

吉永)「介護難民」という言葉が示す現実がある以上、国だけに頼っていられないというのはその通りです。それで私達は、民間の立場で「仙台敬老奉仕会」という組織を立ち上げ、病院や特養などボランティアを必要としている施設と、ボランティアとして働きたいという希望者の”橋渡し”をしてきたんです。

それは、素晴らしいですね。

吉永)ただ、加山さんの言うとおり、介護施設が意識を変えるのは、簡単ではありません。ボランティアを内部に入れることに抵抗を持っています。そのため我々の活動も遅々として進まないのです。

 先日、アメリカのボランティアを視察にいってきたんですが、やっぱりボランティアがしっかりと社会に根付いてるんですね。高齢化はいずれ自分たちの問題なのだから、ボランティアをしてこれを支えるのは当たり前という意識です。

 システムとしてはコーディネーターなどと呼ばれる”世話役”が、ボランティア希望者を面接し、研修を施して、介護ボランティアを始めています。週に一回二〜三時間だけ奉仕するのが一般的ですから、勤めている人でもできる。企業側も、ボランティア活動を積極的に認めて、ボランティア休暇を認めているところも少なくない。

ボランティアの「効用」

アメリカは、NPOの本場でもありますよね。

吉永)そうです。激烈な競争社会であるアメリカが何とか平和と安定を保っているのは、営利を求めずに社会の弱者に目をむけるNPOがあるからと言われています。その活動を支えているのが、年間約二十五兆円ともいわれるアメリカの寄付文化です。

 これに対して日本の寄付総額は、一兆円程度です。かわりにアメリカの寄付総額をも凌駕するのがパチンコなど娯楽産業で、その市場規模は、約三十兆円ともいわれています。

なるほど。例えば日本でも、ボランティアに積極的な企業や組織には、国から何らかの援助というか「エコポイント」的な政策をしていくのも手かもしれませんね。

吉永)そうですね。ただ、我々は国には期待しないんですよ(笑)。欧米では、寄付も含めて、民間の動きが活発で、ボランティアの原動力になってるんです。もちろん、国と民間とが車の両輪のように噛み合って進んでいくのが理想ですが、借金大国の日本に大きな期待は持てないのです。

確かにその通りですね。

 僕が素晴らしいなと思ったのは、この間、ゴールデンウィークで若者を中心にたくさんの人たちが東北のボランティアに行きましたよね。やっぱり震災以降、日本人の意識も少しずつ変わってきているのかもしれません。

吉永)それは私も感じます。ボランティアをやりたいという人は結構いるんです。でも、どこに行って、何をすればいいのかわからない。施設は施設でボランティアを募集しているんですけども、いざ行ってみると、庭の草取りしてくれ、オムツを洗濯してくれ、など雑用じみたことしか頼まれない。介護という性質上、ある程度の知識や技術が必要なのは確かですが、そのための研修をきちんと受ければ、素人でも「介護力」になるはずなのに、これは勿体ない。

お話をうかがっていると、これだけインターネットなどの情報網が発達した社会で、そういう情報のギャップがあるのは、本当に勿体ない。先生のやっておられるような組織がいくつか核となって、横の連携でもって、情報を共有したり、ボランティアの募集者と希望者がマッチングできるようなシステムがあるといいですよね。

吉永)今も希望条件に見合ったボランティアを検索できるサイトはあるんですが、今後は福祉や介護に特化したものも求められてくると思います。

現代社会では、メディアでとりあげられたことが、社会で起こっていることのすべてと感じてしまいがちなんですが、実際には目に見えないところに、大きな問題があって、その現場で頑張っている人たちがいる。超高齢化社会の問題というのは、まさにその典型ですよね。

吉永)問題があまりに大きすぎて、かえって深刻に捉えられていないところがあるんですが、我々としては、「前線基地」として、まず自分たちがやってみて、周りの人が、「ああやればいいのか」という風に拡がっていけばいいな、と思っているんですよ。

マザー・テレサさんが来日したとき「日本人は(経済的に貧しい)インドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」と仰いましたよね。僕はこの言葉を一生忘れないと思います。要は、自分たちのことを疎かにして、他人の世話ばかり焼きたがるのは、本末転倒ということでしょう。

吉永)ボランティアも、最初は社会のため、人のために始まるわけですが、始めてみると実は自分のためだったということに気づくのです。ボランティア活動を通じて、充実したものを見出していくんです。

人間の三大欲として、食欲・性欲・睡眠欲があって、このいずれも脳内麻薬とも言われるβエンドルフィンが分泌されるそうですね。この物質が快感を感じさせるわけですが、実はボランティアのような奉仕活動をしたときも、同じ物質が分泌されるんです。しかも三大欲の場合は、満たされると、過剰な快感を抑える”ストッパー”として酵素が分泌されるんですが、”奉仕欲”の場合は、それが出ない。つまり人のために尽くす喜びには、際限がない。これは人類に神が与えた最高のプレゼントだと思います。

吉永)その通りです。定年退職して暇を持て余してパチンコをしているというのは、健全じゃない。その力をボランティアに向けてくれれば、社会の役にたつだけじゃなくて、自分自身が喜びと生きがいを得られるんです。

やはり、コミュニケーションが希薄になっているんだろうなあ、と感じるんです。ボランティアの喜びというのも、突き詰めれば、人とコミュニケートすることで社会に関わっているという実感だと思うんですよね。

 人が喜ぶことをするというのは、人間として最高のこと。これは僕のモットーでもあって、歌も絵も映画もすべて、観た人が幸せな気持ちになってもらえるようにと思って、ずっとやってきたんです。

吉永)それが加山さんが生涯現役でいられる秘訣なんでしょうね。

なぜ「死」を学ぶのか

この国では、何かというと年齢が問題になるんですね。ニュースでも人名のあとに必ず年齢が出る。その影響からか、もう○○歳だから、こういうことはちょっと・・・という後ろ向きな発想になるんだけど、本当は年齢は関係ないんですよね。

吉永)そうです。年齢を気にする一方で、誰にも必ずやってくる死の問題からは、みんな目を逸らすんです。年をとってから、ようやく「そろそろお迎えが」と考えるくらいで、中年以下はほとんど考えない。

僕もこの頃になって、ようやく死が怖くなってきました。残りの人生を逆算するようになる。八十歳だとすると、あと何年かと。

吉永)いやいや、見る限り、八十じゃ足りないよ(笑)。

足りないから、九十にしました(笑)。親父は八十二だったけど、もう少し頑張らしてもらいたいなと。一方で、どうやって死を迎えるかという気持ちも強くなってはきています。

吉永)それは非常に大事なことだと思います。日本における死生学とホスピス運動の先駆者となったドイツのアルフォンス・デーケン先生は一九五九年に来日したとき、日本人が死をタブー視し、死について考えようとしないのを見て、問題だと感じます。同じ敗戦国なのに、この違いは何だと考えたら、日本では死の教育がないことに気づく。ドイツでは、小学生にも「人は死ぬと腐敗して灰になる」というところから始まって、徹底的にリアルに死について教育するそうです。

それは絶対に必要ですね。

吉永)なぜ死を学ぶのか。ガンになったとき慌てないためだけではありません。生を理解し、生を全うするためです。生と死は裏表だから、死を学ばなければ、本当の意味で生は理解できないんですね。死をタブー視することは、生を軽視することに繋がる。

 死とはどういうものなのかを学べば、巷間言われている「理想の最期」に対する受け止め方も変わってきます。先程も述べましたが、理想とされる「ピンピンコロリ」は、その実態は心筋梗塞か脳卒中か交通事故が大部分です。実はまだ健康で生きられるはずの人が死んでしまう一種のアクシデントだから、全然よくない。別れを告げる時間もありません。その意味では、最期に至るまでの時間的プロセスが、余命数ヵ月とか一年という単位で、わりとはっきりしている「ガン死」がいいという人がいるのも頷けます。

今は、ガンの痛みもだいぶコントロールできるそうですね。

吉永)実際に本当に痛くて苦しいという方は、三分の一ぐらいでしょうか。あとの方は、ちょっとした鎮痛剤くらいで、普通に過ごせます。

 一方で、一番、嫌われるのが「長患い」ですね。家族に下の世話までしてもらうくらいなら、死んだ方がいいというわけですが、その願望とは裏腹に、実際には「長患い」になる人が多いんです。

そうなんですか。

吉永)平均寿命とは別に健康寿命というものがあります。健康寿命とは、介護を必要としないで自立して生活できる生存期間のことですが、男性の場合、平均寿命は約七十九歳ですが、健康寿命は約七十七歳です。つまり二年間は「不健康寿命」つまり、誰かのお世話になっているわけです。女性の場合は、これが4年間もある。

 ただ問題は「長患い」の患者さんが、本当に苦しんでいるかという点なんです。私はそういう患者さんをたくさん診ていますが、実際には痛みも痒みもなく、家族に迷惑をかけて惨めだという感覚も消えています。その段階になると寝たきりの患者さんでも百歳まで生きたいと願っているものです。そういう状態を経て、だんだん枯れてきて、自然に死を迎える。私は、実はこれが「理想の最期」なのではないかなと思っているんです。

私の曾祖母は、百二歳まで生きて、最期は縁側で昼寝してて、そのまま逝ったんです。祖母も八十九歳でしたが、「おやすみなさい」と寝て、翌朝亡くなっていた。こういうのは、いいなあと思います。

吉永)そういう死の様相を学べば、死というものは、それほど怖いものではないとわかってくるわけです。

加山氏の「臨死体験」

実は先生 、僕は一度、死んだことがあるんです。

吉永)ほう。

十九歳のときに、抗生物質の注射で、拒絶反応が起きてショック状態になって、三分間心臓が止まったんです。あのときの恐怖は、半端じゃないです。自分の細胞がひとつずつ死に至っていく実感がある。頭の中がだんだん暗くなっていって、「しっかりしろ」って声が遠くなって、意識がなくなる。三分後に蘇生する直前に、光がワーッと入ってきて、お花畑にいるんですね。それから「心臓が動いた!」という声が聞こえて、身体がポワーンと温かくなって、蘇生しました。あの恐怖を味わってからは、どんなに苦しくたって自殺なんてとんでもないと思うようになりました。死はそんな甘っちょろいもんじゃないぞ、と。

吉永)それは、ちょっと例外的なケースですね。事故や心筋梗塞などで重態に陥ったケースなどで、一般的に報告されているのは、臨死体験中は、少しも苦しくなく、むしろ満ち足りた穏やかな気持ちになるようです。

僕の場合は、まずものすごい恐怖感があって、それが消えたのは一定の時間が経ってからで、恐らく脳内モルヒネが分泌されたんでしょう。確かに、目覚める直前は凄く気持ちよかったです。お花畑だと思ったのは、恐らく酸欠による窒素酔いでしょう。

吉永)もちろん、幻覚なんですが、重要なのは、加山さんがその体験によって、ご自身の死生観に影響を受けたという事実なんです。

確かにあれ以来、何が何でも生きてやると思うようになりました。

吉永)臨死体験者は、その後の人生において自己を肯定的に評価し、他者の気持ちを尊重するようになり、中には慈善家になる方も多いようです。

先生は、いわゆる「輪廻転生」を信じますか?

吉永)信じません。ただ輪廻転生とは別に、死んだらまったくゼロになるのかといえば、必ずしもそうは思いません。宇宙の生命に戻る、という考えに傾いています。

僕は、生命とかモノの成り立ちが不思議でならないんです。いわゆる霊魂というか、人間の意識というものは、宇宙にあったんじゃないか。もしかしたら、人間のDNAというものを通して、意識というものが残っていくということなのかもしれない。

吉永)私は良くこう話すんです。自分の心臓が止まれば”終わり”ですけれど、心臓は自分が動かしてるわけじゃない。自分じゃない誰かが動かしているんです、と。

 この自分ではない誰かを、筑波大学名誉教授の村上和雄博士は「サムシング・グレート」と呼んでいます。サムシング・グレートに対する畏敬の念というのは、誰もが持っていたほうがいい。それが理想の最期を迎えるための死生観に繋がると思います。

やっぱりサムシング・グレートがあって、みなそれぞれの使命があるわけですよ。だから、これから、超長寿社会に入っていく団塊の世代の人たちは「やることがない」なんてぼやいてちゃいけない。自身の第六感を信じて、自分のやりたいことをまた見つけたらいい。退職しても、生きた人間という肉体の船に乗った魂は”生涯現役”。自分がその肉体船の船長なんだから、棺桶に入るまでは責任もって舵取りしてほしいと思います。

吉永)素晴らしい。加山さん、ぜひそれを歌にしてください(笑)。

2012年07月05日新設