若大将50年─。

 ツッコみたい気持ちはよくわかる。50年やってて“若大将”ってことはないじゃん、と

かね。でもそれは完全に間違いだ。

加山雄三は73歳であるけれど、一点の曇りもなく若大将である。

 たとえば、50周年記念アルバムの話。先行して、新曲「座・ロンリーハーツ親父バンド」

を作ったのだが…。

「だいたい朝さ、寝ぼけまなこで頭の中でメロディーを作ってるんだよ。で、”すげえこの

メロディー、面白え〜”っていうのが出てきたら、半分寝ながらなんだけど、その辺に置い

てあるギターを抱えて弾いてみる。“今のメロディー…今のメロディー”なんて言いながら、

マイクつけたiPodに録音しちゃうんだ。しばらくして聴き直して“こりゃやっぱいいな!”

と思ったのは、そのまま伸ばしてちゃんと曲にしちゃう。そういう作り方が最近多いね」

 歌うように語って、愉快そうにゲラゲラ笑う。ジジイっぽさなんて微塵もない、しゃべり

方にもやってることにも。あ、それから歌声にも。

「今風のラップでもいいけど、オレがやるとお経になっちゃうでしょ(笑)。どの国のどの

年代の人が聴いても、オーソドックスに感じられるのは…って考えてカントリー&ウェスタ

ンにしたんだ。人生にはいろんなことがあるさ。いいことも悪いことも。

そういう全部を音楽の中に詰め込んで、みんなギターを持ってやろうぜっていう気持ち。

そうするとつらいことがあっても明るくなれるぜっていう応援歌なんだ」

 これは新曲の話。であると同時に、加山雄三の人生そのものの話でもある。非常にシン

プルな言葉だが真理である。

趣味は趣味、仕事は仕事。そこに光明が見えたとき

 8歳で親戚のおねえさんの弾くピアノに心打たれ、初めて曲を作ったのは14歳。72歳

で作った「ハーモニー」まで、作品は508曲におよぶ。

ちなみに最初の曲は「夜空の星」と題されて、28歳のとき「君といつまでも」とのカップリ

ングでリリースされている。

 日本初の多重録音を、単なる個人の工夫で実現したり、大学時代にはカントリーバンドで

活動したり。ロック黎明期にいち早くチェックしていたエルヴィス・プレスリーも、コピー

するのはB面限定(『だって、ロカビリーの連中がみんなやってんだぜ! そうなるとバカ

バカしくって』という理由)…音楽への姿勢は、ずっと情熱的でマニアックだった。

 でも「音楽は趣味」と言い切る。

「そういう気持ちで行った方がいいんだよ。責任を感じて“やらなきゃ”になってしまうと

、追い詰められちゃうからさ(笑)。音楽はホントに好き。この“好き”を学生時代のまん

ま持続できたらどんなに幸せだろう、と」

 だから、頼まれても曲は作らない。作りたいタイミングと合えば作る。

「海が時化と凪を繰り返すのと同じだよね。風が吹くときヨットはよく走るし、ないときに

は碇を下ろしてのんびり止まってる。今回は、うまい具合にピタッと波が合ったよね。合っ

てなけりゃ、50周年でもたぶんやんない(笑)」

 初めての船を造ったのも14歳のとき。茅ヶ崎に暮らし、その後もボートを造り続けた。

18歳のときには、5カ月かけてモーターボートも自作した。上原 謙という世紀の二枚目ス

ターの家に生まれたが「普通に育てよ」という方針。公立中学から受験で高校は慶應に入り、

仲間のサイフの厚みに腰を抜かした。大学の最終学年まで船関係の仕事を意識し続けるが、

結局、商社と酒造メーカーの資料を取り寄せる。普通の就職先である…。

「でもバンドリーダーのミネギシに言われたんだよ。『サラリーマンって柄じゃねえよ』っ

て。『オマエには資産はねえけど暖簾があるじゃねえか。それで一稼ぎして、船は造れば』

ってさ」

 大学を卒業した年に俳優デビュー。翌年には映画『若大将』シリーズがスタート。だが俳

優は、いずれ船を買うための金儲けの手段にすぎなかった。

「不純な動機だよね(笑)。黒澤 明監督に出会うまでは、ホントにどうやってやめようかと

ばかり考えてた」

 25歳で『椿三十郎』に、28歳で『赤ひげ』『姿三四郎』に出演した。

「現実と映画のリアリズムとの違い。カメラの距離、位置、レンズの動き、天候、声の大き

さ、トーン…全部ひっくるめて観客に心理を一体化させる、それが映画のリアリズムなんだ

…って言われたんだよ。映画の中にいながら、全部をグローバルに見る視点を持ちつつ、客

観性を失わずに一点を見つめることのできる心。こういう人がいるなら、映画って最高だな

って思った。こういう本当に力のある人がいると、“よしこの人についていこう”って思う

よね。会社でも同じだと思うけど。ドーンと来る出会いがあれば、それはひとつ“種を植え

られた”ってことだよ」

 このとき俳優は、単なる金儲けの手段ではなくなった。

「どんな人がどんな人に会ったって、“聞く耳”と“受け止める心”がなければ、通り過ぎ

るだけ。自分がその人を認めて変われるかどうかは、心のあり方ひとつ。自分がそれまでの

自分のままで“これでいいんだ”って思ってるかぎりは、その道しかないよね。仮に少しで

も“オレはこうしたい”って気持ちがあるなら、本気でそのビジョンを描くのさ。そこから

姿勢はおのずと変わってくるよね。そのためには、つらい思いをしなくちゃダメだと思うよ。

自分で背負って立つ悲劇があった方がイイね〜、絶対に」

いろいろあったからこそポジティブでいられる

「悲劇」という口調がカジュアルだ。いいことも悪いこともあった。すべて快活に少しだけ

楽しげに語られる。

 受け止めねばならない、つらいことがいっぱいあった。

 19歳のときに、“死んだ”。本当に。

「抗生物質に拒絶反応を起こして3分間心臓が止まったの。だんだん暗くなってきて、人の声

が聞こえなくなってさ…死ぬんだ、と。細胞がひとつひとつ死滅していく恐ろしさを実感し

たよ。だからどんなに苦しくても、『自分で命断つ? 死はそんな甘っちょろいもんじゃね

えぞ!』ってわかるんだ。何が何でも死にたくないと思う」

 30歳のとき、大島で大時化に遭った。まるで映画の1シーンだ。大波にあおられ、船は7

mも上下した。船酔いでやられた乗組員たちが、そのつどピンボールのように船室の天井と

床に激突。船長の加山雄三は彼らを布団でサンドイッチ状態に保護して…。

「ウェットスーツ着て水中メガネかけて外へ出てラット(舵輪)をつかんで。死ぬかと思っ

た。ホントに足が震えるからね。波の間に入ると何も見えなくて、三崎の灯台を江ノ島の灯

台と見誤って、危うく座礁しかけながら。普段1時間40分で帰れるところを8時間半かけ

て戻ってきて。最後、防波堤の先に江ノ島のグリーンの灯台が見えたときには、“やったあ

!”って涙が出るほど感動してさ、寝てたみんなを叩き起こして明かり全開にして戻ってい

ったさ」

 32歳のときには経営していた会社が破たん。取締役に名を連ねていたことで23億円の

借金を背負った。

「もうどうなってんだかわからないんだよ(笑)。でもそれほどの大波を喰らってもひっく

り返らずにやってくることができた。もちろんオレ自身にナントカしようという気持ちもあ

った。けど、“命さえあればたぶん大丈夫さ”っていう気持ちを自分で強く持ってた…とい

うか信じてた。だって殺されないかぎり、オレは絶対自分では死なないんだから! 

あらゆるところへ行ってどれだけ土下座をしたことか。“やめてください。どれだけ頭を地

べたにこすりつけられても納得しませんよ”と言われるて“ごもっともです”って、それで

ももう1回土下座するわけさ」

 と、それでもやはり、若大将らしく明るく上を向いて語る。会社更生法が適用され、後に

会社は売れて、債権者には好条件で返済ができたという。

「そんなときでも、海の仲間ってややこしいこと言わないんだよ。“金がなけりゃ魚取って

食えばいいよ。海藻だってあるしさ”って(笑)。仲間たちが“大丈夫大丈夫”って言って

くれて。下向いて思い詰めてたら死んじゃってたかもしれないね」

 だからといって、その件を軽く見ているわけでは決してない。「つらいことから逃げない

ことさ。真っ正面から受け止めて『畜生!』と思いながら、一所懸命考えるんだ。守られす

ぎると自分で戦うことができなくなるさ。負け犬だとか吠えるだけの犬になっちゃうんだよ

な。オレは毎日毎日新しいスタートを切ってる気がしてるんだよ。今の時間っていうのはま

さに“今”だけ。昨日からの続きじゃない。未来は先にあるんじゃない。過去も現在も未来

も“今”の一点に集中していて、それが一瞬一瞬動いていってるのさ。荒波があれば必ず凪

が来る。それは間違いないんだよ」

加山雄三 R25時代

 「黒澤組みに参加したとき、まったく萎縮しなかった。「最初に黒澤さんに「オマエは白

でいい」って言われたのが効いたね。”余計なことを考えなくていいんだ”って思った。

芸能界の厳しさは知らなかったけど、海の厳しさは身に染みて知ってた。転覆したり座礁し

て何度も死に損なったから。人の思考の波を読むのも早いんだよ。”ここはヤバイ”って

ところは命がけでやる。あとは何言われてもオレの時間。

そういうやり方ですごくうまくいけたね。」

若大将50年!

 森山良子、谷村新司、南こうせつ、さだまさし、THE ALFEEらが参加した、デ

ビュー50周年記念アルバム。大人めな実力派アーティストたちのバックアップを受け、

セルフカバーの今様のアレンジ+α。R25的には、オヤジ世代のアーティスト、だけれど

加山雄三のソングライターとしてのセンスと才能、半端ねえ。原曲も聴きたくなるのだ。

捨てられるはずの曲

 レコード会社からの依頼で「捨てちゃう曲ならあるけど」と見せた中に、宝が埋まって

た。「気に入ってなかったのに「いけるんじゃないですか?」って。いま508曲ある

けど、実際レコーディングされたのは二百何十だからね。で、岩谷時子さんに詞をつけて

もらってあんなイイ曲になるなんて!」その曲とは「海 その愛」。

「湘南海物語 オヤジ達の伝説」でも聴ける。

10年11月04日新設