うたの旅人 (「Be on Saturday」朝日新聞 2010.8.28) |
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以前、”栗っ子”さんから、ご紹介いただきました、朝日新聞に掲載されていた「うたの旅人」の
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はかなき運命のホテル 「HOTEL PACIFIC」
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あおざめた荒馬の群れのような波浪が、くんずほぐれつしながら、かなたを駆けめぐっていた。 1955年の晩夏ー高校3年生の「池端直亮(なおあき)」は、神奈川県茅ヶ崎市の自宅の間近に ある、人影の絶えた浜辺に立ちつくし、しけかけた相模湾へ乗りこんでいく頃合いを細心に見計らっ ていた。 水着姿で重たげに抱えていたのは、サーフボードだった。 竜骨と肋骨からなる船の構造を薄っぺらにしたような木の骨組みに、厚さ5_のベニヤ板を張りつ けた手製のものだ。中学生のころすでに、自分で図面を引いて、カヌーを自作していたので、それぐ らいはお手のものだった。 いまなら「ボディーボード」といわれる、板きれ1枚に腹ばいになって波に乗るサーフィンのまね ごとも中学時代から始めた。15歳のときには、台風迫る相模湾へ突き進み、大しけの波にのまれて おぼれかけたことさえあった。 その身に後年、「日本最初のハワイアンスタイルのサーファー」と いう称号を授かるとはつゆ知ら ず、もんどりをうって崩れ落ちるような、胸の高鳴る荒波を相変わらず欲しがっていたのである。 10年後ー61年から始まった、東宝の「若大将」シリーズで「池端直亮」こと加山雄三さん (73)映画界のトップスターにのしあがっていた。5歳のころから茅ヶ崎育ちで、当時大学生だっ た岩沢幸矢さん(67)は、その姿を地元の浜辺で頻繁に見かけていた。 |
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やはり銀幕のスターだった加山さんの父親の上原謙さん(1909〜91)は戦中、松竹大船撮影 所にほど近い茅ヶ崎の海べりにある約1700平方bの敷地に、みずから設計した2階建ての洋館を 建てていた。加山さんは結婚する70年まで、その実家から、東京・世田谷にある東宝の撮影所やロ ケ地へ通っていたのだった。 「海は自由だけど、計算ずくでなければ生きて戻れない。対極にあるものが表裏一体になっている 海にこそ、僕の幸せの原点があった」と加山さんは語る。 「そのあたりの海は深くて誰も泳いでいなかったのに、どんなに海が荒くても、加山さんは不意に 砂浜に現れるや、サッとひと泳ぎして帰っていくのがカッコよかった。まさしく海の男だった」岩沢 さんは、そう懐かしむ。 音楽に病みつきになったのも、加山さんに感化されたからだという。中学時代、学校の行き帰りに 上原、加山親子の屋敷の塀際を歩くたび、エレキギターの未知の音色に、ときめきながら聞きほれて いた。慶応大学でカントリー&ウエスタンのバンドを組んでいた加山さんがつま弾いていたのだ。 岩沢さんは後に、弟の二弓(ふゆみ)さん(61)とフォークデュオ「ブレッド&バター」(略称 ブレバタ)を結成し、デビューする。 海辺の、ありふれた片田舎にすぎなかった茅ヶ崎に、きらびやかな異界の大聖堂のような建築物が 出現したしは65年末のことだった。 パシフィックホテル茅ヶ崎。海辺の国道沿いで11階建ての威容を見せつけたそのリゾートホテル は、東京でも希少な、品格のある異国趣味にあふれていた。真夏の休日には、かならず芸能人がプー ルサイドに寝そべっていた。大学生だった岩沢さんは客室係のアルバイトをしていたが、あこがれが 高じたあまり、ホテルマン志望に心変わりしかけたほどだった。 ところがここは、加山さんや岩沢さんの人生に、予期せぬ変換を呼びこむ運命のホテルだった。 |
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「湘南」を一体にした幻想 |
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どんなにもつれた交渉ごとも、そこで話し合えばたちまち解決する。そうささやかれていた部屋が 、パシフィックホテル茅ヶ崎にあった、と岩沢幸矢さんは思い起こす。 地下1階の社長室がまさしくそこだった。まるで水族館のような巨大な窓ガラスがあって、ダイナ マイトボディーの女の子たちが屈託なく泳ぐ水深4bの屋内プールの水中を眺められるようになって いたのだ。 1階にはショッピングモールや厚切りのフランスパンのフレンチトーストが評判のカフェ、最上階 には三百六十度の眺望が売り物のスカイレストランやバーがあった。屋外プールのプールサイドには 、欧米の高級マリンリゾートで「カバナ」と呼ばれるリクライニングシート付きの個室まで備わって いたのである。 常連客には芸能人ばかりでなく、政財界の名士たちの顔ぶれもそろっていた。作家では三島由紀夫 が足げく通いつめていたという。 まるで東京の「引力」を打ち消す「湘南文化」という新たな重力圏が誕生したかのようだった。そ れまでひたすら地味で、まとまりのなかった「湘南」の概念が、パシフィックホテルのお陰で初めて 一体のものになった」と岩沢さんはいう。 ホテルは46レーンのボウリング場とドライブインを併設、全体を「パシフィックパーク茅ヶ崎」 と称した。地元での通り名は「パーク」。サザンオールスターズの桑田圭祐さん(54)の亡父、久 司さんはここのドライブインでマネージャーとビリヤードの店を営み、桑田さん自身もボウリング場 でアルバイトしていた。 |
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「パーク」の経営者は、茅ヶ崎に居を構えていた故・岩倉具憲さんだった。明治の元勲、岩倉具視 のひ孫にあたるこの人物は、加山雄三さんの母で元女優の故・小桜葉子さんの弟。つまり加山さんの 叔父さんである。 小桜・岩倉姉弟のの母親は松竹の大部屋女優だった。岩沢さんの父親は映画監督だったため、じつ はその母親とは懇意で、岩倉さんとも仕事のつきあいがあった。血脈と人脈は濃密にからまり合い、 その結節点に「パーク」があったともいえる。 ところが、「パーク」の命脈はあまりにも、はかなく尽き果てた。 開業6年目の70年、「パーク」を運営する岩沢さんのリゾート会社の経営が破綻したのだ。負債 総額は約23億円。裁判所から財産保全命令が出たことを伝える同年8月1日付の朝日新聞の記事は 「商売第一、というより、いわば趣味的要素が先行(して失敗)」と伝えている。 名ばかりの監査役になっていた加山さんも、負債の過酷な清算に容赦なく巻きこまれてしまった。 税金滞納で収入の大半を税務署に差し押さえられ、新婚の妻の実家に転がりこみ、卵かけご飯の卵 を夫婦で半分ずつ分け合う逆境へ転落。借金返済に10年かかった、と加山さんは自伝「若大将の履 歴書」(日本経済新聞出版)で述懐している。 「幼いころ、父と手をつないで、「パーク」の建設予定地だった松林を散歩していたとき、「ここ にホテルを建てるのが夢なんだよ」と聞かされて、「そうなったら、どんなにいいだろう」と子ども ながら感嘆した記憶がある。そのころは見渡す限り畑だらけ。父には時代を先取りする感覚はあった けど、実業家の才覚はなかったみたい。ホテルのロビーの灰皿もわざわざクリスタルの高級品にして たけど、「すぐ持ってかれちゃうんだ、ワッハッハ」って笑ってた。つぶれちゃうわけよね」 岩倉さんの長女の岩倉瑞江さん(56)は、08年に84歳で他界した父親をいとおしげに、そう 追想する。 「パーク」の倒産後、抵当に入っていた岩倉さんの屋敷はすぐに人手に渡らず、瑞江さんが一人き りで暮らすことになった。約2千平方bもの敷地に25bのプールがあり、部屋数が七つもある大邸 宅だ。瑞江さんはそこに、69年にブレバタでデビューしていた岩沢兄弟や彼らの音楽仲間を呼び寄 せ、最初は6人で勝手気ままな共同生活を始めたのである。 |
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瑞江さんは東京のアパレル会社に勤めていたが、男たちは始終、仕事にあぶれていた。食費として 月3万円だけ払い、ありあまる時間をサーフィンに興じたり、酔いどれながらそれぞれの楽器を鳴ら したりして、刹那(せつな)の快楽に浸っていた。 フルートとパーカッション奏者の浜口茂外世さん(59)は当時、ギターとフルートだけ持って岩 倉邸を訪れ、そのまま2年余も住み着いた同居人暦がある。「無鉄砲な生活で、内心は不安だらけだ ったけど、岩倉家や岩沢家の人びとのおおらかな包容力に守られて、海辺の優雅な開放感を堪能して いた。あの体験があったからこそ、湘南の海が人生最大の音楽のモチーフになった」 自由なコミューン(共同体)と化した岩倉邸で75年に岩沢兄弟が車庫を改造し、カフェ「ブレッ ド&バター」をオープンした。かつての「パーク」のように、このカフェもオーラを放っていたと岩 沢さんは語る。 「まずサーファーのたまり場になり、知り合いのミュージシャン、モデル、近所の魚屋さんまで誰 でも分け隔てなく入りこんで、友だちになって楽しんでいた。そんな自然な開けっぴろげの雰囲気に 東京の人たちはあこがれたみたいだった。いま思えば、洗練された「パーク」の精神が、形を変えて 受け継がれていた」 しかし、79年に岩倉邸はついに開け渡されることになりカフェも解体されて跡形もなくなった。 「パーク」は倒産後、ホテルニュージャパンなど数々の企業乗っ取りで知られた故・横井英樹に買 収されたが、88年に営業停止。いまは高級マンションに建て替えられている。 誰とでも友だちになれそうな幻想だけはしかし、いまも不変のまま、茅ヶ崎のビーチに息づいてい る。 |
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写真下:地元に帰り、砂浜のステージで歌うブレッド&バター(左端の白とオレンジのTシャツ) | ||||||||||
写真上:パシフィックホテルの全貌。 | 写真中:営業停止後のホテル。 | |||||||||
10年09月15日新設
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