加山さんと岩谷さんのステキな関係    

作曲家 弾厚作、作詞家 岩谷時子は我々カヤマニアに数々の名曲を提供してくれた名コンビです。ここでは、そんなお二人のステキな関係について特集しました。

まずは「加山雄三ライブ 熟年世代の若大将」から

1992年にNHKBS2で放送された
「加山雄三ライブ 熟年世代の若大将」
ライブの模様と光進丸でのインタビューで構成された番組の中で岩谷さんについてのお話もありました。
(インタビュアーは三雲孝江さんでした)
(三雲)代表的なヒット曲のほとんどの作詞が岩谷時子さんですよね。

そうなんです。岩谷さんとの出会いというのが、ぼくにとっては大変な出会いだったと思います。

(三雲)振り返るとどのくらいの長さなんですか?

(芸能界に)出た頃からですから、昭和36年からですから、その頃からやってますから30年ちかいです。

(三雲)最初にお会いしたときのこと岩谷さん記憶してらっしゃるので、そのインタビューをお聞きください。

(岩谷時子さん)
当時、俳優さんでギター弾いてご自分で作曲して作詞して歌う方なんてほとんど
いらっしゃいませんでしたから。世の中にもあんまりなかったんですけど。
それで私と広瀬健次郎さんとおっしゃる音楽担当の方が一緒に森谷さんに呼ばれて撮影所に行きまして。
お昼に加山さんが呼ばれてたらしくて、「呼ばれたから来ました」「弾けとおっしゃるから弾きましょう」っていう感じで。
それがとっても爽やかで、自然な匂いがするというか、それと私が海の側で育ったもんですから、多分心の波長が
合ったんだと思います。

ただ、打合せをする時間が全く無かったんです。加山さんがお忙しくて。
今思いますと不思議な現象だと思いますけど、一晩に三曲も四曲も書けるわけが
ないんですけど。音を聴いてますとね、全く打ち合わせがないんですけど、言葉が音の中から出てくるんです。
例えば「お嫁においで」という言葉がどっかの
小節に入ってくるんです。それを私がクロスワードのように繋いでいくんです。「君といつまでも」もそうでしたけど。
譜面なしで、音だけ入れて、それに誰か他の人がわかり易いようにラララで入れてきたら全然出てこないんです。
加山さんの声でないとダメなんです。

これはやっぱりすごい!
解るような気がしますね。
ぼくもすごく不思議だなあと思ったことが何度もあるんですけど、自分が作った音を聴いて、こういうイメージなんだけどというのを黙って(岩谷さんに言わないで)渡したことがあるんですね。

まったくその通りに(自分の思っていたイメージと同じに)なって返ってきたことがあるんです。
つまり、以心伝心みたいなものなんです。どうして、岩谷さんはなんでわかるんだろう?
なんてね。
そういうことって随分ありましたよ。

(三雲)私は最初にタイトルぐらいはあってとか、テーマ性みたいなものがあってお作りになるのかなって思いましたけど。

いやあもう全然そうじゃない!まったくね。
フワッと出てきちゃうんです、音がね。
そのときに何を感じながら作ったというのは、もちろんあるんです。
例えば「母よ」という曲は、お袋のことを思いながら作ったんですけど、岩谷さんが「お母様でしょ」って言うんですよ”ええ!?”って”わかるんですか?!ほとんど超能力っていう感じですよ。
それで全くピッタリの詩が出来上がって、リハーサルのときに歌ったときに詰まってもうダメですね。涙が出てきて歌えない。それをやっと歌えるようになって出来上がったら、聴いてる人たちが泣いてるわけですよね。余りにも心境が出ていたので。
人知を超えたどっかのレベルで何か波動が合うというか。

(三雲)本当の意味でのパートナーですね。

そうですね、結局人生というのは出会いというものが目に見えない何かで。
それが
うまく合った瞬間に、たった一人では成し得ないものが出来るということだと思うんですよね。
私としては、この出会いは最高の出会いですよ!

(岩谷時子さん)
私は裕次郎さんの歌を1,2曲書いたことがあるんですけども。裕次郎さんだとお酒を飲みながら恋人に歌う歌とか、別れの歌とかが似合いますでしょ。
なんか加山さんはお飲みになるでしょうけれど、そういう雰囲気があまり感じられない、家庭っていうものが加山さんの背後にあるんですよ。
お出しになったご本に一日に何回か妻に愛してるよって言いなさい。っていうことを書いていらっしゃるでしょ。
そんなこと言えないよって、みんな言ってらっしゃいますけども、私は加山さんならおっしゃるだろうなと思います。
日本の方には珍しくね、嬉しいとか、幸せだとかすばらしいという言葉をハッキリおっしゃる方です。
ちょっとああいう方はいらっしゃいませんでしたねえ。今でもいらっしゃいませんけど。
加山さんの歌っていうのはチマチマとした日常生活は、あのメロディからは浮かんでこないんですね。
私は割合そういう話が好きなんですけど、いつも話すのは将来の地球についてとか、宇宙についてとか、そういう話をいつもしてるもんですから、どうしても加山さんのメロディだと大きい観点というんですか、そういうのに自然になってしまうんです。
やっぱり一番最初にヒットした「君といつまでも」がスタンダードとして残っていったことはとても嬉しいですね。「海 その愛」とか。
いろんな環境の中で生きていく若者達へのメッセージを、私は加山さんの歌を通してこの世に残せているということがありがたいし、幸せだったと思います。

やっぱり素晴らしい人だなあ!人生のテーマというものを、人間中々見つけられないと思うんですけどね。
自然界の一部を担っている存在として、謙虚に受け止めたときにね、それを音楽を通して貫く人間の愛とか、生きるテーマみたいなものをハッキリとお持ちになっていることがぼくは好きですね。

僕自身も、多分自然というものを非常に理解することも難しいけれども、我々はその中で生きている一部なんだなという気持ちになると、本当に将来のことも気になったり、地球全体のことも気になったり。
我々の中で一番人類の絆というかそういうもので捕らえる、似ているんですね。

(三雲)人生のテーマが詩に現れ、曲に現れとても波長が合ったもの同士だなっていう気がしますね。奥さんに愛してるよと何回もおっしゃるんですか?

まあ、三回も四回もということはないですけど。

(三雲)一日に一回ぐらいは?

言いますね、最近は一日に一回必ずじゃないですけど、はっきり言いますよ。

(三雲)言わずもがなということもありますけど、やっぱり口に出すとのもメッセージですよね。

大事なことだと思うので、もしそれが言えなくなったら、なぜ言えなくなったんだろう?と(考えなくちゃあいけない)いうことなので大事なことだと思う。愛には歳は関係ないとぼくは思ってますから。

(三雲)光進丸でこんな素敵なお話を聞いちゃって、本当に素晴らしいです。

続いては曲作りでのエピソードについて、加山さんがレコードや著書の中で語っておられるのをご紹介します。
@ゴールデン・アルバム あなたと共に
「蒼い星くず」のナレーションで
ぼくは退屈を知らない男なんだなあ。
ロケーションで知らない土地に行っても、ギターとテープレコーダーさえあれば結構楽しんじゃう。
この歌も宝塚映画の仕事をしているとき出来た歌でねえ。岩谷さんがどんな内容の歌にしましょうって聞いたから、”あのねえ、ホテルでねえ、窓から空を見てたら星が四つあった”って言ったら、こんな歌になった。
おかしな説明だけど、それで解っちゃうんだなあ。
やっぱりおかしなコンビだなあ、ぼくたちは。
A若大将半生記 音楽とぼく  より
ぼくは、以前は作詞も作曲もいっしょにやったが、最近は、よき先輩であり、パートナーでもある岩谷時子さんに歌詞の方はまかせている。
 つぎつぎに二人のコンビで、新しいレコードを発表しているので、おたがいに、しょっちゅうあって、打ち合わせしているだろうと思われるだろうが、実をいうと、ほとんど会ってはいない。
ぼくが作曲したメロディーを岩谷さんのもとへ届けると同時に、電話で
「こんどの曲は、タヒチの海岸に立って夕陽をじっと眺めているような感じです」
と、漠然とわけがわかったような、わからないようなことを説明する。
「はい、わかりました」
 こう簡単にこたえる岩谷さんは、しばらくすると歌詞をつけてこられる。うたってみると、まったく、ぼくの曲にピッタリで、文句のつけようもない。なかに、ほんの部分的に手直ししてもらったものもあったが、そのほとんどが、そのままぼくの気に入ってしまう。
 音楽には、ことばでは説明できない、心と心との通じ合いみたいなものがあるようだ。
B神奈川新聞 「わが人生 第29回」
「幸せだなあ〜」秘話 より

 曲ができると、岩谷さんに何も言わずに渡した。ごくまれに、曲を作った時の話をしたことはある。例えば「白い砂の少女」は映画撮影で、西伊豆の岩地に長期滞在していた時にできた曲だった。
「けっこうかわいらしい浜辺なんですよ」
「そう。じゃあタイトルは白い砂の少女でどう?」
「はい。いいですよ」
 おまかせである。その方がいいものができてきた。岩谷さんとは曲を渡すときとレコーディングのときぐらいしか会わない。それなのに、岩谷さんのイメージで作られる歌詞で、外れたたことは一度もない。ぴったりの歌詞ばかりだ。
 ただ、ほんの少しどうにもむずむずして、歌いづらいと思った曲も中にはある。例えば「ぼくのお嫁さん」とかだ。LPに入れるんだから、「まあ、いいか」と自分に言い聞かせてレコーディングした。今でも、歌うのは恥ずかしい。

最後に岩谷さんが加山さんの芸能生活15周年記念本に投稿された記事を紹介します。

日本男子の魅力

 加山さんとのコンビで「恋は紅いバラ」というレコードを出してから、早いもので、もう十年以上になります。
 当時、加山さんは東宝専属の俳優、私は東宝本社の文芸部員でしたが、仕事場は世田谷の撮影所と日比谷の東宝本社に分かれていましたので、めったに会うこともなく、言葉を交わしたのは、このレコードを出した時が初めてではなかったでしょうか。
 「恋は紅いバラ」は当時ヒットしていた若大将シリーズの挿入歌で、吹込みの日は雨がふっていました。

15周年記念本の表紙です
 撮影が終わってからレコード会社のスタジオへ駆けつけた加山さんは、素足にサンダルといういでたちで、長いあいだ芸能界でスターを見馴れた私は、全く飾り気のない型破りなその姿にちょっと驚きましたが、吹込みの途中少しでも暇ができると、たちまち姿が見えなくなるのには、もっと驚きました。
 レコード会社のスタッフも「あれぇ、加山さんは?」とスタジオの中を探すと、加山さんはサンダルを枕に寝ていました。猛烈な撮影スケジュールの中での吹込みだったのでかなり疲労していたようでしたが、この記念すべき吹込みが無事終わったあと、皆で帰ろうとすると、深夜の外はドシャ降りの大雨になっていました。
 仕事中、誰とも無駄口一つきかなかった加山さんは自家用車に乗り込みながら「同じ方向へ帰る人がいたら送りましょう」と、見送っている人たち一人一人に声をかけていましたが、そのなかの、たった一人の女性の私には、加山さんは遂に声をかけずに帰ってしまいました。
 これはまだ世馴れていなかった加山さんのテレだったのでしょうが、私は加山さんのなかに日本古来の男らしさを見たような清清しさを覚え、見捨てられた?にも拘わらず、非常に好感を持ったのを覚えています。
 この第一印象は今も変わりません。たびたび一緒に仕事をするうち、加山さんは嬉しいときは「嬉しいなぁ」と、幸せなときは「幸せだなぁ」と卒直に口に出す人であることも発見しました。そういうところは日本人離れしているのですが、女性に対しては外人風の馴れ馴れしさや、あまさを見せないところは、いまも昔も見事です。
 ここ数年、逆境に立たされたときも、精神的に挫けたところは決して人に見せずに乗り越えて来られたようです。加山さんの魅力は、今では非常に少なくなった日本の男の魅力ではないでしょうか。
 きっと家庭においても、家長としての責任を潔ぎよく果たし、限りない愛と、きびしさで、三人のお子さんの成長を見守って行かれると思います。そして私たちにはいつも、「美恵子という名は日本でいちばん良い名だ。とにかく美恵子はエライですよ」と卒直に言いつづけていかれることでしょう。
 「美恵子さん」は加山さんの奥さんの名前です。
NHK BS2で放送された「岩谷時子の世界」は
こちらからどうぞ!

08年03月20日新設