スキーとぼく

雪に描く青春のシュプール

 吸い込まれるような深い青空。その一角を鮮やかに切り取る白銀の稜線。ドッと上がる雪

煙。夜は夜でストーブを囲む、歌と音楽と陽気な語り合い。

 ぼくの青春の楽しい思い出は、ほとんどスキーにつながるといってもいい。

 生まれてはじめてスキー場をみたのは、三歳のとき両親につれられて行った赤倉。五歳の

とき岩原へ、どちらもスキーははかず、ソリで遊んでいた。

 はじめてスキーに乗ったのは七歳のとき岩原で。そして本格的に滑りはじめたのは小学校

年、湯沢でのことだ。

 それ以来まったくの病みつきとなり、毎年、雪の訪れとともに草津、赤倉、岩原、志賀高

へと出かけて行った。

 手ほどきをうけたのは叔父だが、あとは、土地の子供や、選手の滑り方の見よう見まねで、

正式にコーチをうけたことは一度もない。

 おふくろは、ぼくのスキーの大先輩で、七歳のころからやっているのだそうだ。なにしろ

ーチを受けたのが、亡くなった松竹の小津安二郎監督だから、相当に古い。

 おやじも、おふくろに連れられてはじめたが、数年前、草津で骨折。それに、もう年齢的

も限界が来たといって、ゴルフに転校してしまったから、いまは滑らない。

 スキーの競技大会には、高校二年のとき、関温泉で開かれた神無山大会へ出場したのを皮

切りに、あちこちの草大会に顔を出すようになった。

 よく、おふくろと二人で

「こんどの○○大会へ出ようや」などと相談して、母子で出場した。

 それに、おばあちゃんも応援に同行するので、地方の新聞などに「池端親子、ことしも出

場」と書かれたり、おばあちゃんの方は”アルペンばあさん”のニックネームをちょうだい

たりした。

 たいてい、大会のはじまる二週間くらい前から、旅館に泊りこんで、コースになれる練習

をする。そのころから、みんな大会気分で、選手たちは、おたがい牽制し合い

「ことしは調子がいいですね」

「いやいや、とんでもない。そちらこそ・・・」

 などと、心にもないことをいい合って、早くも心理作戦がはじまるわけだ。

 運よく母子そろって入賞でもしようものなら、たいへん。その夜は宿で、おふくろとおば

あちゃんと三人が、ビールのコップをあげて、盛大な祝賀会を開く。

 大学一年の冬、どうせ出るなら国体に、と思って、はじめて神奈川県予選に参加したが、

の時は第七位で本大会へは出られなかった。

 三十四年の蔵王、三十五年の志賀高原と、二年つづけて国体の本大会へ出場したが、蔵王

大会のときはひどかった。

 この年は雪が少なかったので、大会前からコースにムシロを敷き、その上に雪をまいて薬

で凍らせた。ところが、大会当日になって気温が急に下がり、全コースがカチンカチンに

凍りついて、雪というより氷になってしまった。

 われわれはこのコースに恐れをなしたが、このとき出場していた猪谷千晴選手(一九五六

のコルチナダンペッツオ冬季オリンピック大会回転第二位)は逆に一番喜んだ。彼は、海

のスキー場で、こういう固い氷のコースばかりに馴れていたからだ。予想通り、猪谷選手

が優勝、ぼくは、順位を聞くのもシャクなほどの下位だったが、それでも猪谷選手と同じコ

ースを滑ったことで満足であり、光栄に思っている。

 この大会が終わったあと、調子に乗ってコースを飛ばしていたら崖から転げ落ち、下にあ

た切り株で尻をいやというほど打った。その時はなんともなかったので、志賀高原へ立ち

寄ったら、急に動けなくなってしまった。レントゲンでしらべてもらうと背骨がズレている

という。

 さっそく汽車で上野へ帰り、どうしても歩けないので、駅からタンカに乗って入院、下半

身にギブスをはめられ、約半月間静養させられた。

 これが、ぼくの、スキーに関するただ一度の事故である。

 高校三年から大学一年にかけての二シーズン、赤倉のホテルで友人がスキーのパトロール

(救護斑)をやっていたので、ぼくも仲間に入れてもらった。

 そこのホテルの一番いい部屋に、ふつうの半額ぐらいで泊めてもらい、メシを腹いっぱい

べさせてくれるのも魅力だった。

 このとき、恐ろしい経験を二度した。

 一度は男のスキーヤーが、ものすごい勢いで転倒、そのとき、木の切り株で手首をブラブ

になるほど切ってしまった。

 ちょうど現場の一番近くにぼくがいたので、血まみれの腕を固くしぼり、応急の止血処理

して、ソリに乗せて田口の町まで降ろした。ところが、そこの医師では切れた血管を縫い

合わせることができないので、さらに汽車に乗せて長野まで運んだ。しかしそのスキーヤー

は気の毒にも汽車の中で出血多量のため息を引き取ってしまったのだ。

 もうひとつは女性スキーヤーが、池に落ち、心臓マヒで死亡した事件に出くわした。

 反対に愉快な事件もあった。

 同じパトロールの仲間が、赤倉の隣町関温泉から遊びに来て、ホテルでみんなで、酒をの

んだ。この男はものすごい酒豪で、昼間からニンニクを酒のサカナに、一升ぐらいは軽くあ

てしまう。その夜も一升五号ちかくを一人で飲み、泊まって行けというのをムリにふり切

て、夜遅く関温泉へ帰って行った。

 ところが翌朝、関から電話がかかってきて、彼がもどって来ていないという。遭難!と、

あわてたぼくらは、すぐに捜索隊を組んで、関温泉へむかった。

 途中まで行くと、急斜面の下に新雪ナダレの跡がある。イヤな予感がして、近寄ってみる

と、スキーの先と手首だけが、雪の間からのぞいているではないか。

「とうとうナダレにやられたか」

と心臓がとび出すほど驚いて、すぐに発掘に取りかかろうとすると、雪がムクムクと割れて、

昨夜の彼がゴソゴソはい出して来た。

「いやあ、なんだか寒い寒いと思ったら、雪の中で寝てたんか」

 これには、安心するやら、おかしいやらで、二の句がつげなかった。こんなタフな男には、

それ以来一度もお目にかかったことがない。

 ことしの春、「アルプスの若大将」のロケでアルプスへ出かけ、撮影の合間にスキーを楽

しんだが、日本にくらべて、なによりもゲレンデのスケールがケタちがいに大きいのには驚

た。

 マッターホルンの下にある滑降コースは長さ八キロもある。スキーヤーたちはケーブルカ

に三回乗りかえて、コースの頂上まで行き、そこから雄大な斜面の滑降を楽しむ。途中、

しゃれたスキー・ロッジが至るところにあって、そこで休んだり、お茶をのみながら、下ま

で降りてくると、たいていの人は足がガクガクになるほど疲れてしまう。一日の滑走量とし

ては、このコースを一回降りるだけで十分だろう。

 日本にも早く、こういう巨大なスロープが誕生してほしい。そうなれば、いまのスキー場

ように雪が見えなくなるような混雑も解消され、もっとゆうゆうとスキーを楽しめるのだ

・・・。

 しかし、スキーで、なにより楽しい思い出は、大学の四年間、仲間と志賀高原の石の湯で、

合宿まがいの生活をしたことだ。

 大学にはいるとすぐ、スキー仲間ができて、多い時だと二十人、少ないときでも、七、八

人のメンバーで、毎年、石の湯へくり込む。「石の湯スキー・クラブ」の略称ISCが、ぼ

くらのグループの名前だ。

 十二月の声をきくとすぐに、御徒町のアメ屋横町へ買い出しに出かけ、カンヅメや干物を

集め、米などといっしょに、石の湯の山荘へ送ってしまう。

 いよいよ雪が降りはじめると人間の方がくり込むのだ。

 最初の冬はそこの山荘で泊まったが、スキ間だらけの部屋で、吹雪の夜など、翌朝起きて

ると、フトンの上に雪が積もっている。なんのことはない外で寝ているようなものだ。そ

れにふつうの宿泊客と同じなので、金がかかっていようがない。

 つぎの年の冬、仲間のひとりが、山荘の隣の小さな山小屋の持ち主の知り合いということ

わかり、その冬から一日百五十円ぐらいの宿泊代で、自炊をはじめた。

 ただし、この山小屋は暖房設備がないので、ルンペン・ストーブを一晩中燃やしておかな

いと凍死してしまう危険があり、ぼくらは交代で不寝番をつけてストーブを見張った。

 ところが、夜中になると無性に腹がへってくる。それでなくても、腹のへる年ごろだ。

 二人一組で起きているのだが、この二人がグルになって、夜中にぼくらの食料倉庫からカ

ヅメや干物を持ち出して食べてしまう。それも一組だけではなく、つぎつぎにやるので、

食料の貯蔵がみるみる減ってしまった。

 気がついた食料当番は、ウドン粉をねって焼いただけの、パンとお好み焼きの合いの子み

たいなものを作って、夜食用に配給したので、食い物泥棒は、どうやら取り締まることがで

きた。

 別にクラブ活動の正式な合宿ではなかったが、なかなか統制がとれていて、食い物以外の

ことでは、みんな規律を守った。

 たとえば、きょうは煙突掃除の当番なら、一日中、スキーもはかず、まっ黒になって煙突

取りくんでいた。

 ISCの仲間は半数が”ゲレンデ・スキー屋”で、あとの半分が”山スキー屋”だ。それ

不平のないように一日おきにゲレンデへ出たり、山へ入ったりした。

 山へ登る日はゲレンデ屋が「なんで、こんな重いもの背負って歩かなきゃならねえんだ」

ブーブーいう。

 つぎの日、ゲレンデへ出ると、こんどは山屋が「ちえ、同じところばかり、何度登り降り

りゃいいんだ」とブツブツ。

 それでも、みんなけっこう楽しんでいるのだ。

 時に、ゲレンデ屋は”競技会荒らし”をやる。

「おい、西館山で、あした、大会あるんだってよ」

「そうか、じゃ行くべえ行くべえ」

「こんだあ野沢だってよ」

「行くべえ行くべえ」

と、四、五人、自信のあるヤツが出かけて行く。

 入賞すればいろいろな賞品がもらえたり、どんなに悪くても、参加賞はもらえる。それが

楽しくて、遠くの大会へも、バスにゆられて”出張”した。

 毎年、大学の主催で「全塾キー大会」というのが開かれた。

 この大会には、いつもISCのメンバーが上位を独占、ぼくも二度ほど優勝したので、他

の連中に

「なんだ、あいつら。毎年出てきやがって」

と、だいぶ恨まれた。

 この大会が近づくと、石の湯の専用ゲレンデに旗門をセットして練習するのだが、練習で

はげみが出るように”馬券”を発行し、優勝者を当てたものには賞品を出していた。

 全塾大会の当日にも、ひそかに”馬券”を発行して、だいぶもうけたヤツもいたようだ。

 ぼくらのホーム・グラウンドは石の湯の専用ゲレンデで、あまり他のゲレンデへは出かけ

行かなかった。

 というのは、他のゲレンデにはリフトがあるが、乗るとお金を取られる。ところがわれら

石の湯には、ロープウエーしかないが、何回乗ってもタダ。とにかく金を節約することばか

り考えていたから

「金のかかるところは行くのよすべえ」

と、絶対といっていいほど、他のゲレンデのリフトは乗らなかった。

 一行のなかには、たいてい三、四人の女の子がまじっていたが、これが、ぜんぜん色気な

し、男同士と同じようなつき合いだった。

 三ヶ月も山にこもっていると、病気をするヤツが必ず出てくるが、そんなときの看病に女

方が便利だな、と思っていた程度である。

 いま考えてみると、女の子たちは、少々物足りなかったのではないかと同情もするが、結

局、そういう色恋抜きの交際の方が、スッキリとしていて、やはりよかったように思う。

 もっとも、このグループの中で、一組だけ恋人のカップルが生まれ、結婚したヤツがいる。

もちろん大学を卒業したあとの話だが、ぼくらはその話をきいて

「へえー」

と、くすぐったいような、うれしいような、ヘンな気持ちだった。

 やがて、冬が過ぎて、四月の新学期を迎えても、学校へ行かないヤツがいる。

 山々の雪も消えて、スキーもできなくなると、近くの小川に出かけていって、魚取りに切

換える。食料の貯蔵も底をついているので、獲物の魚をルンペン・ストーブで焼き、それ

をおかずに、どんぶり飯をパクつく。なんとかして、少しでも長く山に残っていたいという、

いじらしい願いのあらわれだ。

 いよいよ山を降りるという時になると、それまで取っておきの金を出し合いましなセータ

ーに着換えて、志賀高原の入り口にあるホテルへくり込む。

そこで、うまいものをたらふく食べるためだ。

「肉なんて、何か月ぶりだろ」

「ああ、夢にまで見たトンカツ」

 などと口々にいい合いながら、ぼくらは雪山との”送別の宴”を開くのだ。

 ぼくはいままでにスポーツからいろいろなことを学んだが、スキーから得た最大の収穫は

独に耐えることだろう。

 スキー競技の場合、勝敗をきめるのは自分自身だけだ。大会に出場しようと決心した瞬間

ら、まず自分自身との戦いがはじまる。大会当日に身体のコンディションを最高に持って

いくには、一ヶ月も二ヶ月も前から、トレーニング、食事、精神状態をコントロールし、精

進を重ねなければならない。いよいよ大会当日となり、スタート地点に立ったとき、他のだ

れも頼ることはできない。ただ自分自身の力にすがるほかはない。

 ぼくは、いつもスタート地点に立ったとき、どういうわけかあらゆることに謙虚になって

まう。もし、その時、見知らぬ人に「がんばれよ」と激励されたとしたら「はい、やるだ

けやってみます」と、まったく素直に答えるだろう。

 この日まで、自分はできるかぎりの精進を重ねてきた。あとはただ滑るだけ。勝敗はその

進の結果として、ありのままに出るだけだと、なにか超人的なものにすべてを任せてしま

たような気持ちになるからだろう。このスタートに立った時の気持ちは、他のすべてのこ

とをなしとげるのに、大きなプラスになるような気がする。

 最近はたいへんなスキー・ブームで、それにつれてスキーのファッションも年々派手なも

になっているが、ぼくのスキーでのオシャレは別にない。特別な形のスキーウエアを作ら

せたこともないし、色の配合を気にしたこともない。ただ、よりスマートに、より安全に、

より楽しく滑るために、スキー用具にかなりぜいたくであることは事実だ。

 要するに外見よりも、その用具の持つ機能を要求することが、しいていえば、ぼくのスキ

のオシャレといえるかもしれない。

 ここで現在ぼくの使っているスキー用具を披露してみよう。

▽スキー=ヘッド(アメリカ)製の選手用メタルスキー

▽スキー靴=ムナリ(イタリア)製

▽ストック=アッテンホーファー(スイス)製スチール・ストック

▽スキー・ズボン=ボーグナー(スイス)製

▽セーター=オーストリア製

▽ヤッケ=フランス製の黒のナイロン。(トニー・ザイラーから贈られたもの)

▽手袋=ガメット(オーストリア)製の革手袋

▽締め具=マーカー(ドイツ)製セフティー・ビンディング

 いうなれば、世界各国の一流品を寄せ集めた”国際見本市”的スタイルだ。口の悪い友人

「一番の安物は中身だろう」などと冷やかすが、一流品はそれだけの優れた機能を持って

いると信じている。

10年08月12日新設