映画とぼく

スクリーンに映す”自分”

 小学校に上がる前、両親につれられて上野の動物園へ遊びに行ったことがある。

 ところがまわりの人が、おやじを見にたかってきて、こっちは動物を見るところではなく、

さんざん見物されて帰って来た。

 子供心に、ぼくはどうして他の家の子供のように、のんびりと自由にオリの中の動物を見

て回れないのか、不思議であり、ひどく不満だった。

「どうしてなの。どうして・・・」

 家に帰る途中、しつこく両親にたずねたそうだ。

 小学校に通うようになると、友だちやおとなから、またまた特殊な目で見られた。

「あれ、映画俳優の子だと」

「あいつのおやじ、上原謙だぞ」

 ぼく自身は、まったくふつうの子と同じに振舞っているのに、どうして周囲がそんな目で

見、扱いをするのだろう。これまた子供心には、まったく不思議であった。

 そんなわけで、ぼくの胸の中には、ぼくをこんなに不当に悩ませる”映画”とか”俳優”

いうものに対する強い反抗が、次第に大きな塊になっていった。

 ぼくは、上原謙こと、おやじの出演している映画を、生まれてから東宝に入るまで、ただ

一本も見たことがない。ぼくは、意識的に映画と絶縁状態においた。

 映画スターの家庭という特殊な環境に妻や子どもたちを巻きこみたくない、というのが、

やじの強い願いだった。だから、ぼくも、おふくろも、妹も、新聞や雑誌の写真にとられ

たこともないし、映画関係の人前に出た経験もない。ある程度大きくなるまでは、ふつう平

凡な家庭の娘であり、息子であってほしいというわけだ。

 いよいよ社会人になる一歩手前の、大学四年の夏ごろまで、ぼくはまったく映画に関心を

たなかった。

 もちろん、おやじの映画以外の映画は、それまでにも多少見たことはある。それも西部劇

SFものなど、洋画をほんの少しばかりだ。

 大学四年の秋ともなると、友人たちの間では就職の話で持ちきりだ。ぼくもカントリー・

ロップスの仲間たちと、よく将来のことを話し合った。

「ドカベンはどうする?」

「おれは船乗りかサラリーマンにきまってる」

「惜しいな、もったいないな」

「何が」

「だいたい、お前はサラリーマンてガラじゃねえよ。いままでやってきた音楽やスポーツが

に立つような職業えらんだ方がいいんじゃねえか」

「そうかな」

「そうだよ。俳優なんかどうだ」

「いやなこった」

「お前は船、船ってさわいでるけど、俳優で成功してみろ。大きな船の一隻や二隻、軽く買

るぞ」

「成功するとは限らねえや」

「バカヤロー、そんなことわかるか」

 仲間との、こんなやりとりがあって、ぼくの頭の中には、長い間、仇のように思われてい

た”映画俳優”という職業が、急にクローズアップされてきた。

 それまでは、商船大学に入って、将来、造船技師か、何万トンという外国航路の船の船長

になるコースと、サラリーマンになってまず人に使われる経験を積んだ上、実業界に乗り出

して観光事業でもおこそうかというコースと、二つの道を考えていた。

 具体的にはアサヒビールの入社試験まで受けていた。

 アサヒビールを選んだのは、ぼくの敬愛するおばあちゃんが、大のビール党なので、ビー

ル会社に入れば、タダでビールをたくさんおばあちゃんに飲ませてやれるだろうという、ま

ことに他愛ない理由からである。

 映画会社からは、ぼく自身知らなかったが、すでに中学生のころに、誘いがかかっていた

のだという。

 大学卒業をひかえて東宝、松竹など、二、三社から申込みがあった。

 東宝はおやじの所属する会社、松竹は、おやじとおふくろが、もとお世話になったところ

で、おばあちゃんが現在も籍をおいている。

 松竹の城戸(四郎)社長は、おふくろがおやじのところへ嫁入りしたあと、一人残されて

困っていたおばあちゃんを、大部屋女優として入社させ、いろいろ面倒をみてくれた人だそ

うだ。おばあちゃんは、いまでも、その恩を感じて、松竹に在籍している。

 ぼくはさんざん迷った。

 自分がいままでやって来た水泳、モーター・ボート、スキーなどのスポーツ、ギターやピ

アノの楽器いじり、作詞、作曲、歌などの特技は、たしかに映画俳優としては役に立つし、

有利だ。

 うちのおやじには、たいした資産はないが、「上原謙」という、映画界ではかなり知られ

た”ノレン”がある。

 子供が親の資産、ノレンを利用して、それに頼ることなく、自分自身のスタートを切るの

は、決して悪いことじゃない。せっかくぶら下がっているノレンは役に立てたらいいじゃな

いか。

 ぼくの決心はきまった。映画俳優になろう。男子一生の仕事として。

 ちょうどその年の暮れのころだった。入る会社は東宝にきめた。

 俳優になるときめたら、まず基礎を勉強しなければならない。そこで、さっそく俳優養成

所へ入るため願書を出した。

 映画の実際も、おやじが同じ家に住んでいながら、ほとんど知らないから、見ておく必要

があると思ってた。

 ちょうど正月に「大学の山賊たち」という岡本喜八監督の映画が八方尾根でロケしていて

、それに、おやじも出演していたので、スキーをかついで見学に出かけた。

 この作品は、もし、ぼくがもっと早く東宝に入社していたら、ぼくが主演するはずだった

ときいて、よけい興味をそそられた。

 最初に映画のロケーションというものを見学して感じた印象は、申しわけないが

「なんだかアホらしいことしてるな、こんなことで、おもしろい映画ができるのかな」

という軽蔑と不満のまじったものだった。

 しかも悪いことに、この作品はたいへんな強行スケジュールで、しかも、人里はなれた山

に長いことカンヅメにされていたので、みんな疲れていた。

 佐藤允、江原達怡、久保明、山崎努といった先輩が出演していたが、スタッフの人たちも、

撮影が終わると、疲れきった顔で、バクチをやったり、酒を飲んだり「バカヤロー」などと

鳴りながら、大暴れしている人もいた。

 そんな光景を見て

「ずいぶん、すさんでいるなあ」

と、そのころは純粋だったから、びっくりしてしまった。

 しかし、ぼくは特に失望したり不安になったりはしなかった。

 映画づくりの実際は、なにもこのロケみたいなものばかりではないだろう。どんな世界で

も、イヤなこと辛いことはあるものだ。

 そんなふうに自分にいいきかせてみたし、自分はどんな社会へとびこんでも、なんとか切

抜ける自信はあると思ったりした。

 しかし正直いうと、少しばかり俳優家業が心配になっていたことは事実だ。

 おかしかったのは、このロケでおやじがマージャンをやり、三万点ぐらい負けてしまった。

ところが、ぼくは朝の五時ごろまで、スタッフの人たちと”オイチョカブ”をやって、べら

うに勝って、おやじのカタキをとってしまった。

 スタッフは、どこの若僧か知らないようなのに負けて、すっかり不機嫌になっていた。こ

スタッフたちは、そのとき、ぼくが東宝に入ることを、まったく知らなかった。

 俳優になる前に、演技の基礎を勉強したいというぼくの願いは、あっさりぶちこわされて

まった。

 東宝の藤本専務は

「そんなことする必要はまったくない。演技の勉強は、撮影所にはいってからでも十分でき

よ」

 といわれ、強引に押し切られてしまった。

 他のニュー・フェイスの人たちといっしょに六ヶ月間、養成所にはいってる間に、「男対

男」でデビューさせられ、会社は売り出せ売り出せで、何百万もの金をかけて宣伝した。

 ぼくは有名になるより、実力のある俳優になりたかった。実力にともなう名声なら、よろ

んで受けるが、空虚な人気には非常な抵抗を感じる。

 ぼくは、このころ、自分のからだが宙に浮いているような感じをいつも持っていた。

 生まれてはじめて映画に出演して、しかもはじめてのセットでやらされた演技が、なんと

くのなによりニガ手のラブ・シーンだった。

「男対男」で、北あけみ君相手の”ぬれ場”だが、谷口監督は、最初にクソ度胸をつけさせ

ためだったらしい。このときのテレくさいことといったら

「ああ、おれは、えらい職業を選んだもんだ」

と、つくづく後悔したのを覚えている。

 それでも、大ぜいの人を集めて演説するシーンでは、演説には自信があったせいか、監督

んから「うまいね」とほめられ鼻高々だった。どうも、このへんからぼくの存在が、なん

となく注目されはじめたらしい。

 デビュー当時にとり立てて失敗談もないが、「独立愚連隊西へ」で、岡本監督のきめた、

映時代劇で”ミエ”を切るような、きまった演技がどうしても出来ず、約三十分間、同じ

芝居をくり返させられたのが、失敗といえば失敗だろう。

 肉体的に一番苦しかったのは、やはり岡本監督の「戦国野朗」だった。 

 二月末の寒風ふきすさぶ中で、海の中に三十分以上も続けられたり、零下七、八度の峠道

を、農民のかっこうをして、何度も歩かされたときは

「こんな辛い職業って、ほかにあるかなあ」

と本気で考えた。

 こうした肉体の酷使と、環境の急激な変化のために、ぼくはとうとう撮影途中で倒れてし

った。40度3分の高熱が、まるまる一週間つづいたのだ。

 食欲だけは猛烈にあり、頭がふらふらし、目はかすんだまま、メシだけはさかんにつめ込

でいた。

 どの医者に見せても原因がわからない。そういわれると、よけい心配になって、病気その

のの苦悩より、精神的不安感の方が耐えがたかった。

 ウンウン熱にうなされながら、パッと床の上に起き上がって

「そこにあるカツラをとってくれ」

 このことばを聞いたおふくろは、いじらしくて、思わず涙をこぼしたそうだ。

 結局、熱は一週間後に下がり、ケロリと直ってしまったが、いまだに原因がわかっていな

い。

 ぼくは、入社いらいの肉体的、精神的な両面のがまんが、ついに限界点に達して出た、一

の”チエ熱”ではないかと分析している。

 この作品ではもうひとつ、故障がおきている。四メートルもあるガケの上から、ぼくが忍

者のかっこうで、とびおりるシーンがあった。

 ところが何度飛びおりても、カメラのワクに入らないと、カメラマンがダメを出す。

「人間がとんだら直線じゃなくて放物線を描くのは当たり前だ。それをワクにはいらないだ

てめぇの方が、よっぽどダメじゃねえか」

 と内心思いながら、カメラマンのいうなりに、とうとう十一回もとびつづけた。

 十一回目に地面の上に立ったとき、カカトの骨を砕いてしまった。俗に相撲取りの間でい

”カラ足”である。

 ぜんぜん歩けなくなってしまったので、その夜、医師に見せたところカカトの骨の間には

まっている物がグシャグシャに砕けていたそうだ。

 おかげで全治二週間、チエ熱を合わせるとこの作品の間に三週間は休んだことになる。

 なぜ”カラ足”になるまで飛びつづけるのか。バカだといわれるかもしれない。

 ぼくは、もともと、たいへんな意地っぱりで、人のいうことを黙ってがまんしたら、いっ

いどのくらいつづくかと、根くらべをやってみたわけだ。”がまん”をしなければ、人間

の成長はないし、また他人のやったことのないことをやってやれという歌もあった。

 なにか、ひとつのことをやりかけて途中でダメだとほっぽり出していたら、結局、なにを

ってもモノにならないと思う。

 いまの若い人たちは「自分の本当にやりたいことを情熱をもってやればいい、やりたくな

ことまでムリにやる必要はない」と考えているようだ。

 しかし、これでは人間に深味がなくなってしまう。困難や、いやなことを率先して乗り越

て行かなければ、それは、終始”逃げの人生”になってしまう。

「ぶっ倒れるまで、自分はやったのだ」というこの作品から得た自信は、その後のぼくに絶

な力を与えてくれた。

 ぼくは、東宝に入社する前から、俳優という職業にひとつの理想像があり、入社後はひそ

にそこへ到達するためのプランを、着実に、計画的に実行していた。

 会社から与えられたシナリオを読み、監督にいわれるとおりに演技している俳優がいるが、

ぼくはこれを俳優とは認めない。それは”操り人形”にすぎないではないか。

 そんな人形になりたくないために、ぼくは”石の上にも三年”のことわざどおりに、まず

年間は、会社のいうとおりの作品で、監督のいうなりに動いた。自分の希望はいっさいい

ず、大いに、会社側に”貸し”をつくる期間だ。この”貸し”がつもりつもれば、やがて

会社側に対して、いいたいこともいえるだろう。

 ぼくの考えている俳優の理想的な形は、自分に与えられた役や人物を通して、自分の主体

性、自分の人間、自分の考えを、表現することに喜びを感じるような俳優だ。そして、この

びを感じられるような作品に出演することだ。

 ただし、それは独立プロをつくることでもシナリオ・ライターや監督になることでもない。

あくまで俳優の立場で、会社に要求し、それが実践できるような環境をつくることに努力す

ことだ。

 他人のいいなりに仕事する俳優と、自分の主体性を実現する俳優とのちがいは、要するに

人の情熱と、頭の問題ではないだろうか。

 自分の一生の仕事として選んだ職業に対して、その理想を実現するために力かぎり根かぎ

努力するのは当たり前ではないのか。

 東宝に入社してから五年目の昭和三十九年から四十年にかけての約一年間、黒沢明監督の

「赤ひげ」に出させてもらった。デビューいらい二十七本目の作品である。

 ぼくは、この一本の映画に出たことで、映画を知り、映画俳優を職業に選んでよかったと

確信をもっていえるようになった。

 この映画のシナリオを読んだとき、ぼくの演じる登という人間は、まったくぼくと同じで

り、ぼくが生まれてからいままでの人生が、すべてこの作品の中に含まれていると思えた

で、文句なくホレこんでしまった。

 登というのは、有名な医者の息子で、同じ医者のタマゴとして小石川養生所という病院へ

任してくる。ぼくも有名なスターの息子で、同じ俳優のタマゴとして撮影所にはいった。

 登は、最初は得意になって自分の新知識をひけらかし、得意になっているが、そのうちに

間関係の醜さ、世の中のきびしさを見せつけられて、この職業にイヤ気がさしてくる。

 このぼくも、はじめはスポーツ、音楽、歌などの万能選手だなどといわれ、多分にいい気

なっていたところもあった。しかし、だんだん映画界のいやらしさ、苦しさを知るように

なって、何度もやめてしまおうかと思ったこともある。

 登は、しかし三船敏郎さん扮する”赤ひげ”と呼ばれる先輩医師の人間的なすばらしさを

見せられ、人の世の情の美しさ、努力すれば必ず報いられることを知って、あくまで養生所

に残って医者の道を歩むことを決心する。

 それとまったく同じに、ぼくは三船さん自身のような立派な先輩を知り、仕事の中での人

関係の美しさ、苦労することの楽しさを教えられ、いま俳優を一生の仕事としてつづけて

いこうと思っている。

 環境の急激な変化のため、チエ熱を出して寝こんでしまうところまで似ているのは、いさ

さかあきれたほどである。

 シナリオは山本周五郎先生の原作があるのだから、まさか黒沢さんが、ぼくに当てつけて

いたものでもあるまいが、あるいはそうかもしれない、と疑りたくなるほど同じなのだ。

 さらに、一年間の撮影を通して、黒沢監督の映画づくりに、これぞまことの映画製作法だ

と、感じ入ってしまった。

 黒沢監督は、俳優が、その与えられた役柄と条件の中で、最大限に個性を表現できるよう

心をつかう。そのためには、何月何日までに完成させようという時間的制約、これ以上は

金を使えないという予算的制約、これは映画の約束ごとだからやれないという習慣的制約、

それらのすべてをまったく無視してくれた。

 おかげで、ぼくがそれまでに時々抱いた「映画というのはこれでいいのだろうか」という

いが、一ぺんに吹きとんでしまった。

 星占いによると黒沢監督とチャップリンとぼくは、同じ牝羊座で、一生、美を求めながら

んでいく宿命なのだそうだ。三人のうちでぼくだけはぐっとランクが落ちるが、そういわ

れてみると、黒沢監督の一挙手一投足が、ぼくにはよく理解できた。黒沢監督の方もどうや

ら、ぼくのことを気に入っていてくれたように思う。

 だから、ほかの俳優さんがやったら、たいへんなカンシャク玉が破裂しそうなヘマを、ぼ

くがやっても一言も怒られなかった。

 一度、他の俳優さんの本番の最中に、うっかりセットのすみで待ちながら、ウトウト居眠

りしてしまったときも、それを見た黒沢監督は

「三十分休憩。加山、外へ行って寝てこい」といわれただけ。

 もう一度は、藤原釜足さんの病人が臨終をむかえ、それをぼくがじっと見守る場面の撮影

でのこと。釜足さんの方のテストが何度もくり返されて、退屈したぼくは、なんとなく、着

物のたもとに入れておいた”チエの輪”をとり出し、ガチャガチャやっているうちに、だん

だんおもしろくなり、まわりの助監督さんたちが「いつ雷が落ちるか」とハラハラしている

のをよそに、いつまでもチエの輪に熱中していたときも

「おい加山、気が散るからよせ」

といわれただけ。

 ぼくは本当に果報者だと思う。

 ぼくがいま頭に描いている映画俳優としての目標は、万人から”ほほえましい”と思われ

俳優になることだ。

 ぼくが、どんな作品で、どんな役をやっても、ファンは「あいつがやると、なにをやって

も、何かがあるな」と思うような、その”何か”を身につけたい。

 それは、小手先だけの演技とかテクニックではなく、身体全体からにじみ出るものだろうと

う。

 そして、それは、俳優の私生活での考え方や姿勢と無縁なものではない。

 そういう意味でも俳優にとって、スクリーンの上の自分と私生活の自分とは別のものでは

いというのが、ぼくの意見だ。

 もうひとつ、別の意味で、ファンはスターにリアリティ(真実性)を求めている。「スタ

は私生活ではどんな人間なのか」と。そしてもし、スクリーンの上の彼が、私生活にくら

べてあまりにも脚色されオーバーに宣伝された虚像だ、ということがわかえると、またたく

うちに人気と信用を失うだろう。

 だから、スターは私生活においても十分魅力的であり、実力があり、ほほえましくなけれ

ならないと思う。

 たとえば三船敏郎という俳優は、私生活でも男らしく、豪快で、魅力的だ。すると映画の

作者や監督は、彼を使って、「赤ひげ」のような作品をつくる。俳優はまず、公私を通じ

て、その持ち味、人柄というものをしっかり持てば、あとは自然に周囲が、それを生かそう

としてくれる。

 ぼくはいま、「赤ひげ」で演じた登のように、ある確信をもって、そういう俳優になるた

に、一歩一歩、演技者の道を歩みつづけている。

10年09月02日新設