ボートとぼく

船乗りは少年時代の夢

 前にも書いたように、おふくろの胎教のせいか、小さなときから、なんとなく船に魅せら

れていたが、具体的に船の”とりこ”になったのは、茅ヶ崎の自宅の前に住んでいた商船大

学の学生さんのおかげだ。

 小学校五年のころ、算術を習いに行っていたそのお兄さんの部屋には、船に関するいろい

ろな本がギッシリと並んでいた。

 そんな本を見たり、お兄さんの話を聞いているうちに、もうすっかり船に魂をうばわれて

まった。

 中学から高校時代にかけて、おやじのカメラをそっと持ち出して、横浜港まで出かけ、さ

ざまな型の船を写真に写した。それらの写真をもとにして、木で模型をつくったりした。

 あるときは、大きな日本の貨物船がすっかり気に入り、ほとんど一日中、岸壁にしゃがみ

んで、その船を眺めつづけていたことがある。

 夕方ちかくになって、その船の船員が

「お前、船が好きか」

と声をかけてくれた。

 とうとうその人の案内で、あこがれの船内を見物させてもらい、船長にも会わせてくれた。

その船長は

「そんなに船が好きなら商船大学に入って船乗りになるんだな。ただし船長はつらいから、

せいぜい一等航海士ぐらいでやめておくんだな」

 と、小さいぼくを相手に、親切に教えてくれたり、冗談をいって笑わせた。

 それ以来、ぼくは船乗りになろうと固く心にきめた。

 自分で本ものの船を作りはじめたのは中学二年のとき。以後、ぼくの”茅ヶ崎造船所”で

つくられた船は、モーター・ボート、ヨット、手こぎボートなどを含めて合計十二隻ある。

そのほか、本ものの造船所で作ってもらったものが三隻。現在乗っている「光進丸」で十五

隻目だ。

 船では、ひどい目に会ったことが三度ある。座礁と船火事と衝突の三つを経験した。

 五トンほどのモーター・ボートで沿岸航海をやっていたとき。突然、舵輪のワイヤーが切

てしまい、操縦不能になってしまった。運悪く南西の風が強く、船はどんどん流される。

ついに浅瀬にドカーンとぶつかって、そのまま座礁した。ちょうど予備のモーター・ボート

を引っ張っていたので、それで岸まで曳航したが、スクリューはひん曲がり、船底にはヒビ

がはいり、使いものにならないほどの壊れようだった。船火事も、やはり五トン半の船。

 逗子の沖で停泊し、夕食の支度をしていた。そこへ、すぐ近くをモーター・ボートがフル

ピードで通りすぎた。そのあおりで、テーブルの上のラジウスがひっくり返った。と思っ

たとたん、床のスキ間というスキ間から火がふき出し、大音響とともに爆発して、床板がふ

っとんだ。なにがなんだかわからないままに、手当たり次第のもので火をたたき消したが、

あとで原因を調べてみたら、太陽で熱し切っていた送油パイプに急に冷たいガソリンを流し

たため、継ぎ目にヒビが入り、そこからもれたガソリンが船底で気化していたわけ。いうな

ればダイナマイトの上で炊事していたようなもので、どんな小さな故障でも、大事故の原因

になるものだということを、つくづく教えられた。

 衝突事故は三船敏郎さんといっしょのときに起きた。雑誌の写真を撮るために、油壺でカ

メラマンの乗っているモーター・ボートと併行して走っているとき、前に観光船が走ってき

たので、とっさに右へ急カーブした。ところがすぐ後ろを走っていたカメラの船が、わき見

をしていたため、そのまま直進、ぼくと三船さんが乗っていた運転席のすぐうしろを、乗り

越えてしまった。ケガ人はなかったが、両方のボートが大損害。

「海の若大将」で使用された、初代光進丸と俳優さん。
上段左から
加山さん、田中邦衛さん、江原達怡さん、星由里子さん。
下段左から
中真千子さん、重山規子さん、沢井桂子さん。

 ところで、いまの「光進丸」が昭和三十九年の十月に進水してからは、まったくの無事故

だ。やはり、三度の事故の経験はムダではなかったらしい。

「光進丸」は全長十二メートル、重量十七トン、乗員十二名、風呂までついている。この船

操縦するため「小型船舶操縦士」の試験を受けて免許を昭和三十九年七月にとった。

 この免許は、航行範囲と船の大きさをきめられているが、その上は丙種二等航海士、一等

海士、船長、乙種二等航海士という順で甲種まである。

 もちろんプロとして営業用にも使えるが、将来は乙種航海士の免状ぐらいまで取って、何

トンという船を操縦してみたいと思っている。

 子供のころの夢だった商船大学へ入れなかったかわりに操縦士の免状で満足している。

 これまでにぼくは十二隻のボートを作ったが、ボートをつくるのは、まず設計図を描く

とからはじまる。この段階がまた、楽しい。こんどはどんなスタイルにしようか、とか、な

どと考えながら、線をひいていくときの楽しさ。

 実際に板切れを切る前に、まず十分の一くらいの縮尺で、骨組みの模型をつくってみると

いい。いろいろとこまかい点、実際の製作上のミスやあやふやな点が具体的にはっきりする。

 さて、いよいよ骨組みを組み立て、甲板や側面の板を張る。この段階が一番むつかしいし、

一番慎重を要し、一番長くかかる。最後の仕上げの塗装という順序だ。

 昨年夏、友人たち八人と西伊豆海岸へ三泊の航海へ出かけた帰り途、相模湾を横断したと

きの、海の美しさ、ここちよさは、いまだに忘れられない。一面にカガミを張りつめたよう

海面。遠く紫色にかすむ山なみ。おどろくほど大きな落日。その中をぼくらを乗せた光進

丸がすべるように進む。いつもは荒れる相模湾も、このときは、まったく珍しいベタなぎ。

出かけて行ったときは雨の中だっただけに、この好天には心から感激した。

 小さな航海だったが、ひとつの仕事を終えた船長としての満足感。その日の夕方から江の

で花火大会のある日で、江の島港に帰投したあとは、船上で、花火を見物しながらの宴会

だ。このときは少々ハメをはずし、ウィスキーを一本ちかく飲んでしまい、とうとう翌朝ま

で、船の甲板でゴロ寝してしまった。

 海には、さまざまな顔がある。

 いつも波と風と遠くの山があるだけの、殺ばつとした男性的な相模湾。

 きらきらと陽に輝く岩肌に、鮮やかな松がからむ女性的な西伊豆海岸。

 そうした、見た目だけの海ばかりではなく、心の中の苦しみ、悲しみまで、スッポリつつ

み、やわらげてくれる海。

 ぼくは小さなときから、おやじに叱られると、家を出て、海辺へ行った。一度などは「も

二度と家へ帰るものか」と、砂浜で一夜を明かしたこともある。

 悲しいこと、悩みごとがあれば、ぼくは海にむかって大声で怒鳴る。すると、ふしぎに、

の中のわだかまりは、みんな海が吸い込んでくれるのだ。

10年08月05日新設