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ボロ酔い雑記3

3/16・・・飢餓陣営35号「編集後記」
3/5・・・飢餓陣営35号、編集作業終了。
2/26・・・飢餓陣営35号の読みどころ
2/20・・・討議「宿泊所問題」の何が問題か・・・でしゃべらせてもらったこと/洋泉社の石井慎二社長、2月12日逝去。16日のお通夜に参列する。
2/15・・・ノンフィクション作品のさまざまな「手触り」

3月16日(火)
●飢餓陣営35号「編集後記」
「編集後記」を以下に貼り付けます。
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「こういうヒトに ワタシはなりたい」

月刊、季刊ならぬ年刊「飢餓陣営」になってしまいました。いろいろとお急ぎいただいた執筆陣のかたがたには、お詫び申し上げます。ともあれ、当初、想定していた企画内容から考えても、完璧なラインアップになったと自負しています。

さてところで、長い間お付き合いいただいた勢古浩爾さんの「石原吉郎」が、ついに完結となりました。第一回目の掲載が二〇〇〇年八月刊行の第二〇号ですから、一〇年にわたって誌面を支えていただいたことになります。心よりお礼申し上げます。

また、人間学アカデミーの佐伯啓思、池田清彦、菅野覚明の各先生方の講義も今号で終了です。ここまでありがとうございました。講義の内容がスリリングで、毎回のテープ起こしと整理作業、まったく苦にならずに進めることができました。お礼を申し上げます。

昨年は『ルポ高齢者医療』以降、とうとう一冊も著書の刊行ができませんでした。「ボロ酔い日記」を久しぶりに復活させてありますが、ぜひご笑覧ください。決してさばっていたわけではありません(ホームページに「ボロ酔い雑記」と題して日常のあれこれを綴っています。こちらもどうぞよろしくhttp://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/)。

ご覧のとおり、今年も南に北に、走り回っています。「学校」という現場を離れたら、今度は福祉と医療・介護の現場にご縁ができ、今、日本の福祉や介護の先端がどうなっているのか。これから五年後、一〇年後にはどうなっていくのか。どうしなければならないのか。さまざまな問題が見えてきますし、考えさせられます。

さらに私事ながら、取材の蓄積を踏まえ、目下、ケア論を執筆中です。現場ルポにプラス、ケアとは何か、なぜ人はひとをケアをするのか、などなどを問うています。終了後、春樹論第二部、地域定着支援をテーマとしたルポルタージュ、さらに高齢者問題と順次進めていく予定です。東金事件についての取材も続行中。あまり大口をたたくと後悔することになりますので、あせらず、ぼちぼちとやって行きたいと思います。

そんなわけですので、次号は「思想性のある誌面」に「現場の情報性あふれるリアリティ」をいっそう加えた誌面、これをどうはたしていこうかと考えています。できるだけ早い時期に次の号刊行を心がけるつもりです。連載原稿執筆してくださっている方は、七月下旬をめどにお送りください。新聞、雑誌など紙メディアの衰退が言われますが、飢餓陣営はマイペースです。ではまた。
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と、こんな感じです。表紙もアップしたかったのですが、土曜以降、家を空けていたので、そこまで手が回りませんでした。お天気がよければ明日にでも。書店送付はまだ始めていませんが(明日から開始)、質量共に1000円という値段に恥じないもので、早く手にしていただきたい号になっています。


3月5日(金)
●飢餓陣営35号、編集作業終了。
今進めていること。
ケア論の執筆(あと2章なのですが、これがなかなか・・・)。連載原稿(今週は、東金事件の原稿も書き終えました。これから最終確認をし、編集部に。雑誌掲載についての詳細が分かりましたら、御報告します)。そして来週の講演の準備(川崎市の某特別支援学校と、柏市の某特別支援学校の二つで。一応資料の用意というかなんと言うか)。

それから確定申告の計算(たいした稼ぎではないのですが、これがなかなか手間です。何せ自分でやっているもんで)。「人間と発達を考える会」主催、清水真砂子さんの講演会準備(皆さーん、ぜひ、いらしてくださーい。3月21日ですよ)。そして飢餓陣営の最終編集。その合間を縫って、3月1日の月曜には、日帰りで、仙台の宮城教育大学に取材に行って参りました。感銘深いものがありましたね。

・・・というわけで、なかなかナイスな日々ではありませんか。ありがたいことです。この御時世に、いろいろとお仕事があるというわけですから。でも、目下開催中の長谷川等伯展に行く時間が取れず、少々ヤキモキ。

そんなか、今週は、飢餓陣営の編集作業を、まずは最優先させ、リキを入れて(リキって死語か?)取り組みました。このハイテク時代に、切り貼りをして版下を作っているのですから、バカですね。でもやっと4日の夜、なんとか終了。無理に集配に来てもらって、版下を宅配にて送付。急いで紙の手配も済ませました。

すると本日、印刷屋さんから電話。「受け取りました」とのこと。「えっ、もうですか」(さすがヤマト、仕事が早い)。いくつか細かなことを確認すると、「来週にはあがります」とおっしゃる。「えっ、そんなに早く」と思いましたが、早いに越したことはありません。ただし来週はハード。家を空ける日が3日もあります。「金曜は家を空けますので、土曜に届くように手配してもらえませんか」と伝えると、快諾。

喜んだのも束の間。そんなことならば、これから、今度は発送作業の準備に入らないといけなくなります。発送の準備も、いろいろと段取りがあって・・・。でもやらないとね。ここでサボッてしまうと、せっかく出来上がったのに、お手元に届くまでまた時間がかかってしまいます。

・・・そういうわけで、飢餓陣営35号の編集作業を終了し、今、印刷屋さんに回っています。



2月26日(金)
●飢餓陣営35号の読みどころ

1年間の長きに渡ってお待たせしていましたが、やっと、完璧に近い布陣がそろいました。目下、最終編集に入っています。3月第1週目には印刷の方に回したいと思っていますが、何せこんな調子ですので、いましばらくお待ちください。なお、定価を800円に値下げしようかと思っていましたが、今号は250ページの増大号になりますので、申し訳ありませんが据え置かせていただこうかと考えています。あしからず御了承ください。

飢餓陣営35号
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・橋爪大三郎のマルクス講義 (第1回)
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(読みどころ)
第1回目のサブタイトルは、「マルクスは現代の貧困を救いうるか」です。橋爪先生は、インタビューの冒頭でいきなり「マルクスはバカでかい山だ」と言われました。確かにおっしゃるとおりだと思いましたが、ではいったい、どのように大きな山なのか。1回目は、その概要を、大づかみに話していただきます。橋爪先生らしく、的確に、簡潔に、マルクスの思想のポイントが語られ、鮮やかなイメージとともに「でかい山」が現れてきます。

加えて、昨年の金融恐慌以来、ますますグローバル化する世界がどこへ行こうとしているのか、日本はどうなるのか、という不安がひときわ増しています。そんな中にあって、これからの見取り図を描くべく方向性が、マルクス思想との対比とともに語られていきます。『「炭素会計」入門』『洋泉社・新書y)で見られたように、大胆で、ユニークな着想にあふれています。・・・これが第1回目のインタビューのアウトライン。スリリングですよ。

第2回目は「資本論」以前のマルクス、前期マルクスとでもいうべきテーマで語っていただこうと考えています。マルクスは、ヘーゲルにどう決着をつけようとしたのか。「国家と宗教」の問題をどう押し進めようとしたのか、といったあたりが主たるテーマになるかなと思います。
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[シリーズ・人間学アカデミー]
・佐伯啓思・・・人間と貨幣(3)
・池田清彦・・・人間という生物の自由と不自由(3)
・菅野覚明・・・日本人にとって宗教心とは何か(3)
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(読みどころ)
3人の方々ともに、最終回です。連載の講義原稿ではありますが、きちんと読みきりの構成になっています。お三方ともに、専門知の蓄積は抜群ですし、この号から手にした方でも、面白く読んでいただけること、請け合いです。

佐伯先生の講義は、貨幣と贈与交換の関係から始まり、貨幣が国際経済の中でなぜ信用をもたれるのか、90年代のアメリカ経済とは何であり、日本とどのような関係にあったのか、などが語られていきます。ケインズ理論についての講義も途中にはさまれており、橋爪先生のマルクス学説と比較して読まれると、面白さがさらに増すはず。

池田先生の講義は、生物の進化と生殖の話です。どうしてこんな不思議な生殖の戦略を採っているのか、本当にさまざまな生物がいることに驚きます。それとともに形態の問題。シンプルで美しいとよく言われますが、「自然」は、驚くほどのデザイナーです。池田先生は新著『38億年 生物進化の旅』(新潮社)も出されましたし、読み比べる楽しみが増えました。

菅野先生の3回目の講義は、道元の『正法眼蔵』について。仏教について学ぶとは、解釈をしたり、知識をつむことではない。教えをそのまま実行することだ、という正当な仏教観をはさみながら、『正法眼蔵』についての講義が進んでいきます。「問い」と「行」がキーワードでしょうか。今回も正攻法の豪速球です。
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[人間と発達を考える会から]
・西研・・・感覚・知覚の問題 ― フッサールの知覚論から
・滝川一廣・・・発達障害の人たちの感覚・知覚世界
・小林隆児・・・原初的知覚世界と関係発達の基盤
・内海新祐・・・自閉症論を読む(2)
・愛甲修子・・・現象学的発達障害論の試み(1)
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(読みどころ)
西、滝川、小林の三先生方の原稿は、「人間と発達を考える会」第2回目の講演を基にしたものです。フッサールの知覚論を西先生が語り起こし、まず、知覚とは何かというフォーマットを作ります。同時に西先生の、「フッサール現象学入門」といった趣を持つ原稿になっています。

そこに、今度は滝川先生が、人間の発達という観点を加えながら、知覚・感覚の問題に迫ります。「緊張と不安の強い世界体験」の読み解きです。滝川先生が、知覚の問題についてここまでまとめて述べてくださるのは初めてのことではないでしょうか。さらに言葉の問題を加え、100枚を超す大論文になっています。滝川発達論の集大成に向けて、ゆっくりとスケールアップしているようです。

最後に小林先生が、臨床的アプローチを前面に出しながら、知覚と感覚の問題に迫ります。小林先生のお立場は関係発達論。あくまでも「母−子」の関係に着眼しながら、まず発達障害を持つ子どもたちは「原初的知覚」ともいうべき感覚世界に生きていること、そこが適切に把握できないとき、「母−子」をはじめとする人との関係に重大なずれが生まれ、そこからさまざまな「ミスマッチ」が生じてくる、と論を進めていきます。

三先生の講演を通して伺っていたとき、目論見はこれ以上ないほどうまく行ったな、と一人でニヤニヤしていました。
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[連載]
・勢古浩爾・・・石原吉郎 補遺(最終回)
長きに渡ってお付き合いいただき、ありがとうございました。『まれに見るバカ』が大ヒットし、超売れっ子になった後も、嫌がらずにゲラ校正などをお付き合いいただきました。

・木村和史・・・家を建てる(1)
・倉田良成・・・日本の絵師たち(3)
・浦上慎二・・・古書会読(17)
・柏木大安・・・温暖化論争を解体する(2)
・唐沢大輔・・・萃点の思想、その可能性について−南方熊楠(2)
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・中村武光・・・裂き烏賊のにおい(15首)
・松田有子(文)・くろいわひさお(写真)・・・東京ふらふら文学散歩(第3回)田端文士村編
・ボロ酔い日記(2009・4〜12)
・佐藤幹夫・・・(『世界』より転載)ドキュメント千葉・東金事件
・佐藤幹夫・・・(東京新聞」より転載)ブックナビ
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2月20日(土)
討議「宿泊所問題」の何が問題か・・・でしゃべらせてもらったこと

以前アナウンスをした2月11日の、ふるさとの会での討議、なかなか盛況だった。ゲストスピーカーとしてお招きを受けていたが、残念ながら「座っているだけ」というわけにはいかなかった(当たり前だよね)。10分ほどの持ち時間をいただき、話をさせてもらった。内容は以下の4点。

1.「認知症高齢者の地域生活をどう支援するのか」というテーマでここしばらく取材を続けてきたが、そこで自身の課題としてきたこと。

(1)他職種を巻き込んだケアの地域連携をどう作るか。
地域連携はいまや基本テーマであり、医療(病院と診療所、訪問医療・看護)と介護の(ホームヘルパーやデイサービスなど)、ベイシックな連携は多くの場所で試みられている。こうしたスタイル以外にも、工夫のしどころはないか。たとえば連携が雇用に結びつくというスタイルはつくれないか。ハローワークが絡んでくることはできないか、などなど、知恵を出し合う余地はたくさんある。

(2)「ケアする人のケア」
連携がなぜ必要か。ネットワークは「ケアする人のケア」、という役割も担うだろう。(逆に「ケアする人のケア」「介護する家族のケア」となるためにも、連携が必要だということになる)。ともあれ、認知症の人を介護する家族への支援は急務。手をこまねいていたら、共倒れ(虐待、介護殺人などの悲劇)の増加につながりかねない。

(3)認知症は進行する疾患である。介護者への暴力行為、激しい妄想、無断外出が度重なると、家族の手には負えなくなる。どこかで施設介護へと切り替えることになるが、その判断をどこでするか。
・家族の介護力は(まだ)どれほどか。
・御本人が施設入所したさい、適応できる力が残っているかどうか。
この2点を、掛かりつけ医とともに決定することが大事だという(ある医師への取材から)。

(4)認知症の人の終末期医療の問題
そもそも高齢者の終末期医療をどこから始めるか、という点からして、いまだ合意形成がされていない(ここには、延命治療の問題、安楽死、尊厳死の問題が控えている)。認知症のために意思確認できなくなったとき、終末期の判断をどうするか。医療をどう提供するか。それを、誰が、どこで判断するのか。現在進行形の問題として、多くの認知症の方が亡くなり、医師はそれになんらかの対応しているはず。議論が始まらないということは、この問題がタブー視されているからではないか。

2.宿泊所問題に関連して−生活支援の中の「住」の重要さ
生活支援とは何かと問われたとき、「食べる」「排泄する」「眠る」「清潔を保つ」「アクティビティ」の5つとして私は捉えている。安心、安全な「住まい」を提供する支援とは、この基本ケアを成り立たせるためのケア、いうならば「ケアのためのケア」という意味を持つ。それほどに重要なケアであると思う。「宿泊所問題」は制度の問題として浮上しているが、「ケア論」という観点からも重要な問題である。

3.雇用創出について
4.「ケア論」執筆、途中経過からの報告
(上記の2点は、わたくし自身の考え方を、もう少し追い込んでから御報告申しあげたい)。

●洋泉社の石井慎二社長、2月12日逝去。16日のお通夜に参列する。
洋泉社の社長、石井慎二氏が2月12日逝去され、16日夜、お通夜が執り行われた。雪のちらつく日、中野に出かけ、御焼香をしてきた。享年68歳。 それにしても、もの書きをなりわいとするようになって10年、「一通り、やれることはやった。これからふた回り目に入る」と感じていた折り、不思議な巡り合わせを感じる。

『自閉症裁判』というタイトルの名付け親は、じつは石井社長である。当初、私が考えた書名は、『レッサーパンダ帽の男 −ある自閉症青年の罪と罰』というものだった(二つのタイトルを並べてみると、今にして、切れの違いが歴然としているな、と思う)。

会社がまだ、神保町にあったころ。タバコ室にいると、石井社長が入ってこられた。そして「佐藤さん、今度の本で、ここだけは他の本とは絶対に違う、というセールスポイントはなんだろう」と尋ねる。とっさのことで迷ったが、「日本ではじめて、自閉症をテーマにした刑事裁判のノンフィクションであること、だと思います」と答えると、「そうか」といって何事かを考え始めた。

少しして、タバコ室からの帰りに私のところに寄ってこられ、「本のタイトルを、『自閉症裁判』にしたから」と一言いい、デスクに戻って行かれた。私は驚いた。そうとうショッキングなタイトルだった。しかし担当編集者の小川哲生さんも、「いいんじゃないか。すごくいいタイトルだと思うぞ」という。

おかげで『自閉症裁判』はヒットした。タイトルのインパクトが売り上げに与えた影響は、おそらく大きなものがあっただろうと思う。今、わたしが細々ながら食いつないでいられるのは、この本のおかげである。このタイトルのおかげかもしれない。

出版不況のさ中にあって、さして売れるとも思えない私の本を出し続けてくださったこと。『自閉症裁判』というタイトルをつけてくださったこと。決して小さなご恩ではないのである。

教員を辞して10年になる少し前、父親が他界した(これまでは、阿呆な息子が次は何を仕出かすかと気がかりで、おちおち死んでもいられなかったのだろう)。そして1年を経て、石井社長も亡くなられた。わたしを世に送り出してくれた小川哲生さんは、この3月で、編集者稼業からきっちりと退職されるという。わたしはこれから、文字通り自力で生き延びていかなくてはならない。

ふた回り目に入ったとつくづく感じるのは、以後の仕事をどう展開するか、という職業的事情からだけではなく、このような、わたくしを支えてくれた方たちの動向にも、とても因縁めいたものを感じるからである。人生の節目となる出来事が一気に現れてきた、といってもいい。還暦とはよく言ったものだと思う(少しだけ早いが)。

先ほどの話のどこかで石井社長は、「今どきノンフィクションの本で、500枚も600枚も書けるのは、佐野眞一とかあの辺の大家だけだぞ、佐藤さん」とも言われた。どのタイミングだったかは、もはや定かではない。けれども、笑顔を見せておられたことは覚えている。ありがたかった。合掌。



2月15日(月)
●ノンフィクション作品のさまざまな「手触り」
最相葉月氏は、今や日本を代表するノンフィクション・ライターの一人と申し上げてよいかと思う。「サイエンス・ノンフィクション」という御自身のセールスポイントを持っておられることもさることながら、文庫になったエッセイを拝見すると、「文士魂」とでも呼びたくなるハートをお持ちの書き手である、と私は感じる(文章に、ものを書く人間の気迫やガッツがにじみ出ていると思いませんか)。

その最相さんの新作
『ビヨンド・エジソン』(ポプラ社・1500円)は、12人の科学者に12のテーマを取材したサイエンス・ノンフィクションである。世界の最先端で闘う科学の知性が描かれるが、注目したいのは、第1章の寄生虫学から第12章の脳神経科学まで(古生物、農業気象学、地震学、音声工学、ウィルス学、物理学、情報科学、生物物理学、宇宙科学などの)広汎なテーマに挑み、咀嚼していく著者の力業。もう一つは、サイエンス・ノンフィクションとして読者に用意した作品上の仕掛けである。

著者は、科学者たちに幼少期に感銘を受けた伝記を一冊選んでもらうことと、若き時代に生涯のテーマや師とどう出会ったか、二つを語ってもらっている。そしてこの問いは、「なぜ自分は科学を生涯の仕事として選ばなかったのか」、というご自身の実存的問いと地続きになっている。ここに、この作品の大きな特徴を見たいと思う。

どういうことか。

「最先端の科学知性を主題としたノンフィクション」という器(様式)をフルに活用しながら、「なぜ人は科学を生涯の仕事とするのか。生涯のテーマとどこで、なぜ出会うことになるのか」という実存的問いにも答えようとした、野心あふれる力作だと思えたのである。当然こうした仕掛けは、「科学者への招待」という役割も担うことになる。

もう1冊。こちらはタイプがまったく異なる。
出井康博『長寿大国の虚構』(新潮社・1500円)。テーマは、サブタイトル「外国人介護士の現場を追う」の通りであり、介護を題材とした本格社会派ノンフィクション。取材が行き届いている、という印象をまずは受けたが、単調で無味乾燥な情報の羅列ではない。

日本の介護が絶体絶命の難所に来ていることは、周知のとおりである。著者がくり返しているように、このままでは少数の富裕層を除き、絶望的な「介護難民社会」に突入しかねない(とくに団塊世代亡き後の日本社会は−10年から20年後くらいか−惨憺たる状況となることが、おおいに予想される)。

それはすでに一部で現実化しており、(前回雑記を参照していただきたいが)行政頼みではない仕組みをどうつくるか、自分で自分の身を守る仕組みをどう作るか、知恵を出し合う必要がある。この本がきっちりと描き出しているように、官僚のトップを占めている団塊世代の人々は、そんな先のことまで考えて制度設計していないのだから(たぶん)。

物価の安い海外が逃げ場とならないことも、著者の前著『年金夫婦の海外移住』で指摘されている(こちらも、とくに中高年男性にとって重要なテーマだろう)。解決の方向性を見出していくのは難儀だが、まずは多くの人が関心をもつことから始めるしかないと思う。


次は若い書き手によるノンフィクション。
柳川悠二『最弱ナイン』(角川書店・1500円)は、通信制高校に在籍する生徒たちの反スポ根?野球ドキュメント。彼らは不登校、引きこもり、精神失調、ドロップアウトなど、様々な事情を抱えた再挑戦組である。発達障害と思しき生徒も少なくない。

しかし著者はいわゆる「教育ノンフィクション」や、「障害者ノンフィクション」といった社会派のドラマとはせず、あくまでも軽いタッチの青春ドキュメントとして描き切っている。ユーモラスで、時に哀切な描写。エンターテインメント性。軽いタッチで、重いテーマを重くならないように描く。それが本書の最大の美質だと思うし、(上から目線になってしまうが)「ハンディキャップ」の描き方の「成熟」を示しているとも思えた次第。

最後にもう1冊。こちらは新作ではなく復刊ではあるが、森崎和江『慶州は母の呼び声−わが原郷』(洋泉社MC・1600円)。上記3冊と比べるように読んでみた。当然だが、手触りがまったく異なる。ルポルタージュというよりも、自伝文学であり、朝鮮半島の昭和史である。

今回再読し、そうかそういうことだったのか、と思えたことがあった。遅きに失する感がなくもないが、著者と、半島(の人々)との「距離」のとり方」についてである。自身の出自を語ることが(言い換えるなら、なぜ私はかくあるのか、について語ることが)、半島(の人々)について語ることであり、半島について語ることがおのずと自身を語ることになる、という、書くことと主題にまつわる「距離」についてである。社会派でありながら色濃く実存的である。

私自身の「シリメツレツ」を語りながら、(森崎さんが「シリメツレツなのではありません。念のため)、社会についての強烈な問題提起ともなるような作品。そうか、私が書きたがっていた方向は、そういうことだったのだな、とあらためて確認した次第(次作は、そういうケア論にしたい)。

  *この文章は、2009年」10月4日東京新聞掲載の「ブックナビ」の原稿をもとに、加筆改稿した。