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〈批評の現在進行形9〉
「福田和也」は何処にいるのか『日本人の目玉』(新潮社)『現代文学』(文芸春秋)ほかを読む


 福田和也という書き手は、けっして「地雷」を踏まない批評家である。『現代文学』や『南部の慰安』(文芸春秋)『日本人の目玉』(新潮社)のような本格的に文芸を論じた著作はもちろんのこと、『作家の値打ち』(飛鳥新社)とか『罰あたりパラダイス』(扶桑社)のように、一見暴論やアジテーションが売りに見える仕事の場合でもそうである。「言いたい放題」を吐きながら疾駆しているという印象を与えながらも、読み終えると、見事に地雷の間をかいくぐっていると知らされる。福田は自らを「トラブルメーカー」とどこかで称していた記憶があるが、しかしもしそうであるなら、それは周到に、地雷を踏まずに進むトラブルメーカーである。

 このことはつぎのように言い換えることができる。福田が同世代の書き手にあって抜きん出ていると感じさせるところは、自己演出力であり、自身の言説をメディアにおいてプロデュースし、或る渦をつくるその力量ではないかと思う。たとえば、香山リカとの対談、宮崎哲弥との対談を読むとき、それはよりはっきりと現われている。「同世代の気鋭」同士の対等な鍔迫り合い、といったつくり(編集)がなされていても、福田がこしらえた渦に吸引されているといった感がどうしても否めないのである。

 もうひとつ福田の仕事を読むとかならず訪れる印象は、「なにを素材としても書くことができる、どのようにでも書くことができる」という自負を行間から読み取ることができることだ。保田輿重郎を論じれば保田風の幻惑的でイロニックな文体を、小林秀雄を論じれば小林風の断定的でアクロバティックなレトリックを、また中上健次を論じれば中上の「歌い上げ」を、ときに二重映しになって読まされている、と感じることがある。しかし福田はけっして対象と「同調」しているわけではない。しかしまた、単に批評対象を模倣しているわけでもなぞっているわけでもない。

 したがってこの「なんでも、どのようにでも書ける」という印象は、つぎの感慨も呼び起こしてくる。たとえば私にとって、保田を論じるときには橋川文三や桶谷秀昭が、小林秀雄を論じるときには江藤淳が、どうしても避けられない指標として存在している。この「避けられない指標」はむろん個人的なものであるし、だからどうしたと言われれば、いやそれだけのことだ、と答えるしかない体のものに過ぎない。

 しかし、日本の近代を論じ続けた橋川や桶谷や江藤がもっていて、福田にはないものがある。それは間違いなくある。その大きな落差は、戦後日本の批評が歩んできた何事かを語っているのではないか、というそのような感慨である。福田の『日本人の目玉』が大変に優れた仕事であることを認めてもなお、この落差の方が私には気になってしまうのである。これを旧世代への批評へのノスタルジックな感慨と受け取られてしまうことは本意ではないので、失笑されるのを覚悟で以下のような仮説を記してみる。

《思いがけず日本語で文章を書くようになって、否応なく私は日本の批評と出会い、出会って戦きに近い気持ちを抱いた。/明治以来の批評文から、西欧の思考と等価であると称する現役の批評家まで、寸分変わらない姿をしているように、私には思われた。そして誰もがその姿に馴染みつつ、その気味悪さについて語らないのが異様に思われた。(略)/といって、私が云う日本の批評文の不気味な姿とはどのようなものなのか、という事は簡単には言えない》。

『日本人の目玉』の冒頭に記された文章である。ここで言われている「現役の批評家」とは暗に柄谷行人を指すのだろうが、たいへんに「率直」に福田の「本音」が吐露されている。福田が柄谷への批判とともに登場したとき、その批判はこの「気味悪さ」に向けられていたはずである。西欧の思考と寸分も変わらない「ポスト近代」を称する批評が、明治の批評文とまったく変わらないことを自覚しない(できない)あり方。これを言い当てたことは福田の炯眼というべきだろうが、しかし批判は柄谷一人の責に帰することはできない。むしろなぜ福田に、このことが見えたのか。それが「見えた」ことは福田の批評の優位を語っているのか。それが見えるためには、批評を批評たらしめていた何事かの欠落を代償としなくてはならなかったのではないか。そのように問いを反転させることも可能である。そして、もしそこに欠落があるとしても、それもまた福田一人の責でないことは明らかである。

 文芸の批評はおそらく、自覚するとしないとにかかわらず「日本近代」を主題として内在させずにはおかなかった。むろんその文脈やアングルや、西洋の思潮や批評方法からの影響による濃度の相違はあった。また時代によっても個人によっても濃淡はあった。個人、自我、家(家族)、恋愛(性愛)、歴史、政治、というように、主題それ自体はさまざまなヴァリエーションを見せてきたのだが、そこには自ずと「日本近代」というもう一つの主題が論じられていた。批評の近代、あるいは文芸の近代、どういってもいいが、福田の世代は、おそらくここに決定的な転換があった。この転換をもたらしたものが、一九七〇年代半ばから八〇年代以降に生じたであることは、いまさら指摘することもないことである。もう生きられる主題としての批評の近代はない。文芸の近代は存在しないのである。

 このようにして福田の『現代文学』を見てみると、ある複雑な思いがやってくる。中上健次、村上春樹、大江健三郎、柄谷行人、石原慎太郎という文壇の大御所を論じたこの著作は、福田によって歌われた「挽歌」ではないかと思えてくるのである。福田の立ち位置ははっきりしている。批判するにしろ賞賛するにしろ、ここではきわめて正統な「文壇批評家」としての作法を守っている。そのように自己を演出している。しかし、文壇批評家としての正統性が演出されればされるほど、これはやはり、かつてあった「文壇文学=純文学」への葬送儀礼の書物なのではないかという思いが強くなる。そのような書物に『現代文学』と名づけたことも、一切を蹴り倒そうとするかのごとく大竹伸朗のアニメチックな装画を使用した装丁も、なかなかに意味ありげではある。

 福田は、この何もないところで再び見出されたのが「日本」であると、あとがきに書き付けている。《かような場所において、批評が何よりも自意識としての、宿命としての「日本」への帰還を問いかけ、問いかけると同時にその帰還の不可能性を、帰郷の断念を語らねばならかったことは自明とさえ云うべきではないか》。この「日本」が以下に空虚なものであるかなど、福田自身はとうに自覚しているだろう。すでに自己プロデュースとともになされる福田のアジテーションは始まっている。

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