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〈批評の現在進行形7〉
「純」文学から「サブカルチャー」文学へ?――大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)を読む


 大塚英志の『サブカルチャー文学論』は、近年稀に見る刺激的な文芸批評の一冊である。卓抜な着眼と忌憚のない言辞。それが本書の魅力ということになるのだろうが、六五〇ページに渡るこの大著を、あたかも推理小説を読むような面白さのなかで一気に読了することができた。

 正直に言って、大塚や中森明夫、いとうせいこうなど、八〇年代に登場した「新人類」の書き手たちに、私はよい印象を持っていなかった。業界事情とトレンドへの目配りに長け、小才の利いたことを言ってはいたが、だから何なのだという思いを拭えなかった。そして「ぼくは」という主格で始められる特有の饒舌な文章が、生活に沈潜し、読書のための二五時間目の時間をどうひねり出すかと四苦八苦していた身には、なんとも耳障りなものでしかなかった。大塚のこの大著への評価を人づてに聞き及んではいたのだが、じつは二の足を踏んでいたというのが実情である。

 しかし読み進めながら、これは文学の内部で書かれる「文壇文芸批評」(大塚は「文芸誌的文学」とか「文壇的文学」という言い方をしている)へ叩きつけた挑戦状だな、と感じ続けていた。しかも相当な劇薬のこめられた挑戦状である。利権と保身と政治を第一とする文壇共同体からはけっして生まれることのない批評である、とひとまずは言っておこう。この国の過半の「知」の領域は相も変わらず内向きであり、紛れ込んだ領域外のストレンジャーは、礼儀正しく無視黙殺されるのが常である。本書が文学共同体の内部でどんな評価を受けているのか私は知らない。しかし江藤淳、大江健三郎、村上春樹、石原慎太郎といった「文壇大御所」へ、ここまで踏み込んでなされた内在的批評が(むろんそれは、ときに徹底した批判である)どのような遇され方をするのかは容易に推測される。



 さて、本書について述べるためは、大塚の言う「サブカルチャー文学」とは何か、という点への言及が順序だろうが、これはそうたやすいことではない。私などは、サブカル批評の先駆者である大塚英志が、「サブカルチャー」と頭についた文学論を著す、となれば、自ずと内容への連想が働いてしまう。おそらく多くの読者もそうだろう。しかし、「序――サブカルチャーである、ということ」を読むと、「本書は文学のサブカルチャー化という現象を扱ったものではない」と書き、さらには、ここで言う「サブカルチャーとはある具体的な文化領域を示す語ではない」ともくり返され、まずは冒頭で、私を含めた多くの読者が持つだろう先入観に楔が打ち込まれる。

 そしてさらに意表を突かれる思いがするのは、これは江藤淳の問題を引き受けるものである、と宣言される点である。江藤淳こそサブカルチャーを厳しく峻拒し続けてきた批評家ではなかったか、という次の先入観が斥けられるのだが、ここからが一筋縄ではいかなくなる。「むしろ江藤の批評は『サブカルチャーとしての文学』をいかに彼自身が肯定していくかに主題があった」。「江藤の中でサブカルチャーという問題は『近代』ないしは『戦後』と不可分の問題としてあり、それはおそらく『仮構』という言葉に置き換えられる質のものだ」とか、さらには、江藤がサブカルチャーを論じるとは、「『本当の歴史』や『本当の文学』を夢見ない一つの倫理的態度としてあった」とも記されている。

 少し言い換えてみる。ここで「本当の文学」といわれているものは、おそらく「純文学」と呼ばれてきたものである。それがかつては確固として存在し、今もどこかにあると夢想し続けるあり方。これを斥ける倫理的な態度を、大塚は「サブカルチャー」なる語に託そうとしている。なぜそれが倫理的と言われるのか。大塚はまた一方で、「超越性や全体性への欲求」に対してきわめて警戒的であるのだが、ここには言うまでもなくオウム事件を潜り抜けた影が色濃くある。オウム体験とは、「名づけようのない新しい現実」を全体性や超越性として体験しようとした過度の欲求に根ざしており、大塚はこのことを、「本当の文学」を夢想するあり方と相似と見なしている。言ってみれば純文学とは、超越性や全体性にこそ文学の普遍的課題がある、という視線に支えられた、あるいはそれを第一義の倫理として内在させた文学の謂いであるからだ。

 つまり「サブカルチャー文学」とは、従来の文学観、文壇的文学観への、根底からの視線変更ということになるだろうし、従来の文学の価値や倫理とされてきたものを、江藤の批評にさかのぼって相対化しようとしたものだ、と言えるだろう(ここで江藤を引っ張り出しているところが、大塚の曲者振りを語っている。私などは、これは福田和也を相当意識して書かれている、などと、つい、勘繰ってしまう)。かつて、あるものたちが「純文学」を世界に対する態度として選び取ったように、大塚は「サブカルチャー文学」をその位置に据えようとしている。「サブカルチャー」なる語に、価値転換を託そうとする大塚の立場に全面的に賛意を表することはできないものの、言わんとすることはそれなりに理解できる。



 冒頭でも述べたように、本書の醍醐味は作家一人ひとりへの言及にある。詳しく述べる余裕はもはやないが、ここで大塚の批評背景を強引に類型付けるなら、次のようになる。一つは、これまでのマンガ批評家、サブカル批評家としての蓄積からもたらされた着眼と批評的ロジック。これは吉本ばななや山田詠美を論じた章、また「キャラクター小説」を論じた部分によく現われている。もう一つは、編集者としての勘の鋭さを強く感じさせたところ。幻冬舎文学と村上龍を論じた章は言うまでもなく、庄司薫に村上春樹の出自を探し当てたり、三島由紀夫の美意識をディズニーランドから説き始めたり、大江健三郎と三島、江藤、伊丹十三という三人の自死者を結びながら、大江がいかに「歴史」や「仮構」の問題を回避していったかと指摘したり、震災後の文学が露呈した脆弱さへの言及などは、編集者・アジテーターのそれである(有能な編集者とは有能なアジテーターでもある)。三つめは民俗学の訓練がものをいっていると感じさせる件。村上春樹と謎本や年代記の問題、永田洋子から川上弘美を経由し、吉本ばななを対比させながら「物語」とその語り手を論じた部分。ここでは物語論や記号論、構造論などの現代思想にはおなじみの批評アイテムが多用されるが、民俗学の発想は、もともとそれらとは「相性がいい」のである。これらの批評方法が適宜呼び出されながら、有機的に関連して、大塚ならではの言説空間が展開されている。

 最初に私は、文壇文学の内部からはけっして生まれない批評だと書いたのだが、こうした批評のあり方が大塚を優位に立たせている(少なくとも大塚自身にそう感じさせている)ことは間違いない。しかしそれが決定的に優位かどうかは、いま少し検討される必要がある。


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