〈批評の現在進行形2〉04/07/05 文芸批評の至福と孤独――加藤典洋『テクストから遠く離れて』『小説の未来』を読む 加藤典洋が今回上梓した渾身の二著を読んで最初に訪れたのが、きわめて素朴な感想だった。ひとつには小説への愛着の強さと大きさであり、ふたつ目はあくまでも小説が立ち上がってくる現場へ下り立って読み解こうとする「読み」の構えであり、このことに強く共感を覚えた。これらは次のことを推測させる。加藤もまたある時期に小説を読むという魅力にとり憑かれ、他のことは要らないからそれだけで人生を過ごせないものかと考えてしまうぐらいヤラレタ経験をもつのではないかということ。しかし文学の魅力とは魔力でもあるから、それが重症であるほど、生きることに不可欠な、肝心なものの欠落とか逸脱とか、苦い場所に追い込まれることになり、そこでのジタバタも、加藤はそうとうに経験しているのではないかということ。しかしおそらく、この深入りとジタバタという授業料こそが加藤の読みに大きな厚みをもたらしているのであり、それは小説のもつ機微にどこまで触れることができるかどうかの岐路でもある。 もうひとつは読むことに匹敵する(あるいはそれ以上の)エネルギーを、小説を「書く」ことに費やした時期をもつのではないかということである。なぜそのような推測をしたくなるのかと言えば、作品を読んだあとに浮かんだ感想や思念が、加藤という読み手主体から小説という形式のなかにもう一度返されている、いわば単なる感想や思念の分析的表出ではなく、小説という形式のなかで外化されているのである。この作品世界は小説という形式の特性のどの部分をもっとも活用しようとしているのか。この作品世界はどの特性を活用すれば、もっともよく小説という形式が駆動することになるのか。そのように、小説から受け取ったものをもう一度小説に送り返す、そのような読みがここでなされているのだということになる。小説に対するこうした「読み」の臨床的な技術は、どう理論武装をするかとか、どこまで「学」の蓄積を積み上げるか、ということとは、まったく別のところからもたらされるものである。 ところで、加藤本人も明記しているように、竹田青嗣の『言語的思考‐脱構築と現象学』(径書房)によって理論的支柱を得たことは、加藤に原理的考察への展望を与え、踏み出すきっかけとなっただろうが、私にはそれと同様に、あるいはそれ以上に、高橋源一郎による『日本文学盛衰史』(講談社)のインパクトが大きく作用しているのではないかと思われたのだ。私もまたこの作品に激しい感銘を受けた一人なのだが、高橋の壮絶な闘いが、加藤を小説の現場へ戻ることを強く動機づけたのではないか。明治の作家たちを材としたこの作品は、パロディあり、批評そのものあり、伝記的事実あり、作者の実生活ありと、例によってポスト・モダン的荒唐無稽そのものなのだが、ここでも高橋の文学に対する愛着の強さと大きさは際立っている。むろん高橋源一郎という作家のもつ批評性と文学への危機意識は抜きん出ており、それが瓦礫のなかで種を植え、水を与えるような作業であることの悲喜劇を、高橋は熟知しているはずである。加藤は批評が挑戦を受けている、という書き方をしているが、おそらく、そのようにしてなされた高橋の営為の意義を救い取ることができなければ、文芸の批評家として文学にも高橋にも面目が立たない、そう加藤を促したのではないか。これが三つ目の推測である。 ここから『小説の未来』への感想となるべきなのかもしれないが、しかし私には、加藤の読みの職人技を、とりあえずは虚心に楽しめばよいのではないかという思いが強い。私自身のことでいうならば、ここで取り上げられている作品について、ノートを作りながら少しばかり丁寧に呼んだ作品(『アムリタ』『スプートニクの恋人』)、読んではみたが、なかなかうまくその核心を言葉にしかねていた作品(『季節の記憶』『センセイの鞄』『希望の国のエクソダス』『季節の記憶』)、いつかはしっかりと論じてみたいと感じた作品(『ニッポニアニッポン』『日本文学盛衰史』『取り替え子』)、まったく未読の作品(その他。加藤ももとの作品を読まずとも楽しめる文芸批評を書きたい、と記していたし)という準備で臨んだ。むろんすべての見解に共感したわけではないし、そんなことはありうるはずもない。いくつか異論はもつが、加藤の読みに不満なら自分で書いて見せればいいのであり、まずは小説への愛着の大きさを存分に感じ取ればよい、というところに、どうしても落ちついてしまうのである。 * 小説への愛着とか人生の逸脱とか、もう誰も口にしないようなことからはじめているのだが、ここから次の感想となる。九〇年代、文芸批評から遠ざかっていた、という主旨のことを加藤は記しているが、その感覚は私も共有している。ベルリンの壁崩壊以降、阪神大震災、オウムサリン事件、少年犯罪、経済不況とつづく激しい時代の変動は、文学のインパクトをまちがいなく失わせていた。大江健三郎や古井由吉が存在感を示し、両村上や吉本ばななが奮闘していたことは確かだが、文学全般の地盤沈下を明らかにしたのは、まちがいなくこの九〇年代だった。一方、ニュークリティシズム以降のテクスト論批評やフェミニズム批評とやらの、海外の最新理論の輸入に忙しいという、相も変らぬこの国の知の風景が、文芸批評において前面にせり出してきたのも九〇年代である。ちなみに丹治愛編『批評理論』(講談社選書メチエ)を覗いてみると、精神分析批評、脱構築批評、マルクス主義批評、フェミニズム批評など、七つの新しい批評理論とやらが紹介されている。一読、昔からやっていることじゃねえか、と私には思えた。 土居健郎の『漱石の心的世界』は精神分析批評の最たるものであり、土居は精神科医であるから当然であるとしても、中村光夫による心理分析は定評があったし、江藤淳の批評はときにフェミニズム批評に通じたものだと言えなくもない。花田清輝などはさしずめ脱構築批評の先駆だろうし(笑)、マルクス主義批評には三浦つとむがおり、さらにたどれば石川啄木の『ローマ字日記』がある。吉本隆明の『言語にとって美とは何か』はもちろんのこと、漱石の『文学論』でさえ十分に構造論的ではないか。私の杜撰な頭ではそうなる。半ば冗談めかして言っているが、そのように分類すべきだと言いたいのでも、分類できると強弁したいのでもない。新しい批評理論とは、それまでの批評が内在させていたある傾向を集中的に取り出し、方法として先鋭化させたものである(ものにすぎない)。先鋭化させたところこそ知の新しい発展があると意義を見出すのか、歴史的蓄積のなかで相対化し、それをもう一度全体の布置のなかに収めようとするのか、その差にすぎない。何が「その差」をつくるのか、なぜ若い世代のリアリティがそちらに向かうのか、それはそれでまた不可避な根拠があるに違いない。ともあれ「その差にすぎない」新しい批評理論とやらが、なにやらご大層なものとしてありがたがられている。これがいま私たちが目にしている文芸批評の光景である。 そして加藤の『テクストから遠く離れて』は、その新しい批評理論の中心であるテクスト論への批判というかたちで始められている。丹念にバルトやデリダやラカン、フーコーを読み、そのもっとも基本的、本質的なところが批判されているのだが、加藤も自負するとおりそこにとどまらず、「読む」ことや作品と作者について、言語や小説という様式のもつ構造についての原理的考察となっている。前述したように、ここでの加藤を支えているものは竹田青嗣の『言語的思考‐脱構築と現象学』である。加藤はその画期性を、ソシュール言語=記号論の開いた「形式化」は「決定不能性」「言語の謎」という難問をもたらすこととなったのだが、竹田はそこに明瞭な解答を与えたという点に見ている。しかし、私が関心を惹かれたのはむしろ次のことである。加藤は、ソシュールによって古いとされた吉本隆明の言語論(『言語にとって美とはなにか』)が竹田の仕事で橋を架けられており、ソシュールと吉本の言語論は対立的にではなく重層的な観点から見られる必要があるとしている。この示唆から私が捕まえた感想を端的に述べるならば、竹田言語論は吉本が切り拓いた言語の「意味」の領域に大きく足をかけて展開され、「虚構言語」や「換喩」などをキーワードとする加藤の『テクストから遠く離れて』は、同じく吉本の、言語や文学作品の「価値」の問題を展開し直したものだということになる。 《言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語構造の全体の関係である》。吉本が「言語構造全体の関係」と書くとき、「主体の把握による意味作用が意味の本質である」(時枝誠記)と、「音声や文字として示されたかたちはその背後の認識とつながり、そこに固定された客観的な関係が意味である」(三浦つとむ)という認識とが批判的に継承されている。その批判は「指示表出からみられた」という部分に託されているのだが、吉本は時枝の主体論と三浦の反映論を、つぎのような大きなスケールのなかに移し変えた。 《言語の指示表出性は、人間の意識が視覚的反映をつとに反射音声として指示したときから、他と交通し、合図し、指示するものとしてきまった。(略)言語を媒介として世界をかんがえるかぎり、わたしたちは意味によって現実と関係したたかい、他との関係にはいり、たえずこの側面で、変化し、時代の情況のなかにいるということができる》。 一方の竹田は近著『現象学は〈思考の原理〉である』において、言語行為の本質を次のように書く。《その基本関係は、言語行為は、一般に、言語によって他者と世界を共有しようとする関係的な試み(企投)であって、人は、「語の一般意味」を利用して自分のそのつどの「企投的な意味」を他者に投げかけようとする、というものです》。ここから竹田は欲望論へと向かうのだが、いずれにしても竹田言語論のもっとも要のところには、欲望論的な変奏とはなっているが、時枝‐三浦、そして吉本言語論へとリレーされてきた言語意味論の本質的な部分が明らかに受け継がれている。 さて加藤の場合はどうか。竹田は「発語主体‐言語表現‐受語主体」という連関に言語の本質を見、「現実言語」とその連関を取り去った「一般言語表象」という基軸を立てた。加藤はそこにもうひとつ、文学テクストのみがもつ発語主体の固有性に着眼し、「虚構言語」という概念を加えている。 加藤の説明はやや分かりにくいところがあるが、私なりに受け取るならば、「言語コンテクスト連関が『抜き取られている』」のが「虚構言語」であると書かれているのを目にするとき、それは吉本の自己表出概念を大きく背負ったものだということが分かる。なぜならば、言語連関が「抜き取られて」いても自立した作品世界として受け取ることができるのは、何よりも言語の自己表出性によるからである。それぞれの作品に固有の強い自己表出性が文学テクストとしての自立性を保証しており、そのことこそが、加藤のいう「虚構言語」を虚構言語たらしめているのだ、逆に言ってもいい。 《意識の自己表出からみられた言語構造の全体の関係を価値とよぶ》(吉本)。これだけ取り出しても分かりにくいかもしれないが、加藤の虚構言語とは、まさに「意識の自己表出からみられた言語構造の全体の関係」が訪ね当てられようとしたものである。 ならば「換喩」とはなにか。加藤は何を言いたかったのか。 加藤のテクスト論への批判は、まず、ある作品が「このようにも読める」ことは伝えるが、「このようにしか読めない」とことを説明しない(できない)と、まさに文学作品の価値をめぐる問題として始められている。そして換喩とは、『異邦人』や『海辺のカフカ』は「このようにしか読めない」が、それは従来の文芸の理論では解読できないと感じた加藤によって、ならばどうその作品世界を理解するかということのために示された批評装置であり、いわば作品の価値づけという加藤のモチーフを直接背負い込んでいる。言ってみれば、文学作品における言語の自己表出性の決定的な変容を加藤は受け取っているのであり、換喩という視点による作品解読を通して、言語の「価値」の変容を伝えようとしているのだというのが、私に訪れた理解である。 * おまえの読みは、吉本にひきつけすぎていると言われるかもしれないので、最後にもうひとつの推測を記しておこう。 『小説の未来』に特徴的なことは、加藤に独特の喩やレトリックがおよそ姿をひそめていることである。加藤典洋という書き手は、体系性や構築性によってではなく、着想や喩、叙述そのもので原理的強度を示してきた書き手である。「頭と心と身体がばらばら」とか「解離性同一性障害」とか「ゾンビのように生きる」とか、加藤にしてはベタな説明ではないか、ここでこそ喩の出番ではないかと感じさせた箇所がいくつかあるが、おそらく自己の資質に逆らってでも、また何ごとかを犠牲にしてでも原理的記述たらんとしたゆえである、という推測も不可能ではない。何をしてそうさせているのだろうか。 この国の文芸の批評は、漱石の『文学論』、朔太郎の『詩の原理』、吉本の『言語にとって美とはなにか』という、途方もない原理的著作をもっている。そこに共通していることは、輸入の理論ではなく独力でなされた仕事であること。そして三作とも恐ろしく孤独な姿を晒していることだ。原理的な徹底がはかられるほど、孤独は大きく、悲劇の相貌を濃くする。孤独と悲劇はおそらく文芸の批評が原理論たろうとするときに、どうしても免れない宿命のようなものではないか。そこには深い背理とも言うべきものがあるのではないか。根底的な仕事はそれが徹底しているほどに孤独と悲劇を抱え込む、何も文芸の批評には限らない。そのような一般論を持ち込んだとしても、いわく言い難いものが残る。私は菅谷規矩雄という存在を思い浮かべているのだが、菅谷の仕事が見せていた原理的な強度は、他の追随を許さないところがあると感じていた。その晩年は、この原理への志向性の強さゆえに自壊していった痛ましさではなかったかと思えてならないところがある。そして菅谷もまた、輸入論者ではなく、独力で歩む思索家だった。 なにをして、こうした孤独な営みに向かわせることになるのだろうか。私のようなものには想像を絶していると言うほかないのだが、ここで一巡りして、私は最初の感想に引き戻されるのである。 |