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『「こころ」はどこで育つのか』(洋泉社・新書y)
滝川一廣インタビュー集

40年に及ぶ「子ども臨床」の
現場から贈る、深い洞察の言葉。
発達障害の子どもたちはどんな世界を生きているのか。支援
する大人たちはどう寄り添えばいいのか。3部作ついに完成!

●目次と「まえがき」(滝川一廣)と「あとがき」(佐藤幹夫)

【目次】

第一章 依存と発達
本書の通奏低音として――自立することと依存すること
「社会保障改革」をよりよいものにするために
地域生活の支援をどう可能にするか
自立は孤立ではない
「生き直し」のために必要なこと
原理主義に走る「自己責任」論の危うさ
ひとは「依存」する存在である
「感じる責任」と「求める(求められる)責任」は重ならない
発達障害と責任能力

第二章 「親」であることの責任
養育とはどんな営みか
「自分のせい」と「親のせい」、なぜ一貫性がないのだろうか
社会的関係としての「親‐子」
親はどこまで責任を求められるのか
子どもの育ちと養育

第三章 「こころ」はどこで育つのか
――「児童虐待(チャイルド・アビューズ)」を取り上げながら
乳幼児期の発達研究
乳幼児期の愛着形成がなぜ重要なのか
愛着理論の批判
トラウマ(心的外傷)の深刻さ
アビューズ(児童虐待)からみる子育てのあり方
トラウマと三つの防御反応
トラウマとPTSD
PTSDが発達にどう影響するか
アビューズと生活困窮と「ゆとり」
乳児期のアビューズが子どもから奪うもの
「しつけ」のもつ意味――意志はどう形成されるのか

第四章 「性」の発達をどう考えるか
刑事事件から@――浅草事件
年齢と性の発達のギャップ
刑事事件からA――大阪・寝屋川事件
性を語る難しさについて
少年犯罪の「わかりにくさ」と発達障害
「初交」経験と発達障害
養護学校の「性教育」が呼んだ波紋
相対差としての発達の「障害」
「認識」と「関係性・社会性」という精神発達の二つの軸
精神発達の全体を図示してみる
様ざまな発達障害とその分布
ピアジェとフロイトの発達の考え方
関係発達をうながす原動力としてのフロイト理論
エロス的関係の能動性と受動性
発達の基本的しくみ@――口唇期から肛門期へ
発達の基本的しくみA――男根期について
発達の基本的しくみB――「人間の原型」から「人間」へ
社会の複雑化が思春期に与える影響
知的な遅れをもつ子どもたちの「性」
パートナーを得た発達障害の人たちから見えること
発達障害の子どもたちの「性」
まとめとして

第五章 育つことと育てられること
――中井久夫の姿勢から学んだこと 
出会いのころの中井久夫
「生活」に入っていく精神療法
医者という役割と患者
共有できる言葉をみつける

終 章 3・11を体験して
 三月一一日から数日間のこと
福島第一原子力発電所の事故をめぐって
「欲望」としてのエネルギー問題
原発問題のこれからと日本の未来
未来の誰に、何を託すか
職業意識と「尊厳」

あとがき  佐藤幹夫


まえがき

『「こころ」はどこで壊れるか』、『「こころ」はだれが壊すのか』に続いて、三作目の佐藤幹夫さんによるインタビュー集である。二作目のあと、壊れるばかりではナニだから、締めはこころが育まれる話にしましょうね、と語りあった覚えがある。もともと三部作にしようという構想があった。とはいえ、三作目が育まれるのに時間がかかって、最初の本が出て一〇年を経ている。その間あきらめずに育て続けてくださったのが佐藤さんで、一・二作目を手がけ今はフリー編集者の小川哲生さんがお産婆をしてくださった。

 サブタイトルのように「発達障害」が、今回のひとつの大きなテーマとなっている。発達障害に関する本はすでに山ほど出ており、うっかりすれば砂浜に砂を一粒加えただけになりかねない。しかしそこは佐藤さんで、これまでにあまりなかった切り口から問いが発せられ、その問題提起がなければ深く考えたり掘り下げないままに終わったかもしれない内容を多くはらむものになった。一石を投じるとまではゆかなくても、少しは色合いのちがう砂の幾粒かを加えられたかと思う。もとより、佐藤さんの深い問題意識の賜物である。

 さらに目次を開けばわかるとおり、本書はいわゆる「発達障害の本」の体裁をとらず、内容を多岐にわたらせている。第二作からこの第三作までの月日にいろいろな事件や社会問題が起き、その折に触れインタビューを受けたり、佐藤さんの関わる会で語ることを求められてきた。本書は、その内容をたくさん織り込んで構成されている。出来事にぶつかるつど大々的に報じられて議論が盛り上がるけれども、すぐ忘れられて新たな出来事に関心が移り、それもまた考え抜かれぬまま次に移ろうということの繰り返しが私たちの社会の思潮のように見える。むろん、すぐに答が出せる問題ではないことばかりだろうが、だからこそ粘り強く考え続けねばと思う。「滝川さん、これについてちょっと」「今回はこのテーマで」という選択のうちに佐藤さんのシャープな感度が生きていて、旧聞に属する出来事をめぐる話題も決して古びてはいないはずである。

 多岐にわたる内容となった理由は、もうひとつ。なにごともそうだが、たとえば「発達障害」なら「発達障害」を深く理解するには、「発達障害」ばかり詳しく調べてもだめで、その周辺やそれ以外の事象へ視野をひろげて、全体的なパースペクティブから眺める必要がある。それによって初めていろいろ見えてくる。この世の事象には、孤立的に単独で生じるものは何ひとつなく、どんな事象もかならず他の諸事象とのつながりから生起するものだからである。この本では、ひとつは社会という空間的なつながりのなかで、もうひとつは発達の道筋という時間的なつながりのなかで、「発達障害」をはじめ、子どもたちの「こころ」が育まれてゆく姿をとらえることを試みた。これが本書全体の流れをつなぐ二筋の糸となっている

「壊れる」のではない本にするつもりだったのに、最後になって東北・福島で大破壊が起きてしまった。避けるべきではないと、付章を付け加えた。長いときを要すると思うけれども、すこやかな復興と再生の道がたどられることを祈りながらまえがきの筆をおく。

                         

                     3・11を目の前にして                                                                 滝川一廣



あとがき

 滝川一廣さんへのインタビュー集の第三弾をやっとお届けすることができ、肩の荷をおろした思いでいっぱいである。

ホームページや講演会で、ことあるごとに、一生懸命進行させています、間もなく出来上がりますのでいま少しお待ちください、とくり返してきた。進行させている、というのは嘘ではない。現に三、四年ほど前に、私の仕事場まで足を運んでいただいて、テープ二本分、回し続けたこともあった。しかし、何かが足りないという思いの中で、それ以上の作業を進めることができずにいた。年を追うごとに滝川さんのお忙しさも数倍し(ひょっとしたらその責任の一端は、私にもあるかもしれないのだが)、気安く、三弾目のインタビュー集を早く仕上げましょう、と切り出せる状況ではなかった。

 加えて、テーマや内容をどう引き絞るか、私自身が、いま一つ決めあぐねていた。

 最初の『「こころ」はどこで壊れるか』は、精神科医療全体への批判をふくませながら、治療するとはなにか、病むとはどういうことか、疾患名はどう決まるのか、治癒するとはどんな状態になることなのか、といった、精神医療の基本的な考え方についてお話いただいている。いわば基礎編・原理編といっていい。

次の『「こころ」はだれが壊すのか』は、前作の問題意識を社会での出来事に絞って展開した作で、応用編ともいうべき内容になっている。では三作目はどうするのか。シリーズものは回を重ねるごとにパワーを落としていくというのが、出版業界の常識≠轤オいのだが、是非ともそれだけは避けたい。似たような内容を薄味にし、とにかく仕上げてお出しするという本作りは、何よりも滝川さん自身がよしとはされないだろう。

そこへ東日本大震災が突如として勃発した。津波と原発による被害は東北地方の半分を壊滅状態にさせるほどで、その事態は、多くの人々を打ちのめした。この企画が立ち上がるまでのあいだ、滝川さんとは何度かお会いしていたのだが、二人とも、ただただ事態の深刻さの前で呆然としたまま言葉を失っているような状態だった。そこへ思いがけない方角から仕掛けてきたのが、フリーの編集者となった小川哲生さんである。そんななかで、だんだんとテーマと構成が決まっていった。

一つは、目下の急を要する社会保障改革につながる話題を入れること。二つ目が、放射能汚染問題まっただ中の日本で、これからの子育てをしていかなくてはならない若い母親と父親へのメッセージを、鮮明にすること。そして三つ目が、発達障害支援の中でも難問中の難問であり、過半の論者が触れずにきた「性」と「重大犯罪」の問題に、真正面から取り組むこと。この三点を柱とした。そして全体を通したメインテーマは、「育つ」あるいは「育てる」ということ。期待通り滝川さんからは、臨床的でありながら物事の本質にまで降り立った深い洞察と、スリリングな思考が語られることになった。ぜひ御堪能いただきたい。

ところで、これにて完結かと思っていたのだが、じつは重要な宿題が残っていることに気づいた。学童期から青年期までを含めた「特別支援教育」、あるいは「教育」というテーマである。それはまた、危機の中でかろうじて持ちこたえている「教師」という存在への、後方からの支援となるはずのテーマでもある(大阪が、なにやら物騒な事態になっていることでもあるし)。

とにもかくにも、まずは本書が多くの方々の手にわたる必要がある。ぜひともご一読いただくことを願っている。

  二〇一二年二月二九日 
                                    佐藤幹夫