トップページに戻る

精神保健福祉「改革」の向こうにあるもの
 佐藤幹夫(「健康保険」04年1月号掲載)


1 「改革」の背景となっていること

 厚生労働省が、平成一五年から精神保健福祉改革の具体的取り組みを始めるとし、そこで示された重点的な施策は以下の四点である。

(1)普及啓発(精神障害に対する社会の正しい理解をはかり、当事者の社会参加の機会を増やす)
(2)精神医療改革(病床の専門化し機能分化をはかり、病床数全体を減少する。救急体制と地域ケア体制の整備)
(3)地域生活の支援(居住先の確保と雇用の支援、相談機関の充実)
(4)「受け入れ条件が整えば退院可能」な七万二千人の早期退院

 こうした施策を打ち出す背景には、日本の精神医療が先進国と比べ、入院日数が長いと考えられていること。精神科病院がかつての歴史のなかで背負ってしまった「沈殿患者」や「収容所」的イメージを払拭し、患者の人権への配慮ほか、「近代化」をはかろうとする意図を目に見えるかたちで打ち出そうとしていること。高度情報社会として複雑化したなかで、うつ病、ストレス疾患などを訴える人が増加し、医療の対象とされる人たちの裾野全体が広がったこと (知人のW氏によれば、自身が内科医として勤務するある大学病院では、精神科がもっとも多い患者をかかえているという) 、などの事情が、ひとまずは考えられる。

 ところで、この四つの提言は、きわめて妥当なものである。一読するかぎり、誰もが一刻も早くかくあってほしいと願う内容の提言となっている。そして筆者に与えられたテーマは、このような提言を踏まえた現場の報告、ということなのだが、取材を進めるなかで、さまざまなことを考えさせられた。その「だれもが反対しない」提言の向こうには、きわめて複雑な事情が絡んでいる。結果、そこに踏み込まないままの報告はあり得ない、という筆者の判断のもと、たいへんに「問題提起」色の濃いものとなったことを、あらかじめお断りしておきたい。

2、医療現場の「声」

 この間、取材を続けながら痛感したことは、問題の微妙さゆえの、取材の難しさである。筆者の住まう近隣の病院ふたつほどに取材申込みをしたのだが、いずれも断られた。紹介もなしの飛込みだったから、きわめて当然だと言えば言える。患者さんの側の声も、とも思ったのだが、それも適わなかった。取材の趣旨を丁寧に説明してのことだったが、見ず知らずの者が、いきなり「お話を」と言ったところで、警戒されるのは当たり前である。触れてもらいたくないことだってある。こちらにとっても、取材の相手が、とにかく誰でもいいからというわけにはいかなかった。くり返すが、精神医療という問題は、きわめて微妙で複雑なテーマである。取材される側と同様、する側も、やはり信頼のおける方であり、信頼関係に基づいたものであることが必要なのである。
 というわけで、以下、三人の方に絞ってその「声」をまとめてみた。

 まず、精神科医・滝川一廣氏。筆者は、滝川氏とインタビュー集を二冊上梓している(注―『「こころ」はどこで壊れるか』『「こころ」はだれが壊すのか』いずれも洋泉社・新書y)。いわば筆者にとっては、もっとも信頼のおける精神科医の一人である。その滝川氏が、理念は大いに結構なことだけれども、と断りながら真っ先に触れたのがコストの問題であった。

「こうした改革は前から言われていたことですが、今回出された提言には、コストについてまったく触れられていませんね。ほんとうにコストの裏づけがあるのかどうか。救急病棟、地域支援、こうした提言を真剣に実行しようとすると、膨大なコストがかかることになりますが、それがないかぎり、実効性は薄いですね」。確かに今回の提言は、常設の医療のみならず、緊急時支援と日常生活支援(就労、住まい、サービス施設等)の強化がうたわれている。このことがどのようなコスト計算がなされているのかは、提言からは見えてこない。滝川氏は、また次のようにも述べる。「早期退院をいっていますが、裏読みをすれば、それだけ入院費を節約できることになりますね。これによってどれくらいコストが浮くのか。それをどこに、どんなふうに回すのか。そうしたことが論じられていませんね。この提言の本音が、医療コストの削減にあるのか、ほんとうに患者さんのケアや暮らしやすさを考えたものか、ちょっと心配ですね」。

 さらに滝川氏は言う。「それから救急医療に力を入れるともうたわれていますが、これはどうしてでしょうか。いきなり急性錯乱で始まる精神疾患は少なく、全体としてはゆるやかに始まっていくわけです。むしろ早期ケアと、患者数に追われて十分話も聴かずに薬だけ出すみたいな現況ではない、こまやかな通院治療がはかれる診療システムを充実させるほうが重要です。救急から医療が始まると考えるのは、そもそもおかしな話です。ですから救急、救急と言っている裏には、社会防衛的な含みがありますね。病床の削減と救急医療とはセットに考えられていて、危ない患者さんは救急で社会防衛して、一方ではどんどん社会に出してしまおう、そういうことなのでしょうか。これで手厚い治療ができるでしょうか」。

 しかし長期入院の問題はどうか、日本の精神科病棟の「収容施設」性への批判は相変わらず根強いが、と筆者は尋ねてみた。「そこには日本の社会的な特性がありますね。自分たちの見えないところに問題を押しやっているのです。たとえばストリートチルドレンが日本にいないのは、児童養護施設という決して条件がいいとは言えない集団ケアのなかに囲い込まれているからですね。わが国では千人に一人を超える割合の子どもたちが施設入所児です。もし精神医療の「収容施設」性を批判するのであれば、こちらの方も同じように問題視しなくてはならないですね。障害者であれ子どもであれ、一度家族から見捨てられたり家族のサポートがなくなると、とたんに社会のなかで生き場をなくしてしまう。これが日本の社会的特性です。社会的特性全体を考えず、精神医療の特殊性とのみ捉えてしまうと、少し間違えてしまいますね」。そして在院日数の問題を考えるのであれば、「在院日数を伸ばしているのは、昔の、たしかに医療がひどかった時代に発病し、社会への足がかりを失ってしまった人です。近年になって発病して入院した人がどうか、ということはきちんと分けて考えなくてはいけません。大雑把なマスとして捉え、アメリカは二週間で退院、日本は数年。だから日本の精神医療は遅れている、というのは、議論としては荒っぽすぎますね」。

滝川氏はまた、アメリカ型の精神医療(DSM診断マニュアルと、脳の損傷に疾患の原因を求める生物主義、薬物治療への過大な依存に代表される)を、近年、とみに無批判に受け入れている現状に、強く警鐘を鳴らす医師の一人でもある。この改革の方向性はアメリカの精神医療がモデルとされており、それが大きな危惧だ、とも滝川氏は言う。「アメリカの医療改革も、患者さんの人権や長期入院の問題などをうたい、病院開放をやりました。それは表看板で、裏には保険など医療経済の問題がありました。そして病院から開放された患者さんがその後どうなったかというと、膨大なホームレスを作ってしまったのですね。自殺者もたくさん出ました。その教訓をきちっと踏まえているのでしょうか。そうでなければ、アメリカの病院開放の二の舞になりかねませんね」。いままちがいなく、自己責任・自己決定を軸とした競争にもとづくアメリカ型の「新自由主義」が、この国でも急速に進んでいる。精神医療や福祉という「社会的弱者」が対象とされる分野に、そうした理念が相応しいかどうか。「コストの問題を伏せ、理念を先行させたまま改革を進めようとすると、そのしわ寄せを受けるのは、かならず現場であり、患者さんですから」と締めくくった。

 滝川氏はきわめて丁寧な臨床家であり、医師としての氏に信頼を寄せる方は多い。のみならず、たいへんに広い社会的視野から精神医療の問題を捉えている。滝川氏は「患者さんがもっとも望んでいることは、普通の医療を受け、普通の暮らしをすることです」とも言う。しかし言外では、その「普通」が実現されるためのコストすら充分かどうか、と言っているように筆者には思えた。

 次は富田三樹生氏である。精神医療という分野は、医療と福祉の問題であるとともに、かならず社会治安、保安の問題を伏在させている。氏は現在、都内の病院の院長として臨床に携わるかたわら、戦後の精神医療政策の貧困、諸矛盾に、たいへん鋭く厳しい批判を投げつづけてきた一人である。その富田氏も、やはり予算配備の問題を指摘された。

 精神医療「改革」の「病床の機能分化・地域ケア」が充分なされるためには、相応の人的配備が必要であるが、しかしそれを阻んでいるのが、一九五八年に制定された医療法の特例である。そのときに対象となったのは、精神病床、結核、ハンセン病で、この三つは医療法の基準を満たさなくてもいいという基準ができた。二〇〇〇年の第四次医療法改正では、結核とハンセン病は特例を解除されたが、精神科だけが維持されたのだという。そこには政・官・行の構造的癒着があるのではないか、と氏は批判する。「地域医療の方向性と、人員配置の見直しのためにもっとも必要なことは、特例の廃止ということです。特例とは、簡単に言えば患者四八人に対して医者が一人いればいいということですが、一般科は一六人に一人です。精神科も、いますぐ一六対一にはならなくても、三二対一くらいになると、少しは良くなるのではないかと私は思っている」。

 そして「地域生活支援」の件にかんしても「方向性自体は間違っていません。しかしいま、保健所の力がなくなっているのです。どういうことかと言いますと、精神医療は基本的に都道府県単位であり、都道府県であればそれなりに財政力がありますが、保健所の機能は市町村に下ろしたわけです。市町村は財政的基盤が弱く、ノウハウもない。つまり、行政の末端の力が落ちているのです。ですから、地域で患者さんを抱える機能が衰退して、病院へ丸投げするという状況が生まれている。グループホームや地域支援センターなどの新たな地域拠点に関しては、実際に補助金などがおりて増加しているのは確かですが、そこでも、きちんと機能を果たしている所はごくわずかではないでしょうか」。

「こうした現状もあり、世論もありますから、いずれは医療法特例を改善していかなければならない、そのとき従来の民間病院をどうするか。精神科病院を何らかの社会復帰施設として、患者さんたちがそこに住む場所として、生き残させる。そういう方向が探られています。今回の提言も、それを睨んだとものなのではないか。いままで病院だったものが「〜〜ホーム」になって、その敷地内に「〜〜病院」と「〜〜ホーム」がある。そういう構図がいま具体的に考えられている、と私は思っています」。 それは検討に値する方向ではないかと筆者は受け取ってきたが、と問いかけると、しかしここには危惧されることがある、と富田氏は指摘する。「数年前に長野のある病院で、患者さんの使役にかんして問題になったことがありますが、そこではすでにそういう構図ができていた。使役させられた人たちがどこからくるかというと、病院がつくった住まいが敷地内にあり、そこに住まわされ、そこから雑役夫として出勤するのです。そればかりか、病院のベッドが空くと、こんどは患者として入院させられる。こういうことが可能になってゆきます」。なるほどこれでは、かつて宇都宮病院が引き起こした不祥事と、同じ構造ではないか、と筆者にも危惧された。

 そしてこのことは、「七万二千人の退院可能な患者の早期退院」という一件とも関連してくる、とも言う。この「七万二千」という数は、病院にいる医師たちにアンケート調査をしたうえでの数であるが、 「この数は、長期入院者が年々歳を取ってゆく現状がある。五年十年たつと、どれくらいの人が亡くなるか、その計算が成り立ちます。退院可能な人たちを退院させる努力をしなくても、亡くなってゆくという計算が一方にある」。そして「長期在院者を退院させるというのは、実際にやろうとすると、大仕事なのです。とくに一般のアパート単位の居住を可能にするというのは、ほんとうに大仕事です。老人になったから、敷地内の老人ホームに移す――病気としては安定しているし家族はいないし、一人では生活はできない――、ということであれば、これも退院ということになります。そうではなく、本当に七万二千人の患者さんを退院させるということであれば、これはたいへんなことです。本気でやるのかどうか。その辺も注意して見なくてはならないところです」。

 ところで、富田氏がもっとも力をこめて話したのが、この七月に国会にて可決された「心身喪失者等医療観察法案」の問題だった。今回の医療改革の提言は、この法案と車の両輪であるとされていたが、すでに今年度、新法に予算が振り当てられ、社会復帰のための予算は削られている。このように様々に影響を与えずにはおかない、等々、取材時間の半分以上を費やして話し続けた。この法案に対しては、筆者の知る限りでも、精神疾患を抱えもつ人々はきわめて大きな不安を抱いている。富田氏のお話は、淡々とした口調ではあったが、強い怒りに満ちたものであったことを付記しておきたい。

 最後に臨床心理士として、患者さんたちと日常的に接することの多いK氏に聞いた。K氏は都内北区の、病床数九〇床ほどの小規模の病院に勤務する。そこで、心理療法やカウンセリングなどのほか、患者さんたちの食事、買物、散歩など生活全般にかかわっている。K氏は、こうした地域医療や早期退院の流れは、八〇年代から始まっており、それは知っていたと言う。「精神病床の機能強化についてですが、まず、急性期と慢性期の患者さんを分けるということが言われていました。急性期の患者さんの治療は三ヶ月をめどに、慢性期の患者さんはリハビリを中心にということですね。でも、三カ月で快方に向かうことはまれですから、仕方がないので、ほかの病院に転院させるということになってしまいます。保険の点数の問題もありますし。慢性期の患者さんについて言えば、対応するスタッフが少ないのです。こうしたことは患者さんには良い状態ではない、と私は思います」。

 地域ケアについては、つぎのようなことを話してくれた。「私の病院でも、こんどデイケアを立ち上げるのですが、家にいる患者さんが、どうしても引きこもりがちになったり、地域から孤立してしまうのですね。むしろ、そのことへの対応です。それから退院できない患者さんに対しては、家族とつなげることが、ひと苦労です。家族の援助を受けている人は家族へ戻せるでしょうが、家族と切れている人には、まず家族へアプローチしなくてはなりません。これがひと苦労なのです。地域支援以前の問題が、まだたくさんあるのです。ですから、現場での私の実感としては、とにかく、慢性化した患者さんを地域や家族へ戻すには、相当の労力と時間とが必要だということです。この点については、それぞれの現場で、それぞれの専門家達が協力して地道な努力をする以外に方法はないと思いますが、そのための費用や支援が具体的に示されていないことには、いくら立派な理念を掲げても実を結ばないような気がしますね」。形だけの「病床の機能強化」や「地域支援」では、むしろ患者さんの側に負担が増える。K氏が言うように、それでは、何のための「改革」か、ということになる。

 以上、問題提起的な報告となったが、これらは医療の現場にいる人々の願いとして、決して少なくはないものではないかと思われる。

3 終わりに

 戦後、精神保健に関する法律は、何度か変遷をたどってきた。六〇年代に始まる民間の精神科病院の建設ラッシュ。しかしそこにあった諸矛盾は「宇都宮病院事件」として現われ、それをきっかけとして成立したのが精神保健法(一九八八)であった。言ってみれば、精神科病院のあり方、患者の処遇などをめぐる、今回提言された問題の要因は、この六〇年代においてすべて出揃っていた。そして、以降の法改正のたびに、その改善をはかるべく提言が、何度もくり返されてきたのである。

 とくに一九九五年に成立した「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(精神保健福祉法)」の制定にあたっては、その名が示すとおり、患者の側にたった医療施策と、福祉政策との連携の重要性が強調された。ちなみに
(1)精神障害をもった人の人権保障 
(2)強制医療から非強制・自発的医療へ 
(3)地域ケアを質量とも高める 
(4)治療処遇の二者択一から多様化へ 
(5)早期発見・早期治療の推進、精神科救急の整備 
(6)充分なマンパワーの供給 
の六点がそこでの柱となっている。だから今回の提言は決して目新しいものではなく、すでに十数年も前から叫ばれ続けてきたものだということが分かる。

 しかし、今回、決定的に違っていることがある。それは、先にも触れたように、自己責任・競争原理の導入、といった言葉に代表される制度改革が、この国で急速に推し進められつつあることだ。こうした大きな社会的動向の変化は、経済や省官庁のみならず、教育、医療、福祉などの分野においても、いま確実に現われつつある。そして今回の「改革」も、明らかにこの延長上にあるものだ。それは組織構造の変化にはとどまらず、そのあり方の全体(つまりは考え方そのもの)をも変えるはずである。言うならば、福祉も医療も教育も、その与え手はいまや、「契約にもとづいたサービス」として、質的充実とともに効率性を最大限はかることが大きな指標とされる時代となった。しかし精神医療や福祉は、それを目に見えるかたち(数値)で示すことの、たいへんに困難な分野ではないだろうか。そこでは受け手も自己責任を問われることとなるが、このことはあらたなひずみをつくりだすことにならないか。この点が、筆者にもっとも危惧されるところなのである。

 今度の精神医療「改革」が実効性のあるものとなるために何が必要かは、すでに先の現場の「声」からも明らかだろうと思う。滝川氏はコストを言い、富田氏は法や制度の矛盾とその先にあるものを言い、K氏は専門家の地道な努力と言う。おそらく三氏とも、同じ危惧を異なる視点から述べたのである。誰のための「改革」か、それを見失うことのないものとなることを強く願い、このリポートを終えたい。


トップページに戻る